獣の呼気が、霧を吹いていた。
正確には少年が瘴気と呼んだものが影の色を帯びているために一定の透明度を保ちつつも煙のように滲んでいる。
それがゆるうりと立ち上って空気と混じりあう姿が先の言葉を連想させた。
同時に獣が踏み切ったブロック塀は、吊るしていた糸を切っただけのようにあっけなく崩落し砂塵を巻き上げていた。
砂地をコンクリートで固めた塊を砕く脚力は、舗装された道路を砕き続けるわけではなかった。
ほとんど音もたてず袋小路からとらえることのできる視界いっぱいいっぱいを祐になど目もくれず走り抜けた獣の足音は、まるで少年の素足が硬い道を踏むように気の抜けるものだ。
一見では犬のように思える姿形をしているが、爪が道路を引っ掻く音はしなかったために、猫と同じように爪の存在を潜めることができるのかもしれない。
体躯にかかわらず狩りをする生き物そのものの動きである。
それだけの身体を持っていれば狩りなどしなくても大抵の獲物には追い付いて、蹴りつければその圧に耐えられない内臓が勝手に潰れる。
易い想像から乖離する獣の姿に思考が巡る。
横道にそれようとする数々に対してそもそも自身の常識に当てはめて翻訳のできる生き物ですらないかもしれないという思考に糸を結ぶと、呼吸を潜めていた。
獣が大きな鼻を膨らませて匂いを嗅ぎとろうとする音が聞こえている。
 袋小路という不利のために、唯一である小路の入り口から目を逸らさずに、覚束ないままの手つきでカッターナイフを手繰り寄せた。粗い舗装の肌が、カッターナイフの金属を嫌な音で撫ではしないようにしっかりと握り込んでいる。
行動をしている気配はあるが、あの走りと急に止まることはできない四足歩行の性質を見るに幾らかの距離は開いている。
獣にとっては些細な距離であっても、小回りと電柱やその他住宅区画のことを考えれば不利は薄れている。
姿勢を低くした祐が袋小路からそっと抜け出し、首を伸ばして獣の姿を窺っている。
獣は尻を向け、姿勢を低くしていたが少年の痕跡にこだわっているようで視認できる距離を移動する祐には気付かないでいる。
標的である少年はこの辺りで消えたはずである、という想像と空腹に憑りつかれてこちらへの興味が削がれている。
あたりををうろつく生き物が大型の獣だけであるわけではないことは、獣自身が証明している。
この場所にエネルギーの元となる血肉があると想像すれば当然である。食物連鎖の三角形をなぞって獣の位置を考えれば、この場所は非常に危険である。
そしてこの場所から無事帰してやると宣った少年の言葉から彼は置き去りにした己からあまり離れない場所で解決しようとするだろう。
祐の中で、散らばっていた思考がまとまっていく。
とにかくこの場所は広すぎる。
小回りが利いて多方面へ抜けられる場所への移動は必須だ。
 まだ遭遇してもない生き物の姿形を想像するより、一人きりでも獣の一挙一動に対して姿を眩ませることのできる環境が優先される。
何より――想像だにできない中でも想像しうる少年の行動を先回るに、距離をとるだけであれば、今この瞬間を超える好機はもう、ない。
ローファーの硬い靴底が音を立てないように、それでも可能な限り急ぎ足で路地を進んでいる。
眼前の鮮やかな空の色に眩む感覚を覚える。
少年が瘴気と呼んだ空気が渦を作り出す倦怠と、郷愁の欠片もないべったりとしたオレンジ色、それを遠くで霞ませる空気の層。または塵の乱反射。
とにかく濡れた町で浮き上がる現実の様相を目の奥で像と結ぶ眼球がついぞ受け入れを拒否している。
眼球の底面が硬いもので殴られる窮屈がある。
 道なりに続くブロック塀に沿って右に折れる瞬間、獣の視界から外れる安堵より先にどこか後悔に引かれる思いで足を止める。
舌の上で未だざらついている甘ったるさが、緊張でとっくに乾いて痛みを覚える喉に染みている。
ざりりとして、とても何もなかったとして飲み下すことはできない。
そうにしても舌の上に残しておくには奇妙な苦みを孕んでしまう。
皮膚の上から触れた脊髄が、思わず逃げたがって背が逸れる敏感が、乾物にした草木を粉にした甘苦さを知る味覚と連想している、という表現が似合う。
とにかく、いつ抜けられるかわからないこの窮地を抜けたときに不可解を現実にあったことであるのだと納得させることなど到底無理なのだ。
だから、少しくらいは納得させることのできる材料が欲しいだけ。その欲求が甘さを享受させないために苦みとして舌の上にあるだけだ。
正体を確かめる必要などない。
そう言い聞かせながらも、燻る思考への折衷案として電柱の陰に半身で滑り込むと祐は一度だけ振り返った。
獣は胸を伏せるかのように這っていて、低い姿勢でいた。
獣に対して二足歩行である人間と同じ言葉で当てはめるのは些か間違いである気もするが、肩を竦める様に似ている。正確には首が埋没して見えるほど低く姿勢をとっているのは、狩りをするネコ科そのものだ。
踏み切る間を見定めている視線の先に、おそらく、少年はいる。
この時点で、祐は己の間の悪さと、中途半端に甘んじた結果を後悔していた。こんなものを見せられたら気分が悪い。
祐の思考も空しく、張り詰めていた見えない糸を突き破って漆黒の体躯が微かに浮き上がる。
それからは一瞬だ。獣は霧を裂いて跳びあがる。頭の高さは変わらないまま、すっと身体は動き出す。
これだけの距離を置いてなお、足元に微かな風の圧を送る獣の挙動にどこからか飛んできた木の葉が泳ぎだす。
風に舞って塵が頬を叩く。
遠くでは油の膜を掻き立てた赤と絹織りであろうあでやかな白が点滅して宙を舞っていた。少年の姿だった。
放り出された足場もない中で、煽られたままのけぞっていた体勢を立て直している。
その肉体に意思が宿っていることが察せられることから、少年に獣の爪は触れてはいないようだ。
祐は薄く唇を開いたままそれを見ていた。
ふと、ずっと遠くにいる少年と視線がかち合ったように思えていた。
騒めく柔らかな土色の髪の毛先から青々と茂る草木の色が覗く瞳を近くで見ている感覚だ。
陽に暖められて青臭さが漂う前のしんとした朝の草木に混ざって微かに甘く燻した木の皮の匂いがどこからかするように思えた。
さざめく川面で翻る光が、確かに意識の底にある。
その感覚は気のせいであるかと問いかける前に、少年の身体は庭木の茂みに音を立てて落ちる。
ハッとした。
ローファーの靴底が道路舗装の上に散らばっては未だ呼吸をしている砂に落ちるべく光を遮っている。
 何処へも行けたはずの足は、いつの間にか回り込んだ道の、知らない民家の前で止まっていた。
どこにでも存在するような苗字がこれ見よがしと体裁を整えられ、筆文字の筆致を真似て刻印された表札を一瞥する。
雨垂れを追いかけて這いだす苔が黒々とした深い緑を形作っていた古いブロック塀だ。
ほうと開いた口を塞ぐように古い白の軽セダン車が留まり、駐車しやすいように後付けされた小さなミラーの根元に先の表札が取り付けられている。
軽セダンの向こう側へ目をやれば植物の手入れが趣味なのか手製の鉢棚が駐車場の隅に鎮座し、錆かけの剪定鋏と素焼きの鉢が放置されていた。
この場所で少年以外の人間という人間の姿を認めることのできていないとはいえ、他人の生活がすぐ傍に感ぜられる場所に無断で入ることに抵抗を感じる。
すぐ背後にある生活が肩越しに囁こうとする姿に気配を集中すれば、まるで無防備な首の後ろに水滴が触れる。
意識が散漫とすれば、綻ぶ目の下を潜り抜けて皮膚の内側を這う想像ばかりしている。どうしようもなく、嫌悪だの、怖気とだのとしか言いようのない本能的に嫌な気配が意識の曲がり角に控えているのだ。
この感覚を忘れるものならば一瞬にこの身体は奪われるといえる。
 足の裏に柔らかく、弾力のある土を感じながら物干し竿のある庭へ回り込む。
カーテンが開いたままで、縁側に畳よりも現代の内装に寄り添ったい草のラグが敷きっぱなしであることが知れる。庭を見るのが趣味なのか一人用の座卓に、漆塗りのコースターが置きっぱなしにされている。先ほどまでグラス受けに使われていたらしく、木目の残る艶やかな漆塗りに水滴の影を見る。
次に、縁側に座るであろう人物が視界に入れたがるであろう庭を見る。こちらは立派な盆栽棚だ。
屋外用であるとはいえ、きちんと防水と腐食を抑えるための加工が施され、視覚を楽しませるためだけの塗装も行われている。
善し悪しに対する理解や共感はできずとも、この庭を愛でる主が大切に思っていることを窺い知ることは十分にできた。
 だからこそ、祐は哀れに思うのだ。
この荒れ果てた姿を知ったとき、肩を落とすだろう。
折れていても、木の皮一枚で繋がっている枝がいつまでも揺れている様子が哀愁を誘い込んで視線を逸らす。
茂る庭木の足元では折れた枝と、枝から振り落とされた木の葉が多く散らばっており、この場所に抵抗のすべもなく押し付けられた力の大きさと凄惨さを想像せざるを得ない。
緩やかな円を描くように剪定された膝丈の低木の上に身体を預けたままの少年は、指先で祐の気配を感じとるとようやく後頭部からまるで重力に逆らって浮き上がるくせ毛を揺らした。
脳からの指示を受け付けた指先がびくりと跳ねる。それから緩慢な動作で、少年は顔を上げた。
頬を濡らしていた血が乾きかけている。彼の身体から流れる血は、未だないようだった。
「どうしてここへきたの。おれのことが信じられないのならば、きみはきみが信じたい場所へ行くべきだ」
絞り滓のような声だ。
驚いているのか、身体を痛めて声を出すのが苦痛であるのかも判断がつかないほどに小さく消え入りそうな声だ。
少年は下がりかけた瞼を持ち直してしっかりと祐の顔を捕らえた。深々と息づく自然を思わせる緑が光を反射し始める。
反対に、祐はため息を吐きたくなった。吸い込んだ酸素が呼気として吐き出されるべく肺の底を丸くなぞる感覚が胸にある。
そして肩が上がり呆れた声色となる前に、思い出したようにそれを飲み下した。
少年の間合いに飲み込まれてはいけない。
ブロック塀一枚隔てた向こうに獣がいてもおかしくはない。人間にとっては強固な壁も、その体躯が規格外である獣を前にしては砂礫でできているも同然だ。
これは防護壁ではない。時間稼ぎの視界を妨げるだけのものだ。
声を潜めて膝を折る。きょとんとする少年との距離を縮めて祐はようやく言葉を形作った。
「発言をするのならば責任か一貫性かのどちらかは保持し続けるべきだ。人間性や信用に好感を持たせたいのならばな」
「それもそうかあ。きみがおれに教えてくれることは、とても正しそうだ」
祐の様子を察してつまみを絞った声色の笑みを交える少年の掠れた息遣いに対し、じっとりと眉が寄る感覚がする。
気が抜けて意味を成さない言葉で笑っていた少年から波が引くように表情が失せていくと、再び全体の輪郭が丸みを帯びるように計算して剪定された細かな葉の上に顔をうずめた。
「割れてしまった焼きものの欠片みたい」
「はあ?」
「暗い顔をしているって心配したのさ。いいや、今に怖い顔、かな? うん、うん。おれがちゃんと帰すよって言ったもの。責任をとるよ」
草木の上を這いだす自身の情緒を訝る祐に上目遣いをして見せ、少年は立ち上がる。狩衣の前に垂れる飾り布についた小さく丸い葉をつまむと息を吹く。
ふわりと舞った葉を見送っている間に感情に区切りをつけたのか、しめ縄と狩衣の間に挟めていた短刀を手にした少年は凛と前を見据えていた。
「目の前で死なれたら、それはもう……うん。後味が悪いさね。互いにね。とはいえ、暴れられて町を壊されては困る。この前提だけでどうにも動きづらくってさ」
潜められた言葉に、祐は唇を噛む。
 学生鞄を右手に持ち替え、意味もなく周囲へ視線を泳がせている。
不本意という感情をはじき出す思考を疎み、縮めた首の居心地悪さをどこかへ逃がそうとしている。
「この場所に詳しい口ぶりをして、見ず知らずの場所に放り込まれた人間に対してどのような言葉で誘導すれば思い通りになるか心得ている。……お前は異常事態を脱する術を知っている。そうだな」
もはや疑問としての意味すらないまま、顔を逸らす祐の顔を少年は不思議そうに見上げている。
「そうだね。ところで、きみはどうしたのさ。こわばった顔をしているけれど」
「話を遮るな。茅之間町のうちでもここ――烏丸地区は町で奨励している再開発エリアだ。東に多くの空き家を解体して更地になっている場所がある」
その先の言葉が孕む憂鬱に祐は俯く顔に手を添えた。じっとりと汗ばんだ肌にざらつく人口皮革の手袋が触れる感覚をなぞっている。
撫でつけられた前髪が柔らかく存在する輪郭を鬱陶しくすぐっている。ゆっくりを頭を振って思考を払っていた。
覚悟を決めたように頷き、肩をゆったりとさせると萌黄を滲ませた碧色の瞳を向ける。
「お前の人となりも行動予想も悪癖も知りはしない、興味もない。だがお前は地理に些か疎いということだけはわかる。理解できるか。不本意だが協力するしかない」
「……協力?」
「獣の相手はお前に任せる。俺には飢えた獣を相手にする身体能力がないからだ。口ぶりからして町を壊される状況下になければ勝算があるようだからな。初手で獣の意表をつくことはできそうか? それが獣を手負いにする必要はない」
黒い手袋の裾を掴み、おさまりをよく精神を落ち着けると祐は胸ポケットから生徒手帳を取り出す。同じく胸ポケットの内側にひっかけていたボールペンをのキャップを外す。
「うーん、そうだね。奴が本能的に恐るような――例えばだけれども、強い光などでも構わないのかな」
この状況に見合う例えであるのかと疑問に思った祐が片眉をあげる。
どこにその光源が?
そう言ってやりたくなったが、例えである以上、何かの比喩であろうと勝手に納得させて生徒手帳のメモページを一枚切り離した。
そして安っぽく滑りのない紙にペンを走らせる。
ペン先のボールが転がり、インクが紙に染みていく。速記に向かない細い先によって描かれる文字は細く、やや不安定を思わせていた。
喉を通り過ぎるべく唾がひっかかって留まるような感覚だ。
綱渡りの綱に足をかける瞬間なのだから当然だろうと祐は早る胸に短く息を吐いた。
「ああ。比較した際にお前という選択肢の優先度を一瞬でも下げられればいい」
手元をのぞき込もうと左右に首を揺らしている少年を視線で制して、手のひらに収まる紙片に書き込んだ図を見せる。
おおよその現在地を丸で囲い込んだ住宅地の簡易地図をボールペンの先でなぞる。
時々頷きながら聞いていた少年の表情はみるみるうちに曇り、自身の顎の先を指でなぞって微かに眉を顰めてしまった。
「待って。きみは今しがた、獣の相手はおれに任せるのだと言わなかったかな」
想像しうる反論をものともせず祐は続ける。
足を掛けた綱を今さら降りれるわけでもない。
兵力もなく身体能力にも自身が足を引っ張るのであれば、逆にそれを利用するしかないのだ。
「イレギュラーを起こさないための役割として最適解だろう。先の一○メートルを満たない距離と最後だけだ。中間の誘導は俺が示した経路を全てお前がお前の責任で行う。且つ、獣の行動予測をしながら適宜行動を変えなくてはならない。お前のやるべきことに関しては最適解もなにもない。他人の心配をする場合ではないだろう」
「確かに、おれが例えた強い光には多少時間が必要であるけれども! いいや、おれのことはどうだっていいさ。どうしてきみが? 最初と最後がいちばん危険だと言っているんだって」
興奮した口ぶりだ。小鼻を膨らませて語気を強める少年の口元に手のひらを近づける。
地響きのような唸り声にはっとして口を閉じる様に、共有するための言葉をほとんど息遣いだけの言葉で祐は続ける。
「獣が飢えているのが理解できるな。これ以上に飢えが進行すれば本件は意味を無くすうえに、獣は町を壊してでも獲物である俺たちを炙り出すだろう」
「それは――」
「俺とて危険を冒すつもりはない。地点Bを通過する前に天秤が傾いた場合は町の無事は諦めてもらうからな。その際はお前は俺の命を第一に考えてもらう」
すっかり萎びて俯いた少年に祐は学生鞄を持っているように差し出す。
「重ね重ねになるが、あえて言葉にしてやる。信用に足ると手放しに言えはしないが、このままでは打破できない状況をともにしている。利害の範囲ではお前しかいない、そうだろう。言いたいことがなければ行くぞ」
憂いを浮かべた横顔に光が当たっている。
丸い頬に落ちていた影が、前を向くに従ってゆっくりと無くなっていった。
「弱気になってる場合じゃあないね。状況が手伝っているとはいえきみはおれを信じてくれているのだから、おれにできることはきみに応えることだけだ」
気の抜けた笑みと共に祐の学生鞄を受け取った少年は祐の隣に並ぶ。
誰もを拒みはしないブロック塀の口はおどろおどろしい空気からふたりを守るように囲っていたのかもしれない。
雨垂れに這う苔の色に一抹の不安が浮かぶ。
死は命持つものの側面として恐ろしいのは当然である。
ただ並行して浮かぶ思考はこれを打破して待ち受ける現実を思えばどうだっていい。ただその無関心だけだ。
どちらの皿にも死が乗せられている天秤が傾く様に手を叩いて一喜一憂しているなどただの狂人である。
天秤の皿が何度取り替えられても乗せられているのは死であって、傾くことではなく水平を維持することが生きるということなのだろう。
天秤が傾いて揺れている。それに対して胸が期待に膨らんで鼓動が速くなっている。
大衆のための非日常に呆れた自身が己だけの非日常にたまらなく興奮している。馬鹿々々しいと一蹴できない自分が確かにいるのだ。
「ねえ、ありがとう。おれのことを信じてくれて」
そう呟いた少年の声がずっと遠いもののように思える。
押さえつけるように胸を撫でつける。ゆっくりと息を吐いて感情に蓋をする。
頭の半個分ほど背の低い少年の視線が祐の輪郭をなぞっていた。
ようやく言葉を飲み込んだあとに頷き、彼を促して前を向けば、口を開いたブロック塀の向こうに無機質に濡れた町が広がっている。
「勘違いするな。成り行きだ」
浪費であると、言葉を吐き捨てている。

 静かになった場所で、祐は毎朝行う家を出る直前のことを思い出していた。
洗面台の三面鏡前に立つ。よく磨かれた鏡に映る薄暗く澱んだ瞳とは目を合わせない。ただ、そこにある瞳を漫然と認識しながら身だしなみを整える。
髪の毛に櫛を通して、場合よって落ちた髪の毛があればさっさと拾い、ティッシュに包んで捨てる。
軽く手を拭いた後にブレザーの襟を正し、その指先の形のままカッターシャツの襟に触れる。ネクタイの結び目を締めなおして、ゆっくりと息を吐く。
最後に冷たい水に手を濡らし続けて、玄関に置いていた黒い手袋のことを思い出している。そろそろ替え時であるだとか、それの洗濯を含めた帰宅後にやるべきことの順序を組み立てている。
こうやって憂鬱な日々をやり過ごすための外側を作っている。
今は鏡も、明確に己を切り離すための金属の重い扉もない。ガチャンと回す鍵で降ろされる思考もない。
ただ感情を整える儀式のようにカーブミラーの下で祐はネクタイの結び目を締めなおした。慣れた指先が胸の前で惑って、先ほどブレザーを少年に預けたことを思い出す。
ブレザーに押さえつけられていないままぶらつくネクタイの剣先をつまみ、僅かに思考を巡らせてから折り込んだ剣先をシャツの胸ポケットに突っ込む。
そして胴のあたりと、胸ポケットの縁を挟んで固定するようにネクタイピンをつけなおす。
 次に尻ポケットに移し替えていたカッターナイフを取り出すと刃を繰り出し、黒い手袋から手の甲を僅かに露出させると鋭い白銀の色を押し当てた。
ごく僅かに肉をなぞるつもりで薄皮を引っ掛けた刃を手前に引く。
手加減も虚しく想像より脆い身体は冷え切った肌に熱した金属を押し当てたときの焦れる痛みを覚え、奥歯をかみしめる。
今に吐く息に呼応してぷつりと玉の様相に血液が浮かび上がり、空のオレンジ色を反射として映し出す。
脂の滲んだようにも似た色に激しく掻き立てられる嫌悪に片眉を潜め、逃れるように祐は周囲を見渡した。
風に乗って拡散する血の匂いを獣が嗅ぎつける前に、祐は背後の民家を囲う生垣の一部としてあるフェンスに手をかけ腕の力で身体を浮かせる。そして隣の土地と隔てるブロック塀に這い登ると、塀から道路側に大きくはみ出る庭木の影に身を隠した。
 肺を空にして少しでも身体を軽くする。そして新鮮な酸素を取り込むたびに身体は白く、そして透明になる。
誰もがこの気配を感じ取ることはできない。この辺りに血の匂いの発生源があるということ以外をなかったことにするようだ。
どうせ見つかるにしても気配が薄い方が時間を稼ぐことができる。
閉じた瞼の向こう側で意識を薄く伸ばしている。少年が言った大袈裟な演劇のような台詞言葉をなぞっていた。
自然と深呼吸の形になっていく身体はすっかり平静を取り戻していて忘れていた呼吸は命のサイクルの一部になる。
静かな地響き――正確には獣の唸り声が近づいている。
鼻腔に取り込んだ拡散された血の匂いを反芻して鼻を鳴らしながら膨らませている音がする。いやに重たい唾を飲む。
淡々とした時間が、ずっと重く腹の下で流れている。緊張が続く様が延々の重りをつけてぶら下がっていた。
下瞼の皮膚が乾いて、霞んでいた。眼球の下の方がざらついている感覚にも似ている。
とにかく、それが集中力を削ぎ始める頃だった。目下で黒い毛が揺れる。雑面をつけられた顔がスーッと横を通り過ぎていた。
 息を止めていると雑面の顔が周囲を見渡しながら先へ進んでいく。
祐はそっと身を乗り出し、なるべく音を立てないようにブロック塀を降りる。曲がり角を折れてから半身で振り返ると手に持っていた音楽プレイヤーからイヤフォンを外し、適当に丸めてスラックスのポケットに押し込む。バトンを持つように逆手に持ったプレイヤーの再生ボタンを押し込んだ。
静寂と唸り声。時折風の音がして、庭木の葉がささやく。
カチリとボタンを奥まで押し込んだ音がする。スピーカーモードとして内蔵された音声が流れだす。
流れ出したのはすでに祐が普段聞いていた英会話の教材ではない。大量の砂を篩うように左右に揺らす音だ。
細かい粒子で傷をつけながら絶えず流れ続ける砂のさざめきが湿った空気をよく伝っていた。
黒い獣の立ち耳が音を聞き取ると同時に、黒い塊がぐうるりと早いとも遅いとも言えない速度でこちらを向く。
匂いの発生源は此処であると見せつけるように手袋をまくり、手の甲を見せつけると祐は折れた角の先へ駆け出す。
視界の端には横ブレするように残像を残して駆け出す獣の底なし色の被毛が残っている。
この先は大通りだ。
獣が全力で駆けて脚を――鋭い爪のそなえられた足先を振り上げればひとたまりもなく、この身体は内臓をぶちまけるだろうな、と想像を膨らませる。
だが、この先に曲がり角があることを理解している獣が道を折れるまでは加減をして走るはずなのだ。一般的に知られる犬猫程度の知能があれば、の話ではあるが。
持ち前の瞬発力を発揮してしまう前に距離を稼ぐ必要がある。
角を曲がった直後の体勢では祐も獣もうまく足元を踏み切ることはできないが、獣が地点Aと名付けた場所を通過するまではこの先の地形を意識させてはならない。
注意を己に引きながら、先のごみ集積所まで誘導する。祐の第一の仕事はそこまでである。
そこで待ち構える少年が獣に初手の結ともいえるべき、獣の意表を突くのだ。
獲物が二人揃って現れた際に浮かぶ選択肢の優先度を少年から下げる。
そのあとは少年のいう"強い光"に眩んでいるうちに自身が身を潜め、徐々に人間の住む気配が薄くなる東側へ獣を誘導することを彼に任せる。
先回って東の更地へ向かい、廃材置き場で獣との戦闘を有利にするための準備をする。
少なくともそこまでたどり着くことができれば、一刻も早く獲物を得たい獣は己を見つけた瞬間に標的を変える。
廃材に突っ込ませるも、準備しておいた罠を発動させるも自由であるというのだ。
特別な話ではないのだ。二人しかいないのだから"標的を切り替えながら、地形を獣に察せさせることのないように、目の前にいる片方だけにすべてを集中させる"。
少年が他人を使うのを渋る理由が祐には理解できなかった。
もはやその思考をする余地もなく――今は走るしかない。
喉に触れる空気は冷たい。しかし、湿度を多く孕んだ空気が肺に重たく溜まることを長らく忘れていた。
運動だって特別得意でない。肺がきゅう、と締め上げられる感覚を知る。
大したことのない距離ですら全力疾走をすれば頭がガンと重くなっていく。
一歩でも先に出ることではなく腕を振ることを意識する。久しく自覚のなかった前髪の長さが鬱陶しい。
呼吸が浅くなっている。
アスファルトを軽々と、それでも触れる面積を最小限にして音を立てない獣が今現在、どれだけ近づいているかなど意識もしたくない。
この先で大通りと交差して幅の狭くなる道がある。
交差した時点で祐と獣が直線として走り続けた道路の幅は幾分狭くなる。住宅区画同士が交わる場所なのだ。
ここを通過すれば数メートル先が簡易的なごみ集積所を兼ねる丁字路にぶつかる。
足元が心もとなくなって、泥を踏みつけている感覚になる。浮き上がる体の感覚が崩れている。
苦しいかもしれない。
そう思った時、ごみ集積所は想像よりずっと近づいていた。
 半分よろけて地面に手を擦りそうになりながら角を曲がる。獣の息遣いがすぐ背後にあるようだ。
急に止まれないのは己も同じだ。
路面を転がる覚悟をしてせめてもの受け身をとろうとしたとき、不安を大きく滲ませて待ちわびていた少年が動揺を色濃くしていた。手を伸ばすと祐の腕を強く掴んだ。
そして力いっぱい自身の方に引き寄せる。
祐の身体が引き連れてきた勢いを殺せないまま己の身体をも後方へ逸らした少年はもう一方の手――正確には指先を金網製の網棚になっているごみ集積所に激突しながらもギラギラとした欲を向ける獣へ伸ばしていた。
「……略式蝕封術型"撃"、流鶯」
静かな声色だった。伏せた土色のまつげに彩られた深い緑の瞳に黄金の光がぴかりとガラス面のような反射を描く。
一瞬にして、少年が口にした通りの"強い光"――鋭い閃光が周囲を包んだ。
祐は息を吐き出すことと吸うことの指示を絶えず流し続ける脳に混乱した身体を制御できず大きく咽ている。強い光に目が眩んで、少年の顔も見れないままでいる。
目を瞑ったままの祐を抱えた少年はブロック塀の向こう側にある民家の庭へ自身より少し背丈の大きい身体を押し込む。そして自身は、ひしゃげたごみ集積所の金網から身を起こし警戒して身を低くする獣へ向かう。
走りだし、素足の側面が摩擦で焼けるのもいとわず半分転がりながら獣の胴の下をくぐり抜けると反対の道を駆ける。その手には祐が身に着けていた手袋の片方を握りしめている。
祐が血の匂いを拡散するために手の甲へつけた傷から漏れ出した血を吸ったものだ。また少年自身も返り血と称した鉄錆の匂いを漂わせている。
「戦意を喪失してしまったかなあ? 今きみの内側から三分の二ほど祓われた蝕は命の糧を吸収しなくては再活性することができない。さあ、ごはんはここだよ。他の匂いに混ざってもわかるほど明確な因果に絡まって鬱屈した美味な血がここにあるよ」
光を見る前よりか二回りほど小さくなった獣が鼻先で弧を描き、手袋を握ったまま大きく手をふる少年の方を向く。
去っていく足音たちを、土の上で皺がつくほどカッターシャツを握りしめた祐は己が酸素を求めて喘ぐ無様な呼吸交じりに聞いていた。



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