「祐はさ。たしかにいつもあんな感じだけれども、わるいひとじゃあないよ」
 前を歩きふたつ結びを揺らす長い髪の後ろ姿に伊三路はふと声を投げかけた。
ふしぎそうに振り返った頬や目尻の丸みは初対面にも健在していたが、罰が悪いことをありありとする眉の角度だけは出会ったばかりの元気を数割は削ぎ落とした様相をしていた。
 短いパンツスタイルから伸びる健康でしなやかな脚は、一見ではその華奢にそぐわない大きさにもみえて色数も多くやや厚底のスニーカーを履いた歩みを止める。そして惑うような、縋るような上目遣いで言葉のさきを聞きたがるのだ。
次に伊三路が足をとめる。ほとんど隣を歩いていた暦はすぐには止まらず歩を緩めただけだった。
偶然に蹴り飛ばされたどこにでもある普遍の小石が、からんからん、と、短い間に距離を稼いで転がる威勢よい音を立てていたことがこの妙な空気を印象的に取り囲ってから黙りこむ。
しかし沈黙は無意味に長いものではない。
区切りを以ってし、伊三路が滔々としてすっきりとした言葉を続けるのだ。
「彼が言いたいのは、悪いと思わないなら謝るべきではない。しかし、己がそれを是とするならば逆もまた然かりということさ。だから祐はあれらの言葉にもし意趣返しの側面を持ち合わせていても、意地悪でもなんでもなく、ただ単純にきみが落ち込む理由を理解しないと思うよ」
「なんですか、それ。特別な悪意はもとからなくって、因果が自分に返ってくるだけなんて昔話みたいなことを。じゃあ、つまり、怒ってるんじゃなくって、どこまでいってもわたしの目の色がかっこいいですねっていう言葉だけに返事してるんですか? あれ。不快だって? あれで? あんなに鋭い目で?」
 しっかりと対面し淀みなく不快だと告げられたことを思い出して気を悪くすることよりも、何周分も上回ったおどろきで語調を荒げ、音を上擦らせながら由乃は声を大きくした。同時に、並べられる理屈の仕組みに物を語る間もなく目が丸くなっていく。あまりに開いていく瞼から目玉がぽろりと落ちてしまっても不思議ではないほどに目を見開いていた。
「いやいやいや」と、否定の言葉が漏れる。下唇を無意識に舐め、再び間を埋めるだけの「いやいや」が喉を掠めて生み出されていた。
 そんなわけがある? 確かに生まれつきの目のかたちや鋭さに悪いことはいえないけれど。
でも目の前のひとたちのいかにもとした姿を見ればそうなのかな。それでも、ほんとうに?
それはあまりに都合の良い解釈ではないか、と、由乃の思考が短い逡巡をする。
いま現在共にいるふたりのうちでは最も親しみのある暦に改めて無意識のうちで縋る視線を向けると、暦すらもが大した思考のための時間も要さず、こくりと肯くのだ。
言葉がでる直前の空白で唾を呑むのが、やたらこの体内では大掛かりのことのように由乃は思えていた。
「うーん、たぶん。完全同意じゃないけど、僕も一部は」
「う、うそでしょ。わかりにくッ!」
 末尾とほとんど重なった音にハッとする。
暦は困った角度の眉を相変わらずとしていたが、手慣れた解説のように指を振り立てて由乃に聞かせた。
「もうすこし話をしてみれば僕たちが言っていることがなんとなくわかるかもよ。会話はすぐ終わっちゃうことも多いけど、結崎くん、話はいつも一通り聞いてくれるし、意味もなく蔑ろにはしないから。その、正直なところさっきは多少ユノさんにイラついていたかもはしれないけど、本当にどうこうしろって話ではないとは僕も思うな」
裏切られた気はしないものの、この瞬間までの後ろめたさや反省が杞憂とかわらない過ぎた心配に帰した思いになってくるとどっと疲れた由乃はがっくりと肩を落として大げさに膨らむ息を憚らずはきだした。
「流石のわたしでもめげちゃいそうですけどぉ?」
 一度まぶたを閉じ、わかりやすく肩を下げる。
そのまま背筋の延長を描いた線で、あるいはうなじから吊られた重力にぶら下がるようにして肩を竦めた。
そして前傾気味になった胴から伸びる腕をぶらぶらと楽に、なにより法則性もなしにすき勝手に揺らす。
動物の威嚇行動にしてはおもいきりがたりず、幽霊の真似ごとをするポーズであると語るならば随分と粗末なものだ。
そのようにとにかく脱力して海中の藻の如く腕をゆらし続ける様に、寄り添うかのかたちで暦は笑いかけた。
「大丈夫、ユノさんが必要ないと思えば無理することはないよ。幸い意思疎通は僕たちができるし、彼もそういう幼稚ではないから」
 年頃の女子らしい恥じらいも可愛げもなく唇を突き出しぶすくれる眼前に、気遣いをする暦が覗きこむと由乃は慌てて身を引いた。
「だだだ、大丈夫です! て、いうか、暦さん! なんか、なんか……変わりました?」
「え? そうかな。思うところはあるからいい意味なら僕は嬉しいけど」
 ひどく吃りながら胸の前で手を振り、由乃は半ば叫ぶように返事をした。
感情にあわせて揺れるふたつ結びがまるでいきもののようにふわふわと空と戯れている。
その姿に犬や猫の尾を想起させ、無意識に視線を動かして追いながら伊三路は慌ただしい二人を宥めた。
「ふふ」と笑みをこぼして伊三路は頬や額を撫でる心地よい風に目を細めるのだ。
「そうだね。先の話につけ足すと、話を聞く時の彼は行動の間合いでまちまちになることもあるけれども、ほぼ確実に手を止めて――例えば読みかけの本を閉じるとか、栞を挟むとかをして、それから相手の目を見て答えるんだ。怒られているだとか、嫌われているだとかはそれすらなくなってから気にすることで十分さね」
 伊三路の両の手のひらが上を向き、ずっしりとした本をとじる仕草を真似る。
そして手が触れ合うと、ぱん、と弾きあう肉体の質量が小さく音を立てた。
手のひらにあった空想上の本は閉じると同時にただの空気へと帰り、会話の延長線上に溶けていく。
すり寄せた両手はそのままに首を傾げて由乃を見やると「人と話をするときに、普段からきみはそれらを気にしている?」と、問いかけて目を見つめた。
その視線を全身で受けながら由乃は頬に人差し指を這わせ、より記憶を手繰り寄せようと試みると己の眉間に触れた。「意識、してないです。そこまでは」
ひとつぶんの呼吸が開き、間をおしはかって顎を僅かに引く。
「伊三路さんたちのさっきの言い分、正直なところ人として当然のことを言っているだけじゃんって思いましたけど、確かにそれが本当ならややていねいかもですね。それにしても、伊三路さんは祐さんの専門家かなにかですか?」
聞き返す言葉に茶化すような言葉が入り混じるようになると、誰からともなく三人は歩き出した。
 米の苗を植える準備である農作業に従事する人々以外は、散見する家々の並びとだだっ広い田園風景ばかりが見受けられる。青々としだした草葉の青臭さともいえる匂いが風に乗って鼻を掠めていく。
それらを前にすると胸がスッとして、背筋が伸びるように伊三路は感じ、次の風を待ってより姿勢を伸ばしていた。伊三路にとっては愛しき日常なのだ。
ときに風除けの木々がこんもりと密集して小さな末社や板碑がある田園ではあるが、青の風や鳥の声がよく伸びて通る。
踊るように軽やかな由乃の足取りと後ろ姿を見ながら伊三路は日常を人と歩くことに慈しみを抱き、質問に対して真面目な答えを返した。
「助けてもらったんだ。ううん、今も助けられている。だから、お礼ではないただの勝手なのだけれども、おれはかれが変に誤解されないようにしたい。みんなにもっと祐のことを知ってもらいたいんだ」
「へえ。でも、彼、そういうのは望んでないって言いそうに見えましたよ。わたしには」
 その言葉にこそいかにも喜んだ伊三路ははにかんで、身体を揺らしながら答えをすり合わせて語った。
「そう。でもさ、ゆのはいま、祐の言葉や表情や、考えかたを想像したでしょ。それだよ」
両腕を緩やかに広げ、大きく呼吸をする。
伊三路は野を渡る風を脳裏に浮かべ、清々しく言葉を放つのだった。
「なんでもかんでも絶対にと好かれてほしいわけじゃなくて、少しちがうからって偏った見かたをされてほしくないんだ。それだけだよ」
 田舎の横つながりをうっすらと思い浮かべた由乃が曖昧な肯定をすると、そういうところのすべてが悪意ではない、と、伊三路は断って続ける。
「当然のこと、きちんと接したとてかれを意外にいいやつと思うひとがいれば、やっぱりいやなやつだというひとも居るだろうさ。実際、祐もけっこう偏った見かたをするところがあるし、おれだってそう」
芽吹きを迎え、春霞を過ぎた季節の落ちついた緑が溶け込んだ硝子玉に光を宿していた瞳は、一抹の寂しさを滲ませて視線を僅かに下げた。
指が感情の圧に耐えかねて、無意味に親指と人差し指を擦りあわせる。
「……でも、今はわかりあおうとすらしていない。互いにね。おれは祐に肩入れをしてしまっているだろうから、どうにかしたいと思ってしまうのかもしれないけれども、この町で不利なのは確実にかれのほうであるのも間違いはないから」
「伊三路さん、初対面の印象どおりずいぶんお優しいんですね。目尻が下がってるからかな、柔らかそうな雰囲気で」
そんなことないよ、と言いかけた言葉の速さに伊三路自身が驚きを一瞬だけあらわにし、それから涼しげなほど悟って改めた言葉にするのだ。「おれがおれのためにやりたいだけさ」
言葉が滞留する。確かな間がそこにはあった。
「周りが言ってやって初めて成り立つものを理解と呼ぶのは賛否のわかれるものだしね。祐に助けてくれって言われたわけでもいなくって、だから、彼が心から一人でいたいと思うことを信じて尊重するならばこんな説教ばかりをするのではなくて放っておいてあげるべきなんだ」
しっくりと言葉を飲み込む。
 由乃と伊三路の会話を聞いていた暦は助け舟にも似た言葉を差し込むか悩みかけたが、由乃のしんとして澄んだ真剣な瞳を見て杞憂であったと口を閉じた。
「でも、それは伊三路さんにとって祐さんが"そう"であるようには見えないか、本心では"そう"あってほしくないって思ってるように見えるってことでしょ? わたしには仲良さそうに見えますし、余計なお世話すぎて嫌ならば嫌ってはっきり言いますよ。きっと。大丈夫です、まあ、根拠はないけど」
「そうだよ。それこそ心配するのははっきり言われてからじゃない? 口にされなきゃわからないし、もし喧嘩になっても仲直りできるように一緒に考えよう」
 暦が物腰柔らかに提案しているそばで曲がり道を先導した由乃も頷く。
「素敵だと思いますよ。三人のおはなし、もう少し聞きたいかも。ね、少しだけ遠回りしませんか?」
 控えめに白い歯を覗かせる笑みであるが、もとより口角に機嫌の良さがよく現れる様は喜一郎譲りだろうと窺える。ただ、少女らしい曲線と年頃の女子特有の方々に照れくささを覚える感性が滲むと、喜一郎のようないたずらばかり企てるような子どもらしさが残る顔ではなかった。
澄んだ空気のなかで、日常の些細を改めて気づかされるようなほど素朴でありながら愛らしい顔だ。
「お礼……ってほどではないですけど、これからいくところに伝わるお話を聞かせてあげますから」
目を細めると強調される涙袋に乗った薄化粧の粒子がきらめく。
囁くような内緒話の風体に伊三路と暦は目を丸くしてから肯くのだった。

「むかし、ここらは養蚕で栄えていたんです。関東やそれより北では、まあ、特別めずらしいことではないことですよね」
 山から切り取ってきたような両腕と身体全体でやっと抱えられそうな大きさの岩石に手を合わせ、由乃は礼をした。
鳥居こそ構えたものではないものの定期的に誰かが訪れているらしいこの場所は石段に先に祀られた岩石と、その眼前に供えものを並べるための平たい石がおかれる光景が特徴的だった。
脚のない杯が伏せて置かれており、参拝に来るのであろう誰かのうちに水を挙げる者がいることは明白である。
ささんと鳴るやわらかな草葉の音に耳を澄まして三人は木陰の石台前に並び、それらを見つめていた。
「こんにちは。今日は水がないけれど、春を持ってきましたよ」と、言いながら由乃は道中でつんだいくつかの花を平たい石の上にのせる。たんぽぽが光を受けて輝いているかのように見え、目を細めるのだ。
「かつてのこの地域は山深い初音連山によって囲まれ外に出る道がほとんどないほど隔てられていたので、実際のところは蚕がどう持ち込まれたかということは定かではありません。伝承のうえでは偶然ながら山で出会い、困っている者が神とは知らずながらも懸命に助けようとしたという善行に報いたかやのまさまが鶴間の先祖に授けたのだと言われているんですよ。伊三路さんはご存知ですか? かやのまさま」
 名指しを受けた伊三路は唐突な質問にかかわらず肩を揺らすことすらもせずに、まるで最初からその名前を知っているかの如く静かに答えた。
山の稜線を遠くに見据え、眠たいように下がった目尻であった焦点を少しずつ目の前に戻していったのである。
「名前だけ。おれの姓も似た響きだからね。これはもとの地域の名をもらったんだと思ってしていたけれども、そういえば傲慢だ不敬だとは言われたこともないんだ。それは親しみ深いもの? みなは何者と思うの」
「あー……と、そこまで深いところを含めたそういうのは暦さんのほうかお詳しいかも? でも、うーん。いわれはこの町を守っている土地の神さまですよ。初音連山から株分けされたこの土地のための神さまで、今でこそこの地を去ったといわれていますがそれも数年前の火災が由来でしょうし。わたしはそんなことないと思うけどなあ」
 ちら、と視線を逃かし、押し付けられた暦は「えっ! 僕は知りようがなくないかな、僕には!」と反射的に答える。
否定の意を存分に示し咳払いをひとつしたのちにじと、と見つめられると、由乃は苦い顔ではぐらかして昔話における続きの言葉をほどくことを再開した。
「かやのまさまに蚕を授けられた鶴間の血筋は繁栄しました。最初こそ青葉の精にしても愛玩に留まるとも言われましたが、我々の血筋はそれはもう大事に大事にしましたよ。更に時を経て絹の製法が外から伝わり、その原料がこの虫に由来すると知ってもです。最終的には貧困に喘ぐなか泣く泣く絹にしましたが、作られた反物は地方では質がよいと一躍名が売れました」
 風で巻き上がった砂がふきつけ、少しずつ汚れてしまった面をハンカチで拭き取っている。屈んだ後ろ姿は昔話を語るにはあまりに小さな存在に思えた。
しかし、軽い語り口は時の濁流をものともせず、時に淡々と事実と御伽話の間をうまく渡ってみせているのだ。
彼女の家系では大切にされてきた話と精神のありかたであろう、と、二人はこどもの拙い宝箱を開けるかのように慎重であり少し前の過去を語る口ぶりを聞いている。
 由乃は末社である岩石の正面から逸れると、ハンカチをはたいて砂ぼこりを払う。
それからそばに立つ寸胴な木の幹のほうへしばらく目を向けていた。
「かつての当主は神さまに感謝して、売上の多くで町のために善行を行い、発展させました。これが茅之間町――かつての村の養蚕業にきく伝承です。この地域に貢献する限り鶴間の庭には蚕が現れ、旧家に住み着きました。貧困における最悪の展開において蚕を全て絹に変え、我が血筋が途絶えかけても、食わせてやらねば死んでしまうほど生きられぬはずの虫がどこからともなく旧い家に姿を現したのです。不思議でしょ。いまのおじいちゃんの家の庭も、それらの伝統が形を変えて残ったものです」
「想像よりも現実的な昔話だ。おとぎ話だ伝承民話だというよりも、むしろ脚色された史実に近いというほうが近いのかな」
「そうですねえ」
 間延びした言葉が流れる。
まるでゆっくりと芽が土を持ち上げて露わになるかのように陽だまりの下でゆっくりとした時間を放られて漂っている想像がうまく当てはまっていた。
空を歩き地には魚が泳ぐ空想の世界が、微睡の境界であり得てしまうことがあるかもしれないと錯覚するに都合が良い。
鳥のさえずりが心地よい。この田園の延長はこの場所だけが小さな林の中の景色に似ていた。
瞼が心地よく、うっとりとする重さに逆らえなくなっていくのである。
「それから時は流れ、染め物に手を出し、売り込み営業の最中にかつて村であった茅之間の地に鶴間は更なる技術を運びました。主力の業務は時代によってうまく乗ったり、損をしたりしながら地域では一時名を馳せます。のちにうちはとある当主の行いで没落をしかけますが――まあ、端折って最後にはいくつか次代に過ぎたとある娘の献身により、まるでやっと返事をするように庭へは蚕が現れたのです。良いことをしなさい、でも、私利私欲やひとりじめや、ずるに溺れてはなりませんよ。と、いう勧善懲悪めいたおはなしです。何の因果か、鶴間家復興を最も手助けしたのは時代によって化繊が幅をとりはじめていたにもかかわらず、絹にかかわる分野だったのです」
 由乃の言葉を一区切りつくまで聞いて伊三路は唸った。
それは肯定でも否定でもなく間を繋ぐために広げられた音に過ぎないものであったが、息が丸く膨らんで空間にそうっと馴染んでいく。
「そういった成功はあくまでゆののご先祖の努力の結果だとおれは思うけれども、そういったご利益があるかみさまなのかい? かの御柱は」
「まあ、ご利益は目に見えないですしね。他人からの評価が加護のおかげといわれるのはままあることですよ。でも、かやのまさまという名称が総称でもある側面をもつ通り、商業のご利益は多く語られません。総合的には豊穣の神さまだそうで」
 自身らはよく親しんだ話題を説明する由乃を邪魔しないように黙っていた暦がひとことを付け足す。
知識をひけらかすわけではないものの、少しばかり情報の優位に立つことを自覚している彼は瞼を伏せては手振りを付け加えて語るのだ。長い前髪から覗く瞳がらんらんとしているとすら思える。
「それから広義の繁栄かな。もとは山にまつわる狼信仰の亜種に似ているともいわれるけれども、犬は繁栄や安産の象徴でもあって、かつかやのまさまの核である土着神は初音連山の株分けだからさ。この町に住む人はちいさな神の総称をかやのまさまとして一つにまとめて信仰していたんだ。土地神として生まれたちいさな株が信仰によってきちんと土地に根ざすようにね」
「さすがお父上が神職関連の経験があるというだけあって、詳しいね」
「ああ、まあ、うん。たしかに、ちいさいころは毎晩の寝かしつけに聞かされたからね」
 伊三路の言葉に暦は恥ずかしいような、なにか言いたいかのような顔をしたが、その間が距離を作ってしまう前に由乃は続けた。
「まあ、たしかに完全に創作ってわけでもない程度には我が家系の歴史になぞらえているのですが、単純な資金難か私利私欲によって傾いたことの戒めかはいまいち不明ですよ、この昔話の真相は」
導びかれ、簡素な祠の鎮座する広いとまでは言えない程度に拓いた土地をぐるりと回ってくると、再び岩石の前に戻ってくる。
まだ若い緑の黄色みが強い様を眺めながら、その柔らかさを想像していた。
「鶴間家では復興の象徴でもある碑ですが、この町では先のとおり神さまの総称をかやのまさまとする傾向があるので末社の名目はその通りの名義になります。この辺りでは娘やお蚕さまとしての側面を求める者もちらほらいるみたいです」
伊三路と暦の手をとり、碑の前に二人を引っ張り出すと我先にと手を二回たたく。それから顔を俯け、左の瞼は伏せたまま右目で周囲を窺うように、丸く、目尻の下がった目を開いた。
切りそろえられた前髪から覗く瞳の角度に暦は肩を僅かに竦める。
堂々としている伊三路だけが横目に暦を移した。
彼が年頃の女子に対して時たまにどう対応すればよいかわからなくなるということの理由が理解できていないまま、久々に見た暦の挙動不審めいた姿に微笑ましく片方だけ口の端をクッと上げるのだ。
「もしよろしければ、一緒に手を合わせてください。次はおもしろエピソードもお話しますよ。かつて所有していた場所で忘れられていた金庫の中身の話なんですけど、なにもなかったわけではなくって……というものです」
 そわりとした暦の背を伊三路が後ろ手で叩き、暦が促されると三人は誰ともなく口を閉ざし、静かに手を合わせた。
これでは神前に参るのではなく、墓参りに手を合わせるようなほどに作法を気にしないものだ、と、いいたくなる所作ではあるものの、あたたかい親しみが込められている。
 一呼吸おくれて伊三路はふたりに倣って顔を俯け、手を合わせる。
そして指の腹に触れ合う反対の手における指紋の凹凸を感じながら、横目で二人の姿をじい、と、不思議そうに窺い、それから石の塊でしかない碑を見つめる。
 二回ほど同じことを繰り返し、ゆっくりと瞼を閉じる。
すると、暗闇が下りてきて背後には白くぼんやりとした気配が浮かんでいるような気がするのだ。それでも口元には変わらず薄い笑みを浮かべ、指先の感触をよく味わうばかりだった。



目次