嘘偽りの補填が多くを占めるわけでもなく、彼の頭に染みついた記録上の出来事は程よく虫喰われて忘却の途を辿っている。
意味のない言葉や曖昧な指示語で淀むことはあれども、喜一郎の語調は滔々とながれる水脈というよりは山中の肌を舐める小さな沢のようだ。
幽かな存在まで目を凝らさねば見失いそうになる部分もあった。しかし、いずれさまざまな因果で合流し、地へ流れる。
それらが近々の事情を語るころには、話題が収束する場所に茅之間町という一本を描いて大きく構えていた。
もっとも、いま語られているものは鶴間喜一郎にとって特に印象的な出来事の一端だ。
つまみ食いの話題でなければ、この町のなりたちすら残りの半日でも聞き終えることはできない。
 いかにもらしい伝承や歴史において栄枯盛衰を聞く伊三路はうなずいたり、首を傾げたりしながらそれを聞いていた。
時に聞き返ってきた言葉に答えることができなかった喜一郎と一緒になってうんうん唸り、出し合った意見を擦り合わせて彼らなりの考えをまとめるのだ。
そうして伊三路の勢いはすこしずつ普段の快活らしさを取り戻していた。
はきはきと正気にあふれ、軽やかな振る舞いかと思えば淡々と物事を見ることもする。
奇妙なバランスの感覚上でさらにつま先立ちをするような、親しみがありつつも掴みどころないこどものすがただ。
「そら、元気が出たならば来たついでさ。何が欲しい? ボロからちょっといいものまで、この土地の基準ではあるが贅沢品というような平均以上のものは少々あるはずだ。それくらいには自負せねばほかの者に嫌味というくらいにはでかいだけの家だ。伊三路と祐君には一等先を選ばせてやろう」
「上階もだいぶん呼吸がしやすくなったしな」と、からりとした笑みをしながら喜一郎は伊三路の手を取った。
それから目配せで祐を捉えると、傍に来るように促すのである。
光を拡散するために水入りのペットボトルにかざしていた足元の懐中電灯を手にとり、祐は一歩を踏みしめた。
 伊三路は萎びた様子こそ影を潜めているが、笑みを浮かべる目頭にはわずかに侘しいものが残っている。
今も胸中には薄暗い後ろめたさが蔓延っているのだろうが、引きずった感情が不必要に尾を引くようなことは他人相手に見せない男だ。
蔵を出る頃には暦や由乃に心配をかけるような姿ではなくなるだろう。
祐はそう考えながら後に続いて広い間を歩き出す。
 勾配のある階段の先にあるこの場所には、燻した草木とかつての生活のにおい、それに溶けてほんの微かに白檀のような香りが掠める。
"甘い"と嗅覚が判断する酸素を胸に巡らせた。
潜んだ悪意や歪んだ気配はすでに感ぜられない。しかし、この一歩違えばくらくらと脳を騙してしまいそうな匂いだけは元よりこの場所に存在しているのだと思うと、怪異だけが本能的な吐き気を催すのではないと知る。
地続きの歴史や逸話に現世の倫理と価値、感性を求めるわけではないが、やはりこの建物内の構造は後ろ暗いもののように思えていた。
増築の際に家屋とつづく廊下を渡すわけではなく、蔵の中に生活の痕跡をこれだけ明確にできる家屋の内装作った意味だけがこれを助長している。
伊三路が持つ雑記帳にその答えはあったのだろうと祐は確信めいて察していたが、話をする間を掴みあぐねては話を掘り返す気にもなれなかった。
 
 鶴間喜一郎という人間が"童心"という言葉を持ち出しては大概の粗雑をやり過ごす人間なのかということをいかに知れば、やはり"碌でもない"という言葉を注意深く頭に飾りつけて強調した好好爺である。
 雑多な物入れの中身が、腰痛という無理を押してまでどうこうしてやるという価値に見合わなかった場合の彼は容赦なくつま先で被せ蓋を戻した。
そして今に興味の失せたものが壊れものではなければ、がさつにもそのまま後ろ手で放り出してしまいそうな仕草をしかけてハッとするのだ。
どれも力いっぱいの乱暴をして行うことではない。現につま先の動作もサッカーボールを弄ぶかの如く、足の甲に引っ掛けた蓋や物を、つつ、と静かに戻すのである。
しかし、それはつまり、日常でそういうことを実際にする癖がある、ということなのだ。
彼の語り口から大概のところ、土いじりでむしった草や、手入れして間引きした枝葉、適当な紙類などをよくある頻度でそういう扱いをしているのだろう。伊三路や祐がそう推測するには充分だった。
「飾り用の赤絵皿や肌の見目好い鉱石。ふるい木の玩具。仕付け糸がついたままの着物。みなそうだ。整理整頓のしかたや物の価値自体が悪くはなくとも、眠ってばかりではつまらんだろうな。しまわれては人間が価値を見出すことすら出来んのだぞ。どうだ、いいところの紬でもあれば持っていくか?」
 屈んだ姿勢で共にそれらを覗き込む伊三路に喜一郎は視線をやり問いかけ、すぐに言い直す。
「と、いってもあれのすぐ後では着物をいるかと聞くのは不謹慎かね。一番に使い道がわかりやすくて提案したのだが」
 口を開いてからとても持ち帰りたいとは言えない状況に陥ったことを思い出すあたり、日常から少しばかり離れた物ならば簡単に譲ってしまう程度の気安さは元々彼にあったらしいことが窺える。
沈みかけた空気を不必要に張り詰めさせる理由もなく、質問を投げかけられた伊三路は憚らず忙しく視線を周囲にやっていた。
物品の収められた箱の上辺をよくなぞって視線を瞼のふちで動かし、その仕草は何かを探しているようにも見える。
「昔のものだと祐君の身長では着丈がちっとばかり足りなくなりそうであるが……伊三路に合うくらいならばそれなりにあると思うぞ。どちらにせよ家で着るぶんに問題はないだろうが」
「んーん。おれはまにあっているから平気。祐は?」
 ちょこりと屈んだ姿勢で膝に手をおく伊三路が喜一郎の隣で小さく首を振ると、壁沿いの棚を眺めていた後姿に質問は横流しにされていく。
首だけで半分振り返り、名指しをされた祐は迷うことなく答えた。
「洋服文化だからな。諳んじて着られない服を貰ってもどうしようもないだろう。愛好家に譲ったほうがよほど有意義だ」
恥ずることなく、現代のスタンダードは洋服であると前提にする語り口に対し、「だってさ」と、伊三路は受け取った視線や言葉を中継するかのように復唱して喜一郎へ流した。
 言葉が点と点の中継を往来して戻ってくると、煮え上がる湯のように喉の奥でクックと笑い押し殺し行李を足で奥へ押し込みながら喜一郎は遠くを懐かしむ瞼を伏せた。
「そうさなあ。暦君も前にひとりでは着られる自信がないと言っていたから、最近の若者の中では伊三路と由乃が好き者のほうなんだろうな。男は楽だが、まあ、こういうものは大抵のところ帯の結び方をさすのかね」
「もし」は実在して存在を分岐したものの、貰い手には縁がなかったそれに再び被せ蓋を掲げ、就寝前の挨拶をするが如く喜一郎は囁いて笑った。
 倉庫に組み立てられたラック収納のような殺風景の並びに、素材や特徴によって名が変わるだけの収納箱を戻す。
それから、尤もらしく話を聞いては宝探しに興じている様子をする伊三路に僅かながら落ち着きが足りないことを見破り、喜一郎は直球に問うた。
しっくり視線を捕まえては顔を突き合わせ、いやな疑いかたは何一つない。
一から十まで、純然たる真意への追及だ。
嫌味なく、本当は興味のあるものがあることを察していたのである。
「して、伊三路よ。お前、実はなにが狙いだって?」
 つくん、と立ち尽くしていた伊三路は声をかけられて肩を震わせる。
振り返った顔のまま上唇を舌でなぞり、湿らせ、それから平然と答える。
悪びれる様子など一つなく、淡々と、己の要求のみを語るのだ。
「じゃあ、あっちの刀をひとつちょうだい」
「それはだめだ。今でこそ鈍らに見えるが、れっきとして人の肉を断ち血を吸うものだぞ。本物だ。どれ、手元におきたいだけなら模造刀でよいだろう? 警察屋に睨まれるのはごめんだ」
籐籠の中身をまさぐりながら喜一郎は首を左右に振る。
諦めのつかない伊三路は目の形を三角につりあげては渋る喜一郎を引っ張り、刀を鞘から一本一本引き抜いては白刃を翻す。そして同じことを何度も聞いた。
そして、結果はどれも判を押したように同一のことを意味する内容であり、最後の方は「だめだ」という三文字で完結するやりとりが数回続いたのである。
「たしか、あちらに放ったのは美術刀が多い。白く見せるより真剣の色味に似せて作らせたものもいくつかあったはずだから、マニアでも首を縦に振るかもしれんぞ。先に断っておくと、模造刀であれば所持は許されるが、持ち歩くのは当然だめだからな」
顎をさすり、伊三路に諭す。
「まあ、諦めて他のものにしなさい。チャンバラ用のおもちゃでは済まされないぞ。せめて確実に刃が実用的ではなく、危険のないものだ。今回のようなことは警察だの自衛隊だのに任せればいい。お前が無理をする必要はないのだから」
「おれはあのとき、手段と権能を持っていればもっと積極的に力を振るった。迷いがあったのも確かで、それは結果として祐や暦に迷惑をかけたけれども」
自らを嘲笑うような息遣いが鼻を抜ける。
しかし、逃げることも卑下することもなく、伊三路はしっかりとした口調で続けた。
「もし次に似たことが起きて、いいや。次もきっとある。その時――今回のように収めなくっちゃいけないとき、それはほとんどの場合はおれにしかできない。その"けいさつや"さんが来る前にどれだけの犠牲を許せというのさ。毎回どうにかやりくりできる保障なんてない」
「しかしお前がわざわざ首を突っ込む必要だってないだろう。ならば伊三路よ、お前が次は迷いなくやれるという根拠は?」
 語調が徐々に強くなっていく。顔を突き合わせ、語るほど二人は燃え上がり、その場に同じくして居る祐は我関せずを貫く他ない様子だった。
下手に口出しでもすれば、二人のやるせない矛先が一気に自分へ向くのではないかという熱気すらもが感じられていたのである。
「ただやみくもな責任や一時の興味でそれを欲しているわけではないし、元々おれには彼女らに何かがあれば手ぶらでも首どころか頭を突っ込む気だった。手段がそれだけすくなくとも、時間稼ぎくらいは、ね」
負けじと強い目が、波打ち際のようにぶつかりあう。
そこに残るのが水の泡がまるで撚り合わせた軋轢であると語るかの如く大きく横たわる。
「おれはおれの役目を理解しているつもりだよ。いざというとき、一般論の秤にかけることは、それなりにしてきたつもりなんだ。正確な記録として諳んじることができる」
「つまり、これに直面したのは初めてではないと?」
 言い切った喜一郎は聞き分けのない子どもを親心に離すまいとする焦りによって、その胸に燻るよくない感情を逃がすために行儀悪くも片足を小刻みに揺さぶっていた。あくまで彼は伊三路のことが心配なだけなのだ。
「今までも危険があって、自分がそこにいればそうしてきたというのか?」
呼吸の間もない。
間髪入れず、そして恥ずべきことも後ろめたさも一つとしてないと伊三路は肯く。
「そうだよ。被害を抑えるためだって心から言えることだ」
「こっちのほうは、なにひとつとして、証明をしてみせることのできる過去は残っていないのかもしれないけれども」と、付け足した言葉のうち、しかしながら逸らさない真っ直ぐな視線だけが険しく事態を見抜いていた。
 それから伊三路は祐を一瞥した。
会話の中で唐突に投げかけられた意識に祐が顔を上げると、伊三路はうんともすんとも言わずに再び前を向いたのだ。
 明らかに気のせいではない。背後で物音がしたわけでもない。
一体なんだ?
祐がそう思いかけていると、視線の先にいた伊三路は喜一郎に近づく。
直後、喜一郎は苦い顔へさらに皺をよせ、深いため息と共に落胆したのだ。
ゆっくりと目を見開いた様子から、伊三路が何かを彼に耳打ちしたのだろうと祐は静観していた。
無意識のうちで探るように二人の姿を窺い、姿勢を僅かに低くする。
「いいだろう。その言葉と、お前の先までの考えは嘘ではないな」
確かに伊三路は祐に聞こえないように耳打ちをしたのだ。
しかし、事実を口にしながらも半分は賭けごとのような可能性に賭けていた伊三路は素直に、愚直に、驚きの声を上げた。
「えっ、そんなに簡単に信じてくれるっていうの」
「なんだ、交渉をしてきたくせに。それともハッタリか? それにしては……」
口ごもった様子を見逃さず、伊三路は毅然とした態度を繕い直して喜一郎を引き止めた。
この交渉の末に自身の勝ちを見たのか、肩を回し、身体をほぐしながらやわい息をはく。
緊張疲れの滲んだ表情で伊三路は笑った。
「嘘ではないけど、反応してくれるかは賭けだった」
「ふむ」と、納得をして肯くと、観念した言葉が警戒を解いて無防備をさらした。
「そうだな。長く生きていると、実際に知り合った人間からその手の話を聞くことがある。この土地で似たようなことを言う人間に私が出会ったのはお前で三人目だ」
 どこか上の空の様子であり、時に言葉を選ぶために言葉を詰まらせる。
喜一郎は首を伸ばし、ひたすらに長く感じる沈黙の中で天井の木目を眺めていた。
それからきちんと伝える決心をすると、そうっとした指先が伊三路の肩についていた綿埃を摘まみ、ゆっくりと剥がす。
「一人目は私が信じなかったから死んだ。成人してから知り合ったがよく気の合う友人だった。言いかたは悪いが、あの頃は人死にがそれなりにある時代だった」
指先でつまんだ綿埃を吹き飛ばし、伊三路の肩よりも向こう、壁の色を眺めながら語る。
息を呑む。それが伊三路のものか祐のものか定かではない。
「事故として処理されたさ。急激な経済成長の最中、追い付かない安全規則が結果的に人命軽視の遠因になったようで悲惨なものは他にも多かったのだが、私のいま言ったそれはどう考えても飛び抜けて不可解だった」
かつての遠い過去を眺める語り口は、ぼんやりと膨らむ曲線を描き、落としどころがない語調をしていた。
窄めた唇の強い呼気で吹き飛ばされた埃はやがて空で失速をする。差し込む光から遠ざかると、目を凝らしてもなかなかみつけることは出来なくなっていった。
事が起きてもどうにかやり過ごす日常のように殆ど無意識の動作で指先を服の裾で拭った喜一郎は言葉を続ける。
「二番目に会ったかつて少年だった男は――ああ、彼は立派に存命であるよ。とにかくその彼から、『もし、自分と似たことを真剣に語る人間に今後会うことがあれば、もう少し優しくしてやってほしい』という嫌味を未だ会うたびに言われるのだ。事実としても、私は彼が本格的にその道へ進むまで半分も信じていなかったのだから仕方のないことかもしれんがね」
 具体的な言葉の内容に驚き、目を皿のようにした伊三路は先ほどのまでの力がぬけて口端の上がった唇のままで、しかし訝しむことを隠さず聞き返す。
「それ、だれ」
「うん? その話は長いからまたにしないか。本ッ当に長いのだぞ。いまは土地を離れているが、盆正月には必ず帰郷する律儀な男だ。機会さえあればいい場を作ってやろう。恐らくであるが、君たちのいうものは共通していると私は考える」
"かつて少年だった男"が成長していく様が如何に憎たらしいかを鮮明に思い出して苦い顔をした喜一郎は思考を放り投げる。
その言葉がたっぷりと間をとる様子から波乱万丈な過去に想像が掻き立てられるものの、ひとつとして語られるものはない。
明確な言葉を語ることを避けたがる喜一郎の表情がくるくる変わっていく姿で、伊三路と祐はかの人物がいかに手に負えなかったかを想像するにとどめることにしたのである。
比べればまだかわいらしいほうだと愛でるように伊三路の頬に指を添える。そして自身に視線を導き向けさせたかと思うと、先までの鷹揚とした様子から一変し強い表情で語り聞かせる。
「だがな、伊三路よ。もしこれをやるならばそれは自衛のためであり、お前に進んで戦えというわけでもなければそもそも戦うために持たせるのでもないぞ」
 普段から飄々として見せることが多い伊三路のことを見て、祐はてっきりのらりくらりと気の抜けた返事でやり過ごすのではないかと想像した。
しかし、それは普段の彼を一片たりとも察し得ることが出来ないほどに別人のようだった。
茅間伊三路はこのとき、言葉を発するより先に圧倒されて唾を吞んだのである。
「一度冷静になろうか。交渉は休憩だ。どれ、ところで祐君は。ここまで来たらなんにもいらんとは言わせたくなくなってきたのだが、どうかね」
 ぱっと表情をやわらげ、わざとらしいほどに声を上げて笑うと喜一郎は唐突に振り返る。そして気を遣っては壁面に並ぶ置物や荷物の一部のようになっていた祐を呼びつけた。
故に、祐は手招きに応えることが出来ないことを早々に告げることとなったのだ。
「要求を聞いていただけるのであれば、これは休憩にはならないでしょうね。それは最初に断っておきます」
これでもかと顔を顰める喜一郎であったが、それは嫌悪でも不快な様子でもなく、困り果てて情けのないという状態の表情に近い。
「なんだ、君もか。意外だな。余計なことに首を突っ込まない主義じゃないのかね」
「ええ、そういう事情がありまして。譲ってほしいとは言いませんので、どうか鶴間家が綴ったという過去の記録の一部を見せていただくことはできませんか」
「学校の地域学習とは言い訳にも苦しいものだしな、言い訳よりはマシというヤツか。知らぬ土地の帳簿だの、地域の回覧だの、一個人の日記めいたものだのを、もし個人的興味と言われていたならば、らしくなくて説明がつかない」
 ええ、これでも目の前の男の飄々とした態度で不利を被っているのは他の誰でもない自分です。しかも、その程度はなりふり構っていられもしないものです。
と、語る相手も甚だ見当違いの文句を一つでも言ってやりたい気分だった。
時計の短針を二、三周ほど戻せば、その時の己の姿は伊三路に説教めいて一蓮托生の責任を果たせと迫っていたことが馬鹿らしい茶番に思えてくる。
尤も、その責任の一端を担うものとしても情報を欲することは間違いではない。
これだけの不利益に対して情報共有の少ない事実から、いっそのこと茅間伊三路という人間に信用されていないのかとすら勘繰ってしまうのだ。
考えて、そこまで語れば、反対に自分は彼を信用しているのか、という堂々巡りが始まりそうだった。
不安定な綱渡りの上にある感情をぐっと堪えるつもりが、だんだんとどうでもよくなってくる。
もしより必死に求めるならば、彼に都合よく同調して共に歩き、己の足で探りに行くまでであるためだ。
そう思えば口は調子よく言葉を回す。確かに、思ってもいないことを語るということは茅間伊三路が現れる前の日々では慣れたことだった。
「事情の詳細を差し引けば、喜一郎さんのお考えで概ね解釈通りでしょう。自分も茅間が不可思議を語る場面にいくつか遭遇しているという理由があって知りたいのです。もちろん、こちらが閲覧を申し出た後に鶴間家や地域性、信仰や伝承の見聞その他の内容に不都合が生じないか精査したうえで開示不可があっても構いません。検討願います」
 淡々とした言葉に喜一郎はお手上げだという手振りで両手を肩の高さまで持ち上げ、肩を竦めた。
目を丸くし、唇を突き出して口角をぐっと下げる。
魚のように口角を下げて曲げた口元でおどけた様子をし、「らしくない」と言ったことは理解不足だった、と結果的に変わらない状況に憎し半分の反省をしていた。
 田舎に興味を持つようには見えないという態度に偽装しつつも、つい先日の縁側でふたりのこった際の会話が脳裏をかすめる。
それは両者とものことであり、喜一郎にとっての結崎祐は自身の想像よりもきちんと他者と関わっていた。そして祐にとっての鶴間喜一郎は突拍子もないことを次々語るおもしろ老人であることよりも、立場や彼自身が優位に立つ部分から他人を転がすのが得意な人物に思えていた。
もし自分が彼の孫と大して変わらないようなこどもでなければ、より容赦なくカードを切ってくるタイプだと思うと祐は言葉を慎重に選ぶべきだと強く思わされたのである。
「茅間もあまり情報を持っていないのでしょう。巻き込まれる身として興味本位だけで尋ねるのではありません。それに、この歳で自衛が全く出来ないわけでもない。ならばすべて責任を負いたがるのが彼にしても、それに都合よく一切合切を被せるのはおかしな話であると俺は考えます」
語りたがらないことと情報を持っていないことの意味は正確には異なるものの、この場面においては些末なものだ。
困っていることと、野次馬精神じみたいたずらな興味本位ではないことが伝われば十分なのである。
「わかった、わかった。順に説明しよう」
喜一郎は長話を覚悟し、どっかりとその場の床に座り込む。
それから、「座布団もなくて尻は固いだろうが」と、付近の床板を叩いて座ることを促した。
「まず、伊三路の頼みはどうにかしてやる」
胡坐をかいた足の腿に片ひじを寄せ、頬をつくかたちで如何にも悪い話をする恰好になった喜一郎が、人差し指で床を引っ掻きながら言った。
伊三路と祐は正座をし、静かに聞いている。横目でその表情をみると、伊三路はすっかり落ち着いていた。
「もしこの町の中で伊三路が刃物を持っていると言われても口利きくらいはしてやろう。これでも夏野や由乃の無事に対する恩には足りぬが、いわゆる御三家もかつてほどの権力はない。期待に添えないこともあるのだから、なるべく気を付けてくれ」
「本当? すごく助かる。ありがとう!」
膝に手をついて身を乗り出した伊三路が食い気味に礼を語り、注意事項を聞き出す。
床に文字や図形を描くかのように指先を床の上滑らせながら喜一郎は法律というものの説明や、考え得る問題を伊三路に指導する。
「なに、口利きするだけでどうなるかはわからないのだ。それから騒ぎまでいけば当然庇いきれん。一発アウトとなることだぞ。悪事をするならばバレないようにするのが当然のことだ。祐君に知恵を悪いほうに絞ってもらえ」
一度ききかじった程度では当然のこと定着しない知識の数々に頭を抱え、春の色をした髪の毛を握り込んではかき混ぜながら伊三路は唸る。
「少なくとも悪意ではないよ。うーん、そりゃあ、わかってもらうことは簡単じゃあないのはわかっているつもりだけれどもさ」
自分が悪知恵を提供することがさも当たり前のように進む会話に祐は奥歯を噛み締め、ぞっとして伊三路に言い返す。虫唾が走るとはまさにこのことである。「不本意だと言いたいのは俺のほうだ」
「ものの例えだろうよ。仲良くしなさい」
己の腕を抱きかかえて背を逸らす祐に対し、喜一郎はどうどうと言いながら手のひらを下げた。



目次