伊三路が曲がった廊下の先に往く影を追って静かに続く。
心音は僅かに早い。急かす刻みがあるものの、しかし過剰な息苦しさはない。
最中いくつか分岐をしていく考え――その想像上にすぎない並行の未来に空のまま回転しようとする余計な考えが、今現在において最も優先して行うべき思考を妨げようとする自覚があった。
焦りではないはずであるこの火が揺れる胸の内には湖面の凪に小石を投げ入れたような模様が映し出されている。
足の底を擦る床板が年季によってわずかに凹凸している感覚が脳に伝わる。
先を急いでいることには変わりなかった。
 閑静なこの母屋の廊下はいかにもとしてもぬけの殻という言葉が似合う様子だ。
今度こそよりまさしく空っぽという表現で状況を示す家は、収納家具が侘しく枠組みとそこにあったはずの空白の輪郭を強くしている。
蔵からの運び出しをその前に行っているために尚更にこちらが正しく空という言葉を強くしたのだ。
例えば、"離れ"とかいて"蔵"と読む場所における実の有様が雑多な物置きであるならば、この家で行う何かしらの作業が日を跨ぐと仮定した際に辛うじて泊まり込んで出来合いの食事を摂り、そして寝るには困らない程度の家具が残っている。
それが母屋の様子であり、先に茶を飲んだ縁側に面する廊下沿いの部屋だった。あの場所にあった食器や座布団や、少々の雑貨は、仕切り直した際に夏野が現在の居住地から運ばせた、休憩させるために適すると判断した物品たちだ。
推測の体もなさず想像に過ぎないことをより広げて考えるならば、より山に近い場所へ涼を求めた隠れ家半分や、別荘気分で滞在する程度には今日まで幾分の機能を維持して使われていたのだろうと思える。
現代の一般平均である生活様式に倣っても、そうであると感じ得る要素の断片は蔵と比較しても目に見えて多い。
 養蚕の歴史にふさわしく天井が高い建築に風の抜ける高窓の家は、耳をすませば微かな風通りが痩せた木材を抜ける音が聞こえてきそうだった。
しかし構造として理解できるはずの事実に並行する異常なまでの静けさが支配している。矛盾することにも、同時に伊三路が奥で"なにか"と揉み合っているらしい物音は先にあるいずれかの部屋からではなく、耳の奥から聞こえてくるかのように錯覚していた。
 不意にずくり、と、持ち上がっては細く幽かな圧で脳の内側を引っ掻く。
巡る血液であるはずのものが蠢いて聞こえるとして歪められた認知だ。幻聴だ。
より直接として嫌悪を催す表現を用いるならば、ざらついた表面に這うムカデやミミズに類する体躯の生物を彷彿とさせる。それらがしつこいほど粘つく感覚が鼓膜にひっついて余韻を離さないともいえた。
あるいは無意識下のもどかしさや苛立ちが熱のようにして脳に蔓延ってこもっている。
 意識するほど己の内側を引き裂きたくなる。茹だる頭がぼうっとする。
不快だ。
薄い皮膚のすぐ下に。うぞうぞと動く、気配が。切れ切れの圧が、瞠らねば知覚することもできぬほど静かに繋がっていく。
ぷつりと膨らんで浮いた瞼のような切れ目から瞳を覗く。
 寒い。肺が取り込む酸素が冷たく感じる。
しかし脳内では書き殴った線が複雑に絡まっていく。
ああ、そんなに絡まっては取り返しがつかないな。と、中途半端にぼんやりとした祐は、比喩にすぎないはずの光景を実際に眼前にしているかのように現実を得て考えていた。
思考に覆いかぶる金属の薄い膜を握り潰したくなる。
 瞳が見ている。
その滴るかのような甘ったるい糖蜜色の黄金が――熱が黒い手袋越しである素手の皮膚を焼く。
隅の暗闇に白い影が胡乱に浮かびあがる。
 シャッターを切って時間を細かく刻む。そのイメージが時間の流れとしてすり替わっていた。
ぶつ切りにされたはずの区切りで這い寄る存在の気配を感じる。それらが薄く透明なフィルムのように重ねられ、全ての感覚が同時に雪崩れ込んでくるのだ。
金属を抉り削る高い音か、複数の声音で束ねた悲鳴か、それに類した甲高い音が意識を縦に引き裂いて現実へ帰ってきた。眼球がぐるりと回って戻ってきたかのようだった。
耳に指先を突っ込んでかき消したくなるようなざりざりという音を遠ざけようと頭を振る。
そこでようやく、はっ、として祐はこめかみを己の拳で強く叩いた。
 自らもたらしたとはいえ強い衝撃にふらつきながら燃えるように熱い手を抑え込み、空嘔吐きをする。駆けて背筋が浮き、逃げる感覚が過ぎる。
天地の感覚がひっくり返ったかの如く脳を揺さぶったものが正しい位置に戻った感覚を知ると、遅れてついてきた身体の反応で飲み込んだ唾液がすぐに迫り上がった。
「なん、」
 今、何が?
考える間も無く畳み掛ける感覚が苛む。
金属に響く如くの虚ろいだ鈍痛、浮遊感に追いかけて臓腑の位置があべこべになったかのような不快感。
脳の処理が追いつかない情報源が視界を多く占めるせいか、視神経の根が頭痛に偽装した熱と痛みを患う。
平衡感覚を調整する糸が弛んだままになっている想像があった。
脳天から足のつま先を通って雪崩れた感覚に濁った水音のように喉を締め上がる音はぬるい息を吐き出す。苦悶のなかで垂れかかった唾液は口角に溜まるばかりだ。
身体を曲げ、底の淀みを追い出そうと喉を上下させ続けては何も出せない苦しみでうめき声をあげる。
胃を突き上げる不快さに舌の根が意志と反してうねる。思わず頭を廊下の床につけて息を漏らす。
苦痛を逃すためか、不随意の運動で足がもがいていた。
 伊三路が今ごろ対峙しているであろう直接的な問題である怪奇の事象に自身が受ける影響は少ない。そう感じたのは事実だ。
しかし今この瞬間、唐突にこの場を支配しているのは別の何かだ。
そしてこれを知っている。蜘蛛女と向かい合った時にも見た、あの金色の目だ。
知っている。初めてではない。
何度も、何度も見たことがある。同じことを経験したことがある。
――どこで?
直感的に閃いたそれがそのまま警鐘として脳を劈く。
弾かれたようにびくりと身体をしならせ、祐は顔を上げた。
「ああ、不安に思うことはない。忘却を前提とした事柄に言葉を交わして何になるというのだ。まあ、貴様が吾(わたし)の気配に敏感なのは波長に近しい部分があるのだろうが。不必要で! しかも貴様からの! そのような干渉など不快で、煩わくて極まりない」
 耳鳴りの中で、金属を引っ掻いて出る音のように聞こえる声が笑う。途端に怒り出し、地団駄を踏む。
しかし長く息を吐くと、何事もなかったかのように再び流暢に話を続けるのだ。
呼吸が極めて平坦になり、視神経と鼻腔の中間あたりの深部がじりじりと痺れる。
うめき声は、ぼうっとして呼吸とともに吐き出され、か細い発声が意味もなく掠れていた。
「貴様へではなく"あれ"には少しばかり思い知らせてやらねばならぬ。と、いうのが主な用事よ。ついでに貴様と一部同調をしすぎる部分の波長を焼き切ってやろうということだ。頭が高いのだ。人間風情が。ああ。いや、逸ったな。しかし貴様からの問いは聞かぬぞ」
小さい足の指先が視界に入る。白い袴の裾が揺れる。
祐はじんわりと熱を持ち、汗が浮いて蒸れた己の手のひらを握った。
「元来会話を好かぬわけではないからな」
見下ろす角度から声を降らせるその声はフンと鼻の奥でせせら笑った。
「所詮忘れられる言葉とは儚いか? それとも虚しい、か?」
頬を掬いあげられると、視線が無理やりに持ち上げられる。
白い影とは正反対に、暗闇を日に当て透かしたような指先が拭うことに似た動作で頬を撫でる。その先で目を細める気配がした。
 指先だけの小さな動きが頬を撫で往来すると、驚くほど素直に苦痛の波が引いていく。
正確には祐からも見えているはずのその顔を認識できていない。しかし概念上の言葉や語句での表現として、目の前の人物が子どもであり、目を細める姿は愉悦ゆえであると理解できた。
「なあ。愚かで、可哀想で、愛しき人の子よ」
問いかける言葉に脳は無感情であるものの、本能では限りなく上等な甘美と思えるのだ。
一瞬でも気を許せば崩れ落ちてしまいそうな四肢に力を込め、奥歯をギリギリと噛み締める。
「……邪魔だ」
 呟くと祐は顎を引いて絡め取ろうとする影の指先から逃れ、自ら床板へ強く頭を叩きつけた。
沈む身体に反してビクッと跳ねた指先が、鈍い痛みで自由を得たことを知らしめる。
痛みを知った箇所を庇うかの如く本能が手を遣わせ、祐はその動作が滞りなく遂行されたことでやっと苦悶という呪縛から逃れたことを知った。
 四つ這いに手を着き、そばの壁にもたれながらゆっくりと立ち上がると、白い影の子どもは自身よりも低い場所に在る。
「所詮幻覚が」
 "人間風情"と罵り語った姿へそう返すと、よろける足で平然と過ぎる。
恨みがましくとも怒りともとれぬ地を這う様子で跳ね返した様子を子どもは茫然と見つめていた。
子供には瞬時と理解ができなかったのだ。矮小で、与えた言葉に根拠なく一喜一憂し、勝手に滅びゆくような生きものがそう言い放ったのだということを。
囲い込んだ空間から引く波のように去っていく姿を見送る。
口元を覆っていた指先から笑みが漏れる。
目を瞠ったままの子どもは身体を震わせて悦に浸っていた。

 汗の浮いた手首を掻く。壁へ体の半分を押し付けるようにもたれつつ廊下を歩く。
落ち着きがなくなると、浅い場所で血潮の透き通る手首が煩わしい気分になる。呼吸を深くする。
足止めにしては大仰だ。そもそも"あれ"は何を指しているのだ。
そう思った瞬間、先の出来事は霧散するように知覚し得るすべてよりも小さくなって普遍へと解けていく。
忘却しゆくだけの事実が存在するということに気にかけようとした瞬間、改めて気にするような事象が起きたか定かではなくなるのだ。
 先にも通った気がする廊下を行く。元より意図的に意匠を取りこまない限りは一般的に変わり映えのない光景になりがちな構造である。
そこには屋内の景色が意識に引っかからない程度として漫然とある。少し離れて、騒がしい足音の幾つかと組みつきあうようにどたばたと場に転がる質量の跳ね返りがあるばかりだった。
はっ、と息をする。息を吸う。そしてゆっくりと吐いた。
意識するまでもないことと操作された事柄を意識しようとし、果てに霧散した要素の断片として名残という違和感が転がる頃になると、忘却に追いやられた出来事の価値は祐にとって路傍の小石にも満たないものとなっていた。
 心音は僅かに早い。急かす刻みがあるものの、しかし過剰な息苦しさはない。
焦りではないはずであるこの火が揺れる胸の内には湖面の凪に小石を投げ入れたような模様が映し出されている。
足の底を擦る床板が年季によってわずかに凹凸している感覚が脳に伝わる。
先を急いでいることには変わりない。
余計な考えをいくら分岐して浮かべど、求める地点は決まっているのだ。
そう考えて頭を振り、騒ぎを追って既視を曲がる。




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