休日ということもあり、昼を過ぎたあたりから活動する人間も増えてくる。
その様が普段の閑散とした通りとはまるで異なるものに思えてくるのだ。
そしてそれら行き交う人の波の方向が曖昧ながらも街の中心である北東へ向かっているのだ。
 みなが一方向に流れる様を横目に眺めていると次第に、賑わっているのか、それともゆく先の目処がひとつしかないということそのものが過疎の空白を体現しているのかがわからなくなる。
 ただこの瞬間に活気だっていることには違いない商店街に並ぶ店々や人を呼び込む鮮やかに通り抜ける声は、冬の乾いた葉の衣から孵化するあたたかな季節をまざまざと印象のなかに再現してみせたことに違いなかった。
春物の服をまとう波のうねりに半分逆らうように身を翻し、ときに互いの後ろ姿に遅れをとりながら伊三路たちは商店街を抜ける。
脇道に逸れ、四角い箱のような古いビルの看板通りを抜けるとやがて賑やかさから一転した閑静な風景に移り変わっていく。
田園風景が突き抜けて視線を阻むものが山の裾に変わる。
固くなっていた身体中のがほどけて、風に運ばれると深い呼吸が循環することを思い出す。
 再開発が行われているために近代的な建築手法の建造物が格段に多い烏丸の地名とは異なり、"昔ながら"という言葉を連想させる木造や、一部がトタン張りの家屋が目に見えて増えてくるのだ。
しかしながら、ただ単に寂れているとするには随分と手入れの行き届いた家が多く、ささやかながら生活の気配がする。
 割れたバケツを貫いて伸びる雑草や、素焼きの鉢が割れた破片。側溝を流れる水は清らかであり、水底が藻に似た水棲植物に侵されていないのは手入れをされているためである。遠くで蛙の声がする。
 賑やかな場所から田園の広がる穀田地域へ移動する最中で途端に田舎らしい風景が広がっているというようにも思えるが、再開発の地区として名指しで自治体に定められている烏丸地区が例外なだけであり、茅之間町自体はれっきとした田舎として過言ではない。
つまり、この町の本質は目の前の景色に占められている。
 生活にはそこそこ困らない程度のある辺鄙というのが重要なもので、移動手段が少なくともぎりぎりどうにかなる、と、いうものはこの町の息が長いことに直結するのである。この町の長所を聞かれたとすれば、祐は即座にそのように答えることができた。
 しかしながら、学校と下宿先であるアパートの道中以外には必要以上に足を伸ばすことが少ない――つまり、再開発地区からほとんどでない祐にとって、茅之間町における田舎らしい一面をまざまざと体現する景色は新鮮だ。
 思わず視線を巡らせ周囲を眺めていると、一本の主要道路以外はすぐに各々の田んぼへ重機を乗り入れるためのような道が縦横無尽に広がっていることに気付く。
道路とそれを隔てるふちである白線の足元は、水路がすぐそばを通っている。
ガードレールは申し訳程度に設置されるばかりで、時おり途切れると雑草の浸食だけが道路と田畑の線引きになるのだ。
まさに田植えの準備が行われている農道の太い一本道を進むと、すぐ近くで水を張った田に乗用の田植え機がのっしりとした緩慢の動きで泥濘を進んでいくのが目に見えた。
 祐にとっては異様であるともいいようのある光景であったが、伊三路と暦はそれを特筆して珍しがることもなく、アスファルトの敷かれた黒い道を歩き続けている。
時たまに田んぼを出入りした後の泥と水で濡れたタイヤ痕の上を歩き、蛙の声に耳を澄まし、遠くの林にぼんやりと霞む春の藤や山吹の色を見ていた。
不思議な気分だった。
商店街を抜けてまだニキロも歩いていないというのに、少し進むたびに目まぐるしく鄙びていく風景なのだ。
もうずいぶんと歩いたのかと錯覚することは容易なことであった。
「それにしても、暦が鶴間家の、おまけにずっと年上の人間と仲良しだなんてね。おれは確かに御三家の概要を知っているけれども、実際に口をきいたことはないから、なんだか気位の高い人たちなのではないかと思ってしまうのだけれども」
「失礼がないことにこしたことはないのは当然だけど、鶴間さんは話したとおり気さくなひとだよ。公民館でやっているシルバー囲碁将棋倶楽部に所属してるんだ」
 学校で聞く暦の所属とは異なる名称に伊三路が深い角度で首を傾げる。
まるで耳馴染みのない言葉を復唱している仕草であるが横文字に疎い舌の発音は、暦や祐の耳にはかえって異国語のように捉えられてしまいそうだった。
「しるばあいごしょうぎくらぶ? しるばあ囲碁将棋倶楽部かあ、学校以外の集会へも出ているんだね」
「うん。商店街の近くに会館があるでしょ。あれ、町営公民館でさ。うちのボドゲ会とシルバー……老人会主催の囲碁将棋俱楽部で交流会をしたんだ。それ以来たまに通っててさ。仲良くなったんだ」
 暦は最後の催しの時期を思い出すように記憶をひっくり返して目を細めた。そして手探りをしていくうちに視線を上向きにしながら言葉を紡ぐ。
「確か、この前は伸司くんも一緒に行ったんだよね。だから、本当についこの間の放課後だよ。木曜日かな? 開催自体は週二回で、僕はだいたい二週に一回の頻度で参加してるんだ」
指を折って数を示し、記憶をたぐることの終着点にたどり着いた暦は改めて伊三路の顔を見た。
「最近は弥彦くんと予定外の枠で何回か行ってさ。ゆるいから開催日外も茶のみっこで集まってるんだよ、あのひとたち。賑やかで楽しいよ」
 参加人数の規模や集まりの様子を思い浮かべ、実際の活動内容を細かに説明していく暦の言葉に相槌を打ちながら伊三路は聞いている。
時に質問を返し、時に大人数で過ごすためのルールを聞き出すのだ。
 囲碁将棋倶楽部との名称はどこか粒ぞろいで向上心の強い集まりを想像させるが、その実、交流を持って地域のつながりを強くするための集まりにおける遊戯部門である。
実際の活動においては囲碁や将棋の他にカードやトランプ、それからすごろくをすることもあると聞いた伊三路は、語られるものから自分でも参加できそうな内容が増えてきたことにたちまち目を輝かせる。
「へえ! いいね。きみがたくさんのひととたのしくやっているみたいで安心した。参加することに敷居の高さを感じないこともいいね。いいなあ、伸司も楽しんでいた? 彼はつよい?」
「うーん、彼はトランプとすごろく以外は大体初心者だから、反応が面白いのかすごく好かれてたよ。正確にはおちょくられてたとも言うけど……次は負かしてやるってこの前うちの会で置いてる本を借りていってさ。あ、でもロールプレイつき人生ゲームは盛り上がったし、なんか強くて、周りからもひときわ気に入られていたかな」
 老人たちの茶請けよろしく消費される勝敗の前でのしのしとがに股をする足を鳴らして憤っているうしろ姿がまざまざと想像できてしまった伊三路は、企み顔のような笑みを浮かべて口端をきゅっと持ち上げた。
つられて、あるいは気恥ずかしさから照れくさそうに笑うと「伊三路くんも結崎くんも、よかったらまたうちの活動をのぞきに来てよ。集会は――ほら、方言のパレードだから結崎くんにはキツイだろうけど、学校内活動の一環ならね。気が向いたら検討してみて」と頬を掻く。
 何も悪いことはないというのに下がった視線を気にしつつ、意識して胸を張ろうと顔を上げる暦が照れ症で顔を赤らめるのだった。
「もし、事前の申し込みだとか、手続きだとかを踏めばおれも交流会のほうにも参加できるのかなあ?」
「伊三路く~ん! もちろん大歓迎だよ! 入館記録に名前書くくらいだから心配することもないし、ルールは一緒に学んでいこう! 定期的に勝ち抜き戦大会もあるからきっと楽しいよ。景品つきだから話題性もあるし、会話が弾むの」
 拳を突き上げる仕草で鼓舞した暦が田畑の中に疎らと家屋が見え始める通りに入ると、そのままの腕の高さで指を向けた。
「あ、あそこ。ほら見えてきたよ」その方角に伊三路と祐が視線を向けると、突き当りに二人の想像よりも大きい家屋の立派な門構えが姿を現していた。
 全容が窺えるまえからハッと日本家屋を想像して間違いない伝統的な造りをしている。しかし仰々しく囲いがあると思えば、贅をつくすこともなく存外にあっさりとしている。
それは、あくまで想像との比較級の話であり、通りに並ぶ家々を順繰りに見れば背を正したくなるものというには十分なものだった。
 冬青の植木や細い葉の下草、木虫籠窓のように一部を透かし抜いた門扉はモダンデザインに寄り添い現代を鮮明に生きている。壁のように迫る圧を植栽が和らげているのだ。まるくやわらかな息遣いが感じられていた。
アプローチの足元である白い玉砂利に祐は目を細め、隣で感嘆の息を吐く伊三路は広いであろう敷地内をぐるりと囲む鎧張りの塀やそこから覗く瓦の群れを見上げていた。
「見て、祐。鯉が泳ぐような屋根! すごいねえ、格好いい。どんなに強い風が吹いてもびくともしなさそうだ」
 その声に導かれて視線を上げる。
 最初こそ意味のわからない例えに思えたが、黒々とした重厚のある屋根瓦は底抜けに青く澄んだ空を背景にするとなるほど魚のうろこにも似ていた。
艶消しのざらりとした表面を想像すればするほど、それはただ無機質に思える土や石の肌よりも、水面の近くを泳ぐ真鯉の背と姿が重なる。
優美にたゆたい、尾を返し胴をくねらせる観賞用の池の中にある静謐を思わせるのだ。
それらが朝露や、雨上がりに光を反射するとまさに魚のうろこに見紛う要素として十分であった。
祐は例えの形容に感心すると伊三路と同じ姿で、その美しく並ぶ瓦に規則的な影を落とす雪どめ金具の輪郭を首を伸ばして眺めていた。
趣とモダンが落とす奥行きある影が、時代相応ながら荘厳な鶴間家の歩みを適切に表しているであろう様を見て、現当主の柔軟性を窺い知る。
 そんな思考と共に田園地帯という前置きを語らずとも確かに豪邸の部類である邸宅前で、インターホンを鳴らそうとする暦の後姿に視線を戻す。
すると、その肩越しに見える表札を眺めて眉を顰めた。
簡素な表札は比較的新しい門扉や手入れのされた塀よりの中でも明らかに瑞々しく見える木材で出来ているのだ。
時代ごと好まれるデザインを絶妙なバランスで昨今の人気と交差したものに位置づけをする門扉の周辺は確実に意図して設計されたと思われるというのに、その力強く筆で書かれた文字は太陽光を浴び、墨独特の照り返しをしている。見方を変えれば、異質と語って過言ではない。
 派手な彫込みこそないものの、何か押し当てたような痕跡に手作りを想像した祐は、暦の言い分も手伝っていよいよ現当主の扱いにくさを鮮明に人物像へ重ねてしまっていた。
多岐にわたるであろう趣味や柔軟性、行動力。
日野春暦を圧倒するペース、年齢を重ねることや立場から得るであろう経験。
これでとんでもなく偏った自信と説教癖があったとすればたまったものではない。
外観の壮大な数々に興奮し鼻を鳴らす伊三路の横で、祐は頭が痛くなるような思いをする。
勝手な想像であると十分な理解をしながらも、途端に文字が忌々しく見えるのだ。
「その表札、どうだろうか?」
「う、わあ〜?!」
 突然に背後から飛んできた声に暦が悲鳴を上げる。
勢いを余らせて前のめりになった身体が――正確には指先が、先まで怖気づいて押せなかったインターホンのボタンを押し込む。
祐は僅かに肩を揺らして振り返り、伊三路が誰の行動よりも早く二人を庇い隠すように前へ出る。
ついぞ気の抜けたチャイムが晴天に高く、そして陽気に響く。
誰かが唾を呑むことを空気伝いに感じられた。
重く、それでいてピンと張った空気が剣呑をしつつ、狙いを定める捕食者の態度でゆっくりと首をもたげた。
誰もが予想だにしていない声を受け取った過剰な感性を警戒に変換していたのだ。それを全く気にすることなく、声の主は前方で唸りをあげる。
「私が書いてみたのだが。えんぴつのあとがなんとも締まりない。今からでも焼き加工でもしようか悩んでおる」
 声の主である本藍染めの着流しを纏う老人は、白髪が大半を占める頭髪を中心で分けて上げた前髪を整えるように撫でつける。
そして考える仕草をしながら、何度も頷くのだ。
自分では気に入っているのだが、と今に言いたげなことが伝わってくる。
勝手に納得と質問を繰り返した後に、いつまでも固まっている暦や眉を吊り上げる伊三路の反応を見ては満足そうにしわのある口端を持ち上げるのである。
目を細める姿は品定めをするようであり、同時に悪童がそのまま成長したようなろくでもない企みをする様子だ。
 何の説明がなくとも、目の前の人物が鶴間家の現当主であることは間違いない。
伊三路や祐にそう思わせるには十分すぎる状況が出来上がっていた。
なによりこのふざけた登場にも関わらず、わずかに威厳を残り香にまとう姿にはたしかな貫禄があったのである。
圧倒されて背を僅かに引いた後に気付く。この一見ではふざけているはずの老人の立ち姿が――なにより姿勢正しく、自信にあふれた顔つきが、彼をそう貫禄があると足ら占めているのだ。
「そんなに驚いてくれるだなんて、この老いぼれもまだいけると錯覚しそうだわな。ああ、説教でも自慢話でもないぞ。来訪を今か今かと待ちきれないじじいの"おちゃめ"さ。許せ、若者よ」
 豪快に笑った背の正しい細身の老人は、思い出したかのように「ウーン、ほら、なんだ、老いさき短いじじいに免じて、な?」と、付け足す。
厳格に見える佇まいに反し口をひらけば威厳なぞどこ吹く風とし、孫との距離を模索するどこにでもいる祖父という地位に未だ慣れない高齢男性そのもののような姿だ。
「も、もう! 喜一郎さん。驚かせないでください! 笑いどころのあやしい冗談も! だめですよ!」
「なんと? 由乃が似たことをよく言っておるじゃろがい。許してちょうだい、ってかわいこぶってな、もちろん可愛いが」
「年齢ネタは年離れすぎてると笑えませんって」
 焦ったような、それでいてまだ驚きを引きずって上ずる声色の暦が親しげに会話をすすめる様子を静観し、伊三路は肩にこもった力と共に緩やかに警戒を解く。
今に踏みだせる準備をしていた脹脛は緊張をやめ自然のままに弛み、踵は安堵にして地へおちついた。
「じゃあ次は暦君に流行りでも教えてもらおうかね」
 下駄を軽やかに鳴らしながら三人をわり入り、門扉を開く鶴間家現当主――喜一郎はのんきに暦をあしらってカラカラと笑った。
「連れてきてくれた仲間は友想いの力強い子どもと……」
ちら、としわを刻んだ目元が下瞼をなぞり、ゆるりと順番に客人を見渡す。
年齢を重ねて皮膚が下がり、落ち窪んでも見える眼窩の奥で水の底からしっくりと眺むような瞳が祐を眺めていた。
「これはまた物静かそうな。それで? どう思うかね、君はその表札を」
 接触を避けるように表札へ再び視線を移していた祐に喜一郎は問いかける。
足元で植え込みから溢れた砂利を踏む音がする。
最適解を求めようにも到底理解の及ばない初対面の人物を前にした祐は、もはや繕うことはせずに熟考も省いて率直な感想を述べた。
「語れるほどの書道の心得もデザインのそれも持ち合わせてはいません。ただ、妙に新しく見えたので気になりました」祐の素直な言葉に喜一郎は頷き、「ふむ」と相槌をうつ。
上辺より一歩踏み込んだ回答を催促しているのか、祐の思考を読み透かした様か、少なくともいまの差し当たりない答えでは納得がいかない様子であるのだ。
祐は思考を悟られぬよう、それでも幾分か肩の力を抜いて続ける。
「……よりモダンなデザインを取り入れていると窺えるので、個人的には焼き加工よりも角を落とした丸みのほうが調和すると考えます」
「ほう。字体にあうか些か悩みどころか」
ちら、と一瞥する表札は力強い筆文字に、ニス加工がなされいる。
一昔前の想像で語るような熱血道場の看板か、職人気質の強い気難しさを表すことに使われる現在における演出のイメージに似ているな、と、祐は考えていたのだ。
「今の加工では太陽光を多く反射しているので、角を落として艶消しにすれば最近らしいという雰囲気は出るのではないでしょうか。それにシンボルツリーの新芽にも木の肌ままの色が合うでしょう。焼き加工で門の木材に近くなれば表札自体が目立たなくなるかもしれません」
 暦が話の側で未だ緊張の尾を引いてぎこちなく表情を固くしている。伊三路は祐が指したシンボルツリーがいかなるものか眺めては節に伝い歩きする羽虫を見ていた。
「なるほど。他人任せが常だとひとりになった途端に堂々たる筆文字だの、色つきの墨だのとばかりしか浮かばんのだ。店屋を呼びつけるのも面倒だし、結局伝統デザインを推される。君の意見、ぜひ参考にさせてもらおう」
「恐縮ですが、素人ましてや未熟も過ぎる者より専門知識を有する者の案であるほうが当然よいものができます」
「なあに、加工するのも素人じゃないか。私がやるんだ。ならば素人である君の言い分くらいがちょうどいいんではないかね」
「はあ」と、気の抜けた返事をする祐に、また喜一郎は嬉しそうにして腕をこまねいて袖手した。
「門に合う色を選んだつもりがあんまりかと思っていたのだ。君は良い眼を持っていると見た。いや、私のセンスがないのか? まあいい。ちょうど、代々受け継がれていた表札は先日割れてしまってなあ、これはまた縁起が悪いだろう?」
 待ちくたびれているであろう置いてけぼりの二人を順番に眺めて相好を崩すと、言葉のわりに由緒ある表札の喪失にこだわりがない様子の喜一郎は門を跨ぐ。
「そら、立ち話もなんだ。自己紹介は中でしようじゃないか。入りなさい」
促される声に暦が頷き、さらにその後に二足分の足音が続いた。



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