目が覚めた直後のようだ。
瞼がくたびれて重い。それか眼球が乾いている感覚だ。
それらは眠気にも似ていて、なるほどそのせいで目が覚めた直後のように感じたのだ。
状況を考えても、意識を飛ばしていたのならば呑気なものである。と、祐はそう思っていた。
 ぼうっとした胡乱な熱が尾を引いている。
一枚の薄い膜を隔てて水の中に居るかの如く感覚がしていた。
丸く膨らんだ音がくぐもった暗がりで反響している。ざわついた胸に一滴の不穏が垂れると、大げさな波が立つ。
地や湖面というように表現される胸中の比喩に、つまり、張り詰めた情緒に触れる瞬間、どっと流れる時間は瞬発力を以て跳躍し、すぐに伸びきって垂れる。やや伸びたまま時たまに掠って顔に触れる黒い髪が、どこからともなくびゅうっと吹き込んだ風に揺れた。
 導かれて風の出どころへ意識が向いた瞬間、外れた襖が飛びかかってきたのだ。
踏み出しかけた姿勢から間一髪で身を引き、突如として襖が吹き飛んできたことに目を白黒している祐に更なる驚きが浮かぶ。
襖とともに、強く息を吹きかけられた綿毛のように飛んできた伊三路の体が視界を横切ったのである。
 刹那、視線が合致した。
目が合ったと思うと、まろい曲線を幼さとして面影をもつ彼の唇が「あ」という形に弛んだ。その様を祐は見た。
瞬きの間が秒としてあったかなかったと問答する隙もなく、廊下の壁に襖が叩きつく。
 はっとした伊三路が急所である首元を守るように肩を腕ごと竦めて寄せ、両の足をその間に滑り込ませるように振り上げた。
そして地につく肩を接点に、ぶつけられた力の勢いを身体の曲線に合わせてうまく流すのだ。飛ぶ身体の勢いと壁の間で身体をわずかに曲げて確保した空間に腕をつく。
壁の上で転がり、うまく受け身をとると、吹き飛ばされたとは到底思えないほど柔らかな水のように滑らか且つしなやかな身のこなしで足場になっていた壁を蹴り付けた。
三角を描くように足場とした壁面を飛び周り、確かと姿勢を立て直した伊三路は確かめるように隣に立つ祐の姿を見る。
視線に絡まったまま祐は伊三路を見つめ返す。
春の土色のような前髪が乱れ、額にはひっかき傷のような赤い線が浮かんでいたのだ。裂けた皮膚を縁取る腫れがじわじわと傷口を囲んでいる。
何を言うべきかと祐が逡巡する。しかし、それより早く、ひっくり返っていた襟の折り返しを正すこともなく伊三路が身を固くしていた祐の手首を引いた。
「ちょうどよかった!」
 タイミングに対して微かな動揺はあれども、まるでこの場に祐が来るということだけは確信していたような様子で声をあげる。そして有無を言わさず強く引いて走り出す。
 背後では壁に張り付いてベタつく水気のあるような音がして、彼が一度距離を取るつもりなのだと理解した。
後ろから追いかけてくる存在を見越しながら、引く腕の先にいる祐の進む速さと、背後の存在がふたりを認識し続けることができる限界の距離を間合いとして適切に保って先を行くのだ。
できるだけの距離を取ろうとしないことは屋内というせいぜい限界ある奥行きの長さという都合も考えられたが、あまり距離をとって相手の興味が逸れると不都合が生じるということだろうか?
先回った推測をしようと祐は考えたが、走っている間に口を開くことはほとんどしなかった。
曲がり角で極めて速度を落とす際の、木々がざわめく色の瞳が巡らせる視線は祐の肩を通りすかして奥を窺う。
「この先にある坪庭の迂回で大きく距離を取るから、きみはそこを曲がりきる寸前でおれと別れて坪庭を突っ切る。そして先の場所に戻ってほしい。夏野が倒れているんだ。追手はおれが引き受ける」
ぐん、と強く引かれる。まだ酩酊に似た目眩のある頭は再び濁りの底をかきまわしたかのようにぐずりと揺れ立った。
「一応の人払いは日野春に頼んだ」
「きみならそうしてくれると思った」
「ならば無駄話は必要ないな」
 引っ掴んできた短刀を手渡そうとすると伊三路は目頭を一瞬だけヒクつかせて寄せた。
自分の持ってるものに気付いていないことは窺えたが、唇を舐めるような迷いを見せつけられる筋はない。
そう考えた祐はあからさまな緊張の片鱗を見せる伊三路を訝しんで首を傾げた。
彼の中に存在する多面体である表情の中から事態にまつわる機微を窺い知ろうと無意識に顎を引いて観察していたのだ。
「整合性がつかなくなりそうならば人払いよりさっさと事態を終了させるべきじゃないか。印象を悪くするのは今後の活動を想定しても得策ではない。……こちらが何をすればお前は動きやすい?」
 ついぞ足が止まる。
その先には、かつて個人所有の邸宅にしておくにはもったいないと感嘆の声をあげる光景であっただろう名残りある坪庭が青々とした色だけを忘れて存在していた。
これを逸話で庭と言ったか、まるで非力な生物を囲い生かすにいかにも美談になりそうな様であっただろう。
それが今では侘しい灰色の園だ。
 背後でのっそりと迫る気配に下瞼になぞった視線が会話を途切れさせる。
伊三路がそっと祐の手首を解放した。
「いま受け取れない理由があるなら言え。不本意ながら能力に偏った関係では、お前が目の前の集中できないと最悪の場合、俺たちは総崩れに陥る」
受け取れ。と、無言を訴える。
この男が後ろめたさを感じるならばともかく、誇りを持つと言った言葉が嘘や洗脳ではないのならば、これこそ彼が仕事をする瞬間でもあったのだ。
「尤も俺に出来る最大限はこの場を収めるには手伝い程度の労力を提供するか、お前が逃げたいと言った場合にこちらが害のない程度に知らん顔をするくらいだ」
 唇を噛み俯いてから伊三路は言葉を言いかけ、唇をまごつかせた。意を決して、再び口を紡ぐ。
背後の気配に気をかける頻度がいよいよ高くなってくると、顔を逸らしていた伊三路は息を吸い、視線を合わせた。
言葉を放つ前から察することが出来る。それが肯定でも否定でも、この男は理由を言わない。
特筆して記憶に知るほどらしくないとがっかりしたわけでも、反対に彼らしいと思ったわけでもなかったが、祐はそう確信して次を考えた。
近付く気配が強くなる間隔を頭の中で指折り数えていたのである。
「……おれが引きつけるから、少しだけ時間が欲しい」
「わかった。俺が夏野さんを運び終える頃には腹を決めてくれていると助かる」
「それでもまだ迷いがあるときは、きみがおれに手段を与えてほしい。大丈夫、きみのせいにはしない。共犯にもしない」
道を見失って縋るような声をした伊三路は小さく言った。
「ただ、おれの気持ちのためだけに、おれが信用できるだれかの言葉がほしいだけだよ」
存外にこの男は弱味を見せることを極端には憚らない。状況において開示はする。
ただ、詳細を教えることはしないのだ。
故に、祐も深くを聞くことはしなかったのである。
「……わかった」
 水を吸ったような重たい気配は背後に迫っていた。
朽ちかけて片脚がおぼつかなくなっていた飾り台を後ろ手に引き倒す。背後の気配が一瞬だけ足を止める。
それを皮切りに祐は走りだした。
伊三路は共に飛び出したフリこそしたもののその場に留まり、怪奇現象の目を引き付ける。
 灰色に朽ちゆくだけの小さな庭といっても下草や低木は緑を疎らに纏い、樹木は腕を冬枯れの表情のまま広げているのだ。
そこへ飛び込み、身を隠す。
最中、祐は縁側の部屋がある方向からは遠ざかっていく伊三路と追手の姿を横目に見た。
 手に持ってきた短刀を握る。合口の拵えではなく、一般的に想像する日本刀の姿をそのまま小さく作り直したような拵えの短刀だ。
鍔と鞘の境目に目をやってから、鯉口を切り鍔にかけた指を押し上げる。
ぼろとして放置され続けた眠りから覚めたそれはぬらりとした曖昧な色こそ覗かせるものの、手入れも疎かにされていたのか刃先のほうで僅かに錆のような色が斑点状に浮かんでいた。
しかしこの程度ならば武器を用いることに対して難色を示した伊三路にとっては些末なことであると祐は考えたのだ。
いざ持ち出してこんなぼろで戦えるわけがないと言われそうならば、与えることを任された以上は別の手段を用意するべである。
キン、と目覚めたばかりの白刃を鞘にすっかりと納める。そして息を潜めていた。
この場を突如として覆い、取り巻いた怪異という台風の目を直接に見た祐はようやっと伊三路の発言や態度の端々に納得をしたのである。
なるほど女子供には手を出したくないわけである。しかも、知った顔をしているのだ。
その姿は見知った彼女とは多少異なる佇まいをしていたが、紛れもなく鶴間由乃そのものだった。



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