新手か、茅間か。できれば後者であってくれ。
これから動くべきをいくつか考えたとき、携帯が糸に絡まったまま連れ去られたことに対し軽率だったのではないかと心底に自身を詰る勢いで問うていた。
 選択というものは強いて求められるならば直感めいて選んだものに何かと理由を求めたがるが、たらればをして死する際の後悔を嘆くのもまた、似たようなことだ。
向かう方向性が異なるだけで、もしもを考えてしまうものである。
つまるところ確率というものはことが起きた後に求むる分岐を観測することともいえるのだ。
そして先の選択によって生死は生へと枝分かれした。そして次の選択も二分の一のどちらかへ転がっていくのである。
大した猶予も与えられず差し迫るであろう次の選択に判断をつけ難いいまこの瞬間、やはり脳裏を過るのは助けが本当に来るのかということだった。
開け放たれた扉の先に、もし助けがなかったら? 
そもそも本当に助けはあるのか?
軽率に動いたとして、そのせいで何も知らない茅間伊三路が罠を踏んで歩いたら? そもそも合流さえできない状況であるとしたら?
観測の全ては観測をするまで定義を与えることはできない。
言動によって中身の変わる箱を開ける前から言い当てることなどできるわけがないからだ。
 傘を握りしめ、傘立てとシューズロッカーそれぞれの直線で構成される面積が重なり合う死角で祐は息を潜める。
足を折りたたんで身を小さくし、足をかける。いざとなれば傘立てを蹴り倒してから廊下側へ退く動線を頭の中で描いていたのだ。
あるいは、死角のうち油断が致命的になりうる側から相手が顔を出した場合――。
 ギィ、と扉が軋むように開く音がした。
鍵という鍵すら確認することはできず、また、扉が遊びとして設けられた余白でさえびくりとも動かない様を確認していた祐にとってその光景は実際に目の前で起きていることよりも荘厳に見えていたのだ。どちらにせよ圧倒的な力が訪れたように思えた。
だが、同時に敵がひとりだなど一言も発してなどいないことを思うと一抹の不安が浮かぶのだ。
固唾を呑む喉が乾き、水気が転がり落ちる間じゅう痛みを伴う。
粘膜は乾燥を冷たさと錯覚し、喉はすかすかと空気を漏らしているかのようだった。
『持ち込む道具すら制限されて、何を護身用と常日頃に持ち込めば良いのだ?』
 一層のこと理不尽に襲い掛かる思考だ。
そもそも人智の想像をゆうに超える体躯に何が効くと言えようか。
むしろ、木切れ以下になり得るものを持ち合わせたとして、ぼろ布を掴むかのようなことに脆くて心許ない安堵を得る方がかえって危険だ。
 わかっている。
何を選ぶにしたって、己の身を守るのはいつだって自分だけなのだ。
言葉を言い聞かせた祐は傘をさするように手持ちの位置を調整し、最も安定する形へ持ち替えた。
骨の入った中心の中程をしっかりと手のひらで包み、持ち手に値する柄は腋下付近へその長さを逸らす。
そして腋を締める動作に近くして腕を寄せると、支点としての軸を定めるのだ。
 足音がする。人間のものに近しい二足歩行だ。
靴底の固い音が地面を掠めては、時折すり足をする雑音混じりが聞こえていた。
少しずつ近づく音だ。
相手の姿を見ることより先に並ぶロッカーの奥までを目視し、距離を保つと引き返さずに裏に回り込む。
次第に鎖型をなぞるように往来するそれを音だけで推測することが難しくなっていくのだ。
近づいているか遠ざかっていくのかということを辛うじて理解していたはずが、ロッカーの輪郭に沿いながら移り歩いていく往来が続くと感覚が薄れる。
衣擦れが耳に囁くものの正体が危うい。
手袋の素材がきつく握りしめた拳のあいだで音をあげると、それを合図にしたかのように意を決する。
存在するかもわからない機会を待って身体を小さくするよりも飛び出した勢いでシューズロッカーたちの並びを抜けることだけを目的にした祐が立ち上がると、同時に間抜けた声がした。
「こんなところに、あきかん? いったいどうして……」
 剣呑を孕みながらも元来に朗らかを持ち合わせる声音が高い天井へ向かい、先で膨らんだように丸まって響く。
彼が時おり感嘆をあげ、推測を漏らす視線の捉える先を想像して、蜘蛛女が缶を噛んだ際に飛び散ったコーヒーだ。と、祐はすぐに悟る。
焙煎と抽出の末に生成された黒々とする水溜まりだ。
そして声の主が階段の上を見上げると、焦りと緊張が感情を処理できないまま身体が不随意に口角に笑みを浮かべて口を開く。
祐の身を案じて、「もしも」と「ありえない」で満たされた想像の二つに身を挟まれているのだ。
「まさか、祐……いやいや。そんなことがあっていいわけがない」
「ああ、悪いな。おかげさまでいくつかの出来事において結末は杞憂に過ぎたところだ」
 傘を構えながら後に立った祐の圧を物ともせず、フッと蝋燭の火を吹き消すが如くあっけらかんをして伊三路は振り返る。
次に、控えめながらに掠れた笑みを確かな声にして出した。
終いにククッと押し込めきれない音が喉を掠めながら、やっと呼吸らしさを再開して言葉を紡ぐ。
睨みつける目をあしらうように顔の前で否定の手振りをしながら困り眉をして伊三路は釈明をした。
「顔を見たらば急に安心をしてさ。……開かずの間が勝手に開いたみたいなかおだ」
「その開かずたる所以の扉が開いたからだろう。お前が開けたんだ。後ろに立っていたのも気づいていただろうが」
その言葉を聞いてより手振りを激しくすると階段の一段めにどっかりと座り込む。
祐の目の角度を「怖い」と言う彼は普段と変わらずの涼しげと掴めない態度をしており、考えを悟らせることはない。
ただ、僅かに様子を窺い見る松葉色の目が言葉以上に祐の態度や周囲の様子を探り、今この時点での状況を見定めようとしていたのだ。
「いいや、買い被りすぎじゃないの。きみが思うよりも悟ったのはぎりぎりのところさ。階段の前のひとりごとは芝居じゃない」
間を開けずにもう一つ、なにより伝えたかった事柄を続けた。
「遅くなってしまってごめん。ごめんなさい。外から入ろうとしたら、少しばかり、うん、いや、けっこうに手のかかるからくりが仕組んであってさあ。不安になったんでないの」
俯けた顔の中で伏せたまつ毛が穏やかに笑む。
しかし歯切れの悪い言葉を聞いた祐はますますの怪訝をして伊三路を見る角度を鋭くした。怪しんでいるのだ。
「ああ。期待すべきではないとも言えるのだろうが、率直に言えば来ないのではないかと思った」
「同じ立場だったらきっと、おれもそう思うよ。向かうほうであるおれの側でもすこしばかり焦ったもの」
 一方で、その反応を前によく頷いた伊三路は首を伸ばし、右手で徐に提げ紐を手繰ると光るお守りを胸の前に掲げた。
母親との離別の際に渡されたと本人が語るものであり、二、三度と目にした古びれる生地はもはや見慣れつつある。
効果もよく知っているが、実際にそれが蝕避けとして明確にわかる瞬間を目撃したことはない。
しかし、薄暗く日の差さない環境でも溢れ出る春の陽光に似た温度を肌で感じると、祐は鋭い先端を向けていた傘をゆっくりと下ろした。
 ゆるやかな光が人間の肌を濡らし、この場に留まろうとするザワザワと粟立つ怖気の病に似た邪を退けていくのだ。
それらはやはり目視をして効果を確認することができるものではなかったが、緊張が解けていくことを確かに感じる。
例え状況が変わっていないことだけが確かに事実として存在しているとしても、末恐ろしい場を構成する幽かを焼いていくことを五感よりもっと深く、無自覚の領域で知るのである。
無自覚が故に、また妙にすとんと言いくるめられた気になって祐は言葉の裏を開示することを視線で求めた。
「少なくとも、これを見ればおれがきみを害する者たちによる擬態ではないと信じてくれるでしょう」
身体ごと向かい合った伊三路が目尻に安堵を浮かべると、祐もつられて強張った表情が僅かに弛むのを感じていた。
頬の一等に高い骨の辺りが引き攣る余韻を覚えながら、祐は小さく頷く。
「詳細を求めたいところだが、それはいい。どうせ今の俺に理解はできない。それに、お前の周りは空気が澄んでいることは事実であるし、先までの状況から察するに、少なくともこの縄張りの主が光の模倣や擬態をするのは無理だろう」
「……何に対しても、必ずしも真似をしないという考えは時に慢心になり得るけれどもね。確かにこの空間は偏りのあるものを感じる。おそらく今日の敵は陽の光を再現することはできないと考えていい」
第二ボタンを外して寛げている襟元を片手でひっぱりながら丁寧にお守りを服の内側へしまいこむ。
そしてわざわざ外した第二ボタンを留め直し、視線を祐へ向き直す。緊張を逃すように唇をペロリと舌でなぞると口端を悔しげに歪めたのだ。
「ただ、少なくとも扉に仕掛けられたふたつめのからくりは入れ知恵だと考えて良さそうだ」
「何のことかはひとまず、直接的に脅威に関わると仮定するならば思うことがあるんだろうな」
 短い言葉の返事がくると即座にはうんともすんとも語ることなく、次に歩は昇降口へ進む。
祐はそのまま伊三路の五歩ほど後ろをゆっくりとついていく。
外靴ではなく上履き姿で無遠慮に三和土を進むと、靴底が細かな砂を踏み続けるとまるで割れたガラスの上に立つようだった。
静かに砂つぶを踏みつける音と、そうっとつま先が浮く姿のどちらもがその想像を鮮明に浮かばせる。
途中から足を止め、視線で伊三路の背中を追う。
どちらにせよ誰のものかもわからぬ傘はあるべき場所へ戻す必要があると考えた祐は、三和土に降りなかった。
 ただただ黙っていたのだ。
蝕について伊三路からしか情報を得ることのできない祐にとって遮ってまで会話を終わらせる必要などない。
もし時間を惜しむならば、自分が黙っている分だけ目の前の男に語らせることがなによりの得策なのである。
違いないと考えた結果だ。
「まず、からくりは二つあったんだよ。ひとつ、この縄張りに直接として掛けられた錠前。家の鍵だね。ふたつ、ひとつめを突破した直後に張り直された不可視の暗号。複雑で、先のものとは全く異なる気配と仕組みだ」
 重い金属のノブに伊三路は触れ、その冷たさを指先でなぞっている。
「騙し討ちやその類いで隙を作ることは野生の動物でもする。それとも蝕における知能の定義は対人特化をするということが前提でいいのか。前提が異なる場合は齟齬が生じる際に認知に差が出るため、確認しておきたい」
 住まう秩序によって異なる理を知り、それが相手にとってどう影響するのか。
異種族の相手ありきで働く習性や思考、本能を、双方が信仰する秩序と相対的に比較をして適応する思考能力。
それらを転じて人間の言葉に翻訳し"知能"として語る伊三路が顔をあげ、分かれ道の先を察する判断材料を尋ねる姿に首肯する。
「定義を対人特化として概ね間違いはない。そしてきみが言うように確かに戦力を大きく見せかける罠かもしれないということもある」
「……しかし、無駄に労力をかける必要もないな。最初から難問にすればいい。維持をするにも手間がかからないわけではないのだろう」
「結局はこういういきものだ、と、ひとくちに語ることは難しいからね。しかも何をしでかすかも参考になるものは古い記録ときたら、言い方は悪いけれども、そう。たかが知れているということさ」
 ふっくらとした頬は剣呑をする言葉をしつつも、言葉の応酬によく納得をし、意思表示をする。
祐の言い分によく同意を示し、音の間隔や語感を刻むように指を振り立てると言葉は続く。
「言葉あそびのとんちから秘密箱を解くよう高度なものへ張り直すくらいならば、どんな罠でも最初からきちんとすれば手間がかからないという話は、きみのいま語った意見で理解と共感するさね」
言葉は切れ間なくつらつらと続いている。
「ひとつめだって片手で数えてすぐに解けるものではないのだから、客を出迎えるには十分な時間があるはずなのだし、本当に相手がひとりではないことも考えたよ。でも、やっぱり、ちょっと、変だ」
祐の一言に対して十の言葉が返ってくるのだ。
しかし、末尾に向かって歯切れが悪くなると黙っていた祐も片眉を吊り上げた。
会話の中に引っ掛かりがあったのではないかと思い返して表に出た反応である。
対して伊三路は追い立てられて次を求められているのではないかと考えたのだ。故に、言葉は返らずとも、息継ぎの呼吸を隔てた後に再会をした。
「そうであるならばあまりに警戒をしすぎている。けれども、少なくともいまのおれたちはぴんぴんとしていて、ひとりからふたりにもなった。現場やきみの様子を見るにしても敵は大胆をも厭わないようだ。今の三つを並べて語るならば、まるで縦に割った果物の断面がどうしたって二度と揃わないような話でしょ」
 やや回りくどい言い方に嵩を誤魔化されているような気分がにわかに顔を出しかけていることを認めそうになったが、いま現在を認めるまで貫いてこれを語る目の前の男にとって事態は悠長に話す時間くらいはあるようだ。
そう思うと粟立ったまま未だ敏感を続けていた身体からゆっくりと力が抜けた。
むしろ、強張った身体でぎくしゃくとした動きをするよりよほど良い。
そのための時間と思えば、非日常を仮定のみを得て語ることが収まりの良い世間話であるとすら感じる。
疲労からの妙な倦怠感が見紛う眠気を追い払う程度には都合が良く、停滞する思考に生じた空白にすっぽりと居座ってみせるのだ。
時に目配せして己を伺う鮮やかな緑の視線からも似た根拠を得て、祐は周囲を警戒することは伊三路に任せて身体を楽にすることに努めた。
 片足に重心を寄せ、背中を僅かに側面へ逸らすと姿勢は悪くなるが、固まっていた身体は力を逃す。
同じ姿勢を継続するよりも身体が生気を取り戻したかと感じられたのだ。
手放しの安堵には及ばないが、ふっと抜けるその動作がため息に似た形で外側へ現れる。
変わらぬ日常の程をなす会話たちが、想像するより遥かに呼吸を楽にしたことに気付いたのである。
贅沢なことにも日常に憂えば非日常へ逃避し、非日常が酸素を薄めれば日常という水が持つ感じ得ることはない無味に安堵するのだ。
「……極めつけに、本来ここで外界と連絡をとる手段は極めて少ない。同輩による奇襲の心配くらいはあったとしても、招かれざる人間が来ることなんて直前まで考えていなかっただろうしね」
 祐は言葉を聞きながら、傘立て用のラック底に丸く切り抜かれたガイドに合わせて傘を立てた。
さっくりと軽い力で沈んでいく防水布の擦れる乾いた音と、三和土を補強するタイル地に傘の先端が触れる固い感触を手に覚える。
「鍵はかけたというならば初見相手、ましてや仮初にしたっての住処に引き込むならば、そんなことをしなくっても玄関で待って大勢で襲いかかるものだよ」
「建造物の引き合いと同時に語ると空き巣のような想像になるが、お前の言わんことは群れの野生動物の狩りと似たことだということでいいのか」
 伊三路は頬の曲線を捉える程度でいる横顔ままで「そ!」と短く音の詰まった肯定を口にしている。
「大体はそれらの理由で、おれには状況のちぐはぐが妙にも見える。知能が人間に通用しないとしても、群れを形成し、いきものを食ういきものとしての本分でこれが働かないわけがない。しかもふたつめのそれは構成自体が高い知能を用いている。だから意図が余計にわからない。わかるのは手を組んでいてたとしても、趣味はなかなか合わないだろうということだけだ」
「まんまと合流されている時点で全ての意味と狙って用意したはずの機会は無に帰すからな」
「そうさね。縄張りとして切り取った場所に物質を引き込んでも、本来は干渉不可能なものを掴んで巣に戻る構図だ。きみが先に言った通りに、錠前をかけることも錠の先として密室を維持することも労力が必要になる」
 あまりの言葉の圧たちだ。
日頃の語り口が朗らかで、放つ音がやや遅い印象の伊三路による膨大な言葉によって圧縮される情報量に対し、祐の言葉は普段に割り増しをして少なくなっていた。
余計なことを語るより理解を深めるべくと閉ざしたそれを、緊張で強張っているのだと気配で想像していた伊三路が肩を縮めるようにしておどけた。
「どうかな。きみに甘えておれはおれの意図する痕跡を追っていたけれども、そういう存在が時間稼ぎをさせたのではないかとも思うよ。……こちらも全く収穫がなかったわけではないからさ」
 半分ひとりごとのように頷くと、顔を上げると同時に祐を見つめる。
目尻を下げて目を細めていたが、あまりに心細いもので穏やかに笑みには遠い。
「でも、とにもかくにもさ。無事で本当によかった。見えないところに怪我をしていたり、実は息が苦しかったりということはない? 些細なことでも障りは後から押しかけてくるものでもあるからね、気になればすぐに聞いて。おれも気になれば聞くよ」
ひょこっと跳ねた髪の一房を揺らし、動き始めた伊三路は祐を中心に身体のそばを一周して怪我がないかを尋ねていた。
ついぞ触れて確かめようとする手を半身で避け、短く答えるのだ。「ない」
極めてギリギリの縁をなぞってやっと成立するほど少ない言葉で返事をしながら、妙な違和感が舌に残ることに気付く。
 まるでこの話題を不必要の域で探られぬように会話を切り上げられたと祐には感じられていたのだ。
あくまで聞かれたこと以上はなく、疑問を広げてもごく自然である不明点の確認とオウム返しじみた催促である。
そうであるならば、これは茅間伊三路の語る話題の切れ目であると考えるのが妥当だ。
祐は確かにそう考えていたが、妙な感覚が相反して存在しているのである。
 『しかし』が重なって言い訳が連なっていく。
否定が再び肯定へ傾きかけてから、妙な感覚に対しての根底を知るべく忠実な思考へ切り替えた。
もし、本当に聞かれたくない話であるならば、まずこの内容を話すことなく言い訳をすればいい。
普段の様子からして、まず語りたくないことは掴ませない男なのだ。
つまり何かを探っている結果を自ら語り、かつそれに意味を連ねて語る以上では、状況を突っ込んで質問されることは了承するものである――祐は考えながらも一度くちびるを噛む。
ゆっくりと押し潰す力に対し、痛みが熱として集まる。その感覚を無意識に拾っている最中、フッと思い出す。
 目に見えぬ世界の道理を語っていた当初から『人間が蝕に知能を得るための手助けをしているか、互いの欲のために利害関係を結んでいる』ことと『単独で高い知能を持つ蝕が町に入り込んで外を及ばしている』ことのうち、この男が判断がつかないとしながら気にしているのはいつも後者なのだ。
本人の口でぼんやりと聞いたことはあるものの、祐は背中に感じるじっとりとした湿気を思いながらも単刀直入に口を開いた。
好ましくない話題ならば以前のように語らぬ権利を振りかざすはずだ。そう思ったのだ。
「――薄々に感じていたが、茅間。お前、本当は『高い知能を持つ蝕』にはっきりと答えられるはずの心当たりがあるんじゃないのか」
「前に話したこと? 高い知能を持ち合わせているかもしれない、『おれの想像する個体』の」
 無言を肯定とした伊三路は祐の顔を覆う緊迫を確かめるかのように改めて尻目に気配をなぞった。
「そうだとするならば残念だけれども、『それ』のことはあくまで言い伝えられてきたことの程度にしか知らないよ」
疑り深い祐の視線を背中にいくつも刺したままの伊三路はそっと息を吐く。
そして息継ぎと装うには些か間の空いた約八秒を待って言葉を続けたのだ。
「……彼奴の悪行を、この目で見てきたわけではないからね」
息を呑む。
その様がどちらからのものであるかは定かではない。
「人間と関わって大きな被害をもたらした、という記録を見たことがあるだけ。けっこう昔の話ね。ただ、それが地続きの現在(いま)にも翳りを残しているから、おれのようなことをする者が少なからず必要になるわけ」
 伊三路は振り返ることをしなかった。しかし、言葉ひとつをも揺らすことない返事は、受け取る祐にとってその言葉に嘘はないと思ってもまま納得できないものではなかったのだ。
 茅間伊三路という男は蝕に関して語ることの曰く、記録上や伝承めいたことを引用する。その日頃の積み重ねがあれば今この瞬間において問答の矛先を収めるには十分だった。
それ以上に求めても、本来この事態で机上にいくつもの問答を並べても意味はない、という言葉に尽きるのである。
さらに突き詰めれば伊三路の『視えない』という言葉だ。
探して、答えを見つけ出したいのは目の前の男も同じなのだろうとして、祐は傘立ての付近から離れると、汗で湿る空気が肌との間に停滞した気分になる黒く長い前髪をなでつけて思考を切り替える。
 なにより言葉を固める声色の研ぎ澄まされた真摯の様子が疑問のほとんどを腑に落ちたとすることに今は仕方ない。
「そうか」と語れば「そうだよ」と、祐の言葉に同じくして極めて意味の薄い相槌が戻ってくる。
中身をぶち撒けたコーヒーのスチール缶が足元を掬うか、あるいは暗闇に引きこむ風に寄せられてか、かららんと虚しく小さな音を立てていた。



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