深い場所のように思えたが、水の綾が揺れる影を見ていたようにも思う。
錯覚にしても、現在地を想像するならば浅瀬だ。それが適切である。
振り返れば決して遠くはない水底でゆるりと炎が揺れている。妙にすっきりとして、周囲は澄んだ様相に感じられた。
ふと、これらはたちまちに燃え広がることはないのだろう。と、祐は考えていた。
強いてどちらかと言えば舐める火ではない。空を落ちる流れ星やもっと近い場所でいう火球のように刹那に類するものに思える。
たったそれだけが地を焼き尽くすことはない。
むしろ停滞した透明の中でゆらめく姿は極めてか弱いのだ。
観賞魚が優美に引く長い尾のようだ。もしくは先日の茅間伊三路が自慢してきた、不揃いをする透明のビー玉だ。
無色透明かうす青色をするガラス玉の内部中心で鮮やかな帯状を描く、色つきガラスの重力である。
掠れたり、溜まったりと冷たくなったガラス玉の中で伸びやかに表現される色たちと、情景を眺めて率直に思い浮かべた感想の姿は少し似ている。
 砂で満ちた木箱を左右に揺さぶって鳴らすかのような耳鳴りを通り過ぎると、見慣れた教室や廊下はフィルムを被せたかのようになり、くすんだ静寂が降り立ってくるのだ。
 夢の出来事に似ている。
妙な浮遊感は夢心地ではなく、明確には寝不足めいた不調か貧血に似た感覚だ。覚醒のしきらない曖昧だ。
正確にはこれが夢ではないことを理解しながらも、同時にこれは現実に存在し得る夢であると確信する。
 一つ前の夜では、美洸からの電話でひどく感情を揺さぶられたことも相まって夢を見たことはおろか出来事に対する認識の正誤の多くすら曖昧であったが、今となって事実と夢、そして経験の整理がついており、うちのいくつかは祐にとってはもはや追体験のように感じられていた。
少しずつ思い出していたのである。似た状況を知っている。
 夢でみたのは今この瞬間が初めてではない。
全ては曖昧であり知ろうとすれば霧を掴むようなものだが、既に起こったこととして知っていたことがある。
口ずさむ歌と手毬の音を、耳殻のふちに聞いたことがあると確信しているのだ。
瞼を開く。
 よく知った冷たい校舎だ。
誰も立ち入ることはないために想像に過ぎないが、より身近な場所への印象と類似を求めると、夜になって教師陣も帰宅したのちの学校という場所を思い浮かべればいいとも祐は思う。学業に専念するうちに一度は耳にするような怪談話の大袈裟なイメージだ。
概ねそれに正しい。明らかに本能に訴えくる非日常ほど大きな衝撃はないのだ。
しかし、喧騒が満ちるはずの場所が衣擦れさえ明確に聞き取れるほど沈黙することは日常的に得る普通とは異なるものだと脳が認識すると、途端にうなじへ水滴を垂らし続けるような緊張をもたらした。
不健全をしているという背徳よりも、言い知れぬ冷気が足元を漂っている。
四方の影という影から、軟体動物のような脚がいくつも獲物を求めては自由自在に空気に這って酸素を弄っているようなものだ。
ただ、想像上の類似を語って一つ訂正をするならば、これらの光源である空はべったりと塗料を伸ばした黄昏をしているということである。
また、少しばかり慣れた光景になりつつもあった。
 無味無臭だ。まるで味のしない水を飲む日々が普遍になる。
塵芥に反射した光がパチパチと星のように身を燃やして輝くが如く、走る。
眼前に広がる校舎と、薄暗いというのに奇妙に明るい色相をする空が校内の反射光を得体の知れぬ不気味にしている。
ビニル素材の姿が強く光を照り返す廊下の様は清涼な昼の木陰のようにも思えたし、暮れゆく薄明の曖昧にも思えた。
そして心臓の裏側が怯えることにも似た。
薄らに混じる獲物を狙う気配は、時にぞくりとして真下から天地を返す心地であった。
 祐は思う。
率直に語って気持ちが悪いのだ。
緊迫はワイヤーのように細く、繊細だ。そして時に粘液の滑りにも似て水気を孕んだ溜まりを以てして緩急のある光が走っていた。
唐突に無人となった校舎の至るところにその糸が張り巡らされている。それが何のために存在しているのかということを知っているように思うのだ。
祐は窓と廊下の並行に対して斜めの角度を求めると、膝を屈める。
こうして姿勢を低くすると、微かながら糸がキラリと光を反射する様を目視することが出来るのだ。
一見するだけでは何もないように見える廊下で滑稽にも片足を上げたり、くぐったりして適当な教室に身を潜める。
 暗がりは静かすぎる。
殺した呼吸すらもがこの校舎に響き渡ってしまうのではないかと想像しているうちに、祐は自身の両手で己の口元を抑え、吐き出す息の勢いを封じようとしていた。
こうして息を押し込み、考えるより先によろよろと教卓に身を隠す。
冷静であればまず選択肢として選ばないほど陳腐な答えであったが、教室という場所をひとまわり見て、安堵に似たものを知ることができるのは暗くて狭い教卓という小さな箱の形状をした影だった。
三方に囲まれた場所で意識するべく視界を少なくすることが安堵に繋がるのだ。例え、故に前方を塞がれれば意味のない袋小路だとしても
、脳はより安直で即席に得られる安堵を求めるばかりにそれが最も正当であると錯覚するための思考を回していた。
心臓が内側から激しく胸を叩いている。鼻の奥がカッと熱くなるような感覚の後に体温が急速に落ちた。
耳の奥で聞こえる緊張はまるで血液の流れる様が知覚できるかの如く、水の流れるような音がしている。
呼気が冷めていた。
 何かが近付いてきている。
「どこまで行けども結末は変わらぬ。この場所ではまるで全てが妾の思い通りじゃ。引き込んだ人間を除く全てがな」
この場に姿かたちは認められないことは明確であるというのに、相手が恍惚によって目を細めていることが理解できる。
その瞼の切れ目に光をめいっぱいに湛えていることが容易に想像できていたのだ。
わざとらしいほどわかりやすい傲慢と高貴の言葉遣いと裏腹に、打ち震えては内側へ入る膝もままならないまま歓喜する様である。
絞り出すような語尾に隠すには抑えきれぬ嗜虐が滲み、異形の生物として輪郭を形造るに相応しい狂気を演出していた。
滴るように広がる声だ。
それを近くもなく、遠くもない距離から聞こえる声として認識する祐は、自覚せぬうちに目を見開き、これ以上に意味もなく口元を締め上げんばかりの勢いで押さえつけることを継続した。呼吸一つすら漏らせば感知をされてしまうとすら思えていたのだ。
この奇怪な状況にある学校という箱において昇降口が出口として機能をしていないことは既に理解をしている。
「ああ、鬼ごとか? それともかくれごか。童よ、妾は貴い立場ぞ。そのようなはしたない真似は好まぬ」
 遠くでばたりと木板を打ち付けるような音がしていた。
「鞠遊びは好かぬか。数え唄は嫌いか? ならば、どれ、金平糖をわけてやろうか」
錆び付いた鋏を交差させる音にも似たしゃきん、しゃきんとぎこちない金属音が響き渡る。連続性はあるものの、等間隔の一定を得ない音はまるで四つ足か、それ以上の脚のものが這い回る歩調にも思えていた。
一度は姿かたちを認めた少女の姿が感覚の近しい人間を模していながらも、内臓までは等しいものではなく、異なるものをしていると思えてならなかったのだ。
血液は同じ赤色をしないし、臓腑は冷たい。温かみとはほど遠いだろう。
そう思いたいのだ。そもそも人の皮を被っただけの異形であると偏見が信じてやまないのである。
 暗闇のような被毛を持つ獣の姿が思い出される。女子生徒の内側から内臓をぶちまけて飛び出すてらてらと濡れた赤、もしくは暗褐色だった。
同じ姿を想像している。意識はいくらかの冷静を保っていたが、本能から認識する恐ろしさは指先を震わせていた。
汗が滲む。堪らないことに、昏いことを理解しながらも、これ以上に得られない生を感じるのだ。
「近う寄れ、近う寄れ。面をあげよ。恐ろしくて動けぬのか。ああ、ならば甘美に、其方の好みに振舞ってやろうか」
肌は粟立ち、背に電気が走るかのようだ。満ちて冷たい感覚が込み上げていく。
 鞠をついているのか弾力性のある中綿が地面に叩きつけられ、弾き返されるような音が時たまに響いている。そして歌うように上機嫌の声が響いていた。
それが途切れぬ限りには、まだ居場所が割れていないという安堵が同時に存在しているのだ。
「なんだ、お前様と媚びへつらい身体を寄せる女は嫌いか。構わぬ、女は女だけでは無いぞ。妾も安売りに似たようなことはおいそれと好まぬ。ただ、論じて相手が色ごとを好かぬのなら、女には他にも成り得る演目の役がある」
 金属の擦れあう音がすぐ耳元でしている。
そしていくつもの眼には既に捕捉されているように思えた。はっきりとした眼の輪郭が、感覚としてすぐそばに感ぜられる。
「それを――母、という」
 ぞくり。そう表現するには月並みだと祐は思う。
しかし突沸する血液は煮える温度を越しては、むしろ冷めたように感じた。
冷や水の中に放り込まれたかのように身体は寒気を巡らせ、筋肉は収縮をするのだ。わななく唇から吐き出される呼気が恐れに染まっている。
口から漏れ出す全てを封じ込めようと塞いでいた手を投げ捨てるように払うと床に手をつきながら、いかにも逃げ出すような体勢で教卓を這い出た。
ガタガタとぶつかりながら音を鳴らすことも厭わず、もはや転がると言っても過言でない様で教壇の小上がりを降りる。
折りたたんでいた身体を起こして立ち上がる。妙な暗がりに改めて顔を上げ、そして窓越しの光を遮る形で影を作る物体を直視したのだ。
 揃う眼の熟れて赤茶けた色が写り込んだ光を豊かに反射して見ている。
日常にてあまり見かけることのない造形や、いくつも存在ずる眼は対を成しながらも不揃いの大きさとも思える。
手前の一対は獲物を値踏みするように、並んだ目の中でも一際の大きさを誇って存在して祐を見つめていた。
肌は針のように短く先細った形状を確実に思わせて生え揃った皮毛が体全体を覆っている。
その中で目立つのは被毛の及ばぬ鋏角の姿だ。光を吸い込むが如くにぬるく艶のない黒い牙――そのようにも例えられる鋏角が膨らんだ関節肢の先で滑らかな曲線であり、同時に凶器に等しい鋭利で形を成していたのだ。
同じくして脚の先は被毛も疎らになったかと思えば金属の性質に近づいていく。まさに先端は研ぎ澄まされた鎌のように鋭い。
これが錆びつきかけた重い金属が擦れあうように鳴ったり、その先端で器用に窓のガラスに触れ、時に引っ掻いたような音を出したりしていたのだ。
窓に這う体勢からその巨体の腹や足の付け根の構造を惜しげもなく見せつける姿の影は――正しく蜘蛛そのものだった。
感情のない幾つもの眼が一斉に祐を見ていた。
その眼に捕捉されて強張った表情の己が映っていることを認識している。
「そうじゃろう? ……いいえ、そう思うでしょ? 賢い生き物ほど上手に演技をするものでしょう? さあ、さあ、あなたの名前を呼ばせてちょうだい」
 振り返った身体のかたちで硬直したまま祐の喉が、ひゅう、と秋風のような空の音を立てる。
ざわざわと波を立てる感情と本能の逃避の間に、皮膚や毛穴、粘膜の全てで言いようのない不安と叫びたくなるような苛立ちが掻き立つ。
それらを堆く重ねたものは、蜘蛛の笑みがフッと息を吹くと火がついたように燃焼を始めた。
立っていることも、呼吸をしていることもままならなくなっているように感じる。
少なくともこの認識をするまでの一瞬で、祐には冷静を保ったまま呼吸をすることを忘れていたのだ。



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