最上階と称するにも先にあるのは短い階段と狭い踊り場だ。
ひとつふたつの扉が隔てる向こう側が生徒の生活に近しいものではないことからも、この建物を階段の数で表す一般的な呼称からまま除外されることは珍しいことではないことがよく理解できるものだった。この階段よりさきの全てをひっくるめて"屋上"と呼ばれ、階層扱いで呼ばれることはほとんどない。
そしてそれが妥当であるとして十分に足る光景であったのである。
 二人で立つだけであれば取り分けて感想を抱くものでもないが、最上階であるため上階へさらに逃れる階段もなければ、横広がりの大きい場所でもない。
片腕の広がる長さから描く円の範囲だけでも触れぬようにするのであれば、元より広くはない名目の踊り場は輪をかけて狭くなるか、指先に僅かに余裕が足りなくなるのではないかとさえ思えた。
加えて、板を貼った箇所を目立たぬようにするためか雑多に物が置かれている。
寂れた光景がくたびれた物置を兼ねている様はよくそれらの概念をアイデンティティとした。
演出から正しく"らしい"を獲得したおかげで、元より事情を知って近づかなければ見落としかけるものである。
 おまけに、祐にとっては『なにより』とも思える事柄であるが、掃除の行き届いていないところが目立つのだ。
『ちょっと掃除が足りてないんじゃないの』と卑しい顔で重箱の隅をつつく嫌味とは全く異なり、これでは扉が開いて外から風を引き込むたびに階下へ埃を連れて行くだろうことを思いつかないほうが余程に気の回らない人物だと思えるほどだった。目に見えて違いが感じられるのである。
埃っぽいという形容を超え、もはや鼻腔を刺激する嫌悪はない。否、最初こそはそれが感ぜられたはずだった。
これを考えれば見た目ほど不衛生をする場所ではないのだろうか。
祐はそう考えるものの、直に考えを翻す。
いっそのこと"マシ"論を展開するほどの状況であることに変わりなかったが、空気がどことなく粉っぽいと感じるのが自分だけではないと知り得たあたりからやはりこの場の状況に顔を顰めた。
空気が重たいとも形容できるだろう。祐は片手で口元と鼻の半分を覆っていたのだ。
伊三路がくしゃみをこらえようとして小鼻を膨らませながら、咀嚼をする際のように唇をもごもごとさせた。えくぼが浮き彫りになり、作り物の面に似た奇妙な表情をしている。
そして指の背で鼻の周辺をこすっていた。鼻水が垂れていないかを気にしているようにも見える動作をしながら大袈裟に息を吸い込み、未だくすぐったいらしい表情で口を開く。
「まあ、どんな場所にも砂や埃はあるでしょう。それに激しく身体を動かすのだったらこれくらいの環境は大抵が誤差の範囲でしかないよ。大袈裟な例えではあるけれども、砂塵や強風や、大雨の中に比べたらね」
 『激しく身体を動かす』という言葉の意味が深く刺さっていたが、当の伊三路は相変わらずくしゃみをこらえるために奥歯を噛み締めては掠れた囁き声で小さく笑った。
この先に蜘蛛女がいると考えての声量であったが、その反応を見たからこそ、祐はついぞ伊三路がバールの用途を理解していないことをよく自覚する。
釘を外したり、扉の一部を破壊したりすることもあり得るのだから、大きな音が出るだろうに。と、考えていたのである。
壁に直接打ち付けられたそれを外すとなれば、音や衝撃は同じ壁面を共有する向こう側に簡単に伝わる。室内に入ろうとすることなどすぐに筒抜けになるのだ。
しかし、この時点で敵が先に居ると仮定して、先制をしないのは罠だろうか。それともカフェインによる痛手が想像以上に深いものだったのか。
どちらにせよ招き入れられるままに行われるそれらの気配を前にして押し黙ると、屋上へ続く重い扉を前にして積み上げられた廃材や錆の多い歪んだ椅子を二人がかりで退けていく。
 屋上扉のために他の階段よりも少ない段数で設けられた踊り場から階下に荷物を下ろすと、大事に持ち運んできたバールを伊三路は取り出した。
ようやくの出番に緩やかな曲線の先でピカリと光を反射してみせたバールであったが、それがすぐに振り下ろされることはなかった。
先に壁へ貼り付けられた板の状態を確認するとして祐が後ろから声をかけたことで伊三路の行動はすっかり制されたためだ。
「ええ、きみが持ってきたそれは釘を打つためのものじゃないっけ?」
その言葉を背に、祐は板を撫でるように触れる。
合成皮革の黒い手袋をした指先では壁と板の間に生じる段差を実際の距離ほど明確に感じることは出来なかったが、それが想像よりも厚い木材の一枚板であるという情報を得るには充分だった。
 次に、板と壁の間にバールの先を差し込めないかということを確認する。
この厚さは手で剥がすことは不可能であるが、バールのように一部の鋭さとこの長さ、そして伊三路が日常で用いる程度の瞬発力があれば釘の長さ次第では剥がすことが出来るのではないかと考えたのだ。
「引っ掛かりのある隙間があれば地道にやるより早いと思ったが、どんなものか」
祐は屈んだ姿勢のまま、伺うことを兼ねて伊三路を見上げる。
そして視線を交えたまま、あまり意味がわかっていない様子が返ってくると眉を寄せながら付け足す。
「てこの原理だ。下部から間に引っ掛けて、支点を設定すれば楽に力が掛けられるだろう」
「なるほど。確かに長居したい広さじゃないし、ちんたらするよりいいね。でも、結構にうるさいのでない? 大丈夫かな」
「ああ、最初に周囲の板を叩いて釘を浮かせる。音がでない方法が現状において他にないなら短期戦に他ならない。これはほぼ確実に外れると理解して行う手段だ」
 思い悩むような表情が一瞬のうちに伊三路の顔面に行き渡った。
バールの使い方について深く考えていたわけでもないことを察していた祐は構わず人差し指の背で板を叩く。
「尤も、何をもってして大丈夫なのかと聞きたいのかは知らないがな」
 鈍く、空のうろに響くような音を聞くと慌てて伊三路は祐を壁際から剥がす。そして目を三角に吊り上げ、鋭く祐を見た。
危機に煽られて凄んでいるつもりなのかもしれないが、祐にとっては睨まれたうちにも入らず相変わらず平時の薄い表情で静かに見つめ返すだけだった。
「静かにできる方法を探したかったけれども、壁伝いというものはきっとおれが思うよりよく響くのね」
「長居したくないことには賛成だ。だから言っているんだ。釘を浮かせる間に支点とするものを用意してくれるか。差し込む深さが心もとなければ折り返しても板のふちは支点足り得ない可能性がある」
「横倒しにした椅子の足でいいじゃない。それに壁際にはりついて板を叩かせるなんて危ないことをさせられないしね。壁をものともしない相手ならば、目の前に躍り出てご馳走のほうから来ましたよと言っているのとさして変わらないよ」
まるで道理の解らぬ幼子を言い含めんとする言葉遣いを躱し、祐は涼しく答える。
「理解していない奴に任せて時間がかかるより良い」
「ある意味では適材適所さね。でも、この場所の道理はおれのほうが詳しいんだ。別にきみが指示ばかりをして何もしないというわけではないのだから気にすることはないよ。脳みそは直接戦わないでしょ」
「……義務感ではないが。何を違えて理解をしたつもりだ?」
その言葉に伊三路は一度口を閉ざす。
呼吸のぶんだけ間をあけ、そして顎を引くと一層に強い光を湛えた目でこたえた。
「きみがわざわざ勝手をするふうにしなくてもいいってこと」
 適材適所という言葉がその光で跳ね返って、身を深く貫いた気になる。
何もできないし、居る意味はない。そこまで考えて、そもそも望んで己の足で来たわけではないことを思い出したのだ。
正しくは、例の如く見透かされた気になった。
この非日常も、ただの繰り返しの日常もだ。
長らく見ない美洸の顔がひどくぼやけた記憶のどこかにこびりついていた。キラキラと反射する光に反して底冷えするフローリングがチラつく。
「大丈夫だよ。きみが心配することはない。だって、おれは近接攻撃を受けてもいくつか手段があることをおれが自覚していて、きみもそうだということを知っているでしょう。見てきたじゃない」
 うつむき気味の表情が何かに負い目を感じているようだと伊三路には思えていた。
しかし、敢えてそれを口にすることこそが最も早道の解決法だ。
顎を引き、次に浴びせられるであろう怒声に構えている子どものような顔をした祐に向かって伊三路は静かに語る。
ただ言葉が真っ直ぐであるようにだけ、真摯が伝わるようゆっくりと言葉を紡ぐ。
「言わせてもらうよ。確かに難しいことじゃない。でも、今の状況ではきみに向いた作業でもない」
じっと見つめる瞳に根負けをして、一瞬だけたじろいだ祐を見逃さずに伊三路は金槌をひったくった。
「……いまのきみはおれのための脳みそだと思って、おれの拙い考えを指摘していってほしいんだ。おれがおれのすべきことを思い切りに全うするためにはきみの労力じゃなくて考えが必要でさ、つまり、助けてほしい」
 板を打つ音は階段によく響いた。
板を叩く鈍い打撃と、壁と板の間ぶんだけ膨らんだ衝撃が抜けていくと想像より高い音でそれらは重なり、一つの音になったのである。
いざその瞬間を迎えると、既に板を破壊しながら扉を露出させているのではないかと勘繰って、祐は肩越しに伊三路の前にある壁を見た。
赤錆びた釘が板の表面に錆を侵食させている。
あれはあれで作業に手間取るだろうと考えるが、双方が双方の利を心身の安寧を優先した結果がこれであるのだから口出しすることもあるまいと口を閉ざす。
 祐は大人しく引き下がるが、とうとう己にできることは何もないことを鑑みて、率直な感想を抱く。
ああ、こんなやつと関わらなければよかった。
そう心から思っていたのだ。
茅間伊三路は優しい人間である。
こんなに悪態をつく相手にも気遣いを語ることを、息を吸って吐くことと同義のようにしてみせるのである。
だからこそブスブスと燻るそれの正体が、取り分けて叶わない劣等を恥じるものだと強く自覚している。
救いを期待することを忘却した脳に焦げ付く劣等が暗い腹の底で目を開くようだった。



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