帰宅目的以外の人間が減ると昼間こそ古いながら活気だっている町も途端に寂れて見える。
故に地方の中でも隅のほうに近いと語られるのか、賑わいこそあれど母数だけを数えれば人口が多いわけではないのだ。
店屋の電気が消えるのも早ければ人が捌けるのもまた早い時間から見られる傾向であり、それが当然のことであった。
もはや生活の動線と閉店時間の因果を問えば鶏が先か卵が先かの問答に近い。
 緩やかに時間の流れる田舎町と聞いて想像する典型的に辺鄙な土地よりはずっと活気立っているものの、建造物はかなり年季が入っているのだ。
元は一つずつ独立していたはずの要素の全てが総合してひとつの一体の個を成し、大抵の人間が想像する"田舎町"の言葉に相違なくイメージを組み上げている。
日が暮れ人々の往来による気配の明るさがなくなるとぼう、と近くに佇む胡乱な暗がりが口を開けているのだとはっきりと感じられたのだ。
離れた家屋や商店に目をやればトタンやスチール製の看板をなぞって雨垂れた足跡に錆が浮いている。道路は割れを補修し続けて色が変わりチカチカと目を刺激する箇所も多い。
古い木材や日焼けした店先の敷き布、いつしか使われなくなった建具が廃材として家屋と家屋の間に置きっぱなしになっている様。そしてそこへ生える雑草が好き勝手に繁茂し、背丈を伸ばしているという景色。
夜の商店街は静かだ。端に位置する本屋が比較的遅くまでやっていることを除けば、他の店屋の照明が落ちるのも早い。
人通りが全くないわけではないために、いくつかの街灯が親切心として心細く灯っているだけなのだ。
 小林文堂と印字された未晒し平袋を抱えた祐はそれらの静けさを一瞥し、帰路を再開した。
薄暗く、外にある他人の気配は帰宅をするために家路を急く足だけだ。
この薄明の曖昧と冷たさが気の緩む時間である。肩の力がうまく抜け、特筆した宛てはない歩がゆるりと進む。
明かりの灯った家々を横目にして帰らなくても良い時間が好きなのだ。
その部屋に住むのが例え一人きりであるとしても、家庭の象徴として存在するたくさんのものたちが祐は嫌だった。
少しだけ遠回りをし、夜のふちを歩き続けるように漫然をしている。
そして行き着いた偶然で漏れる団欒の声を聞き足を止めていたことに気付くも、購入した本を抱え直すとさっさと下宿先であるアパートへ戻った。
 烏丸地区は町から再開発の特区に指定されているものの、未だ大抵は町の他の場所と同じく年季の入ったものである。
帰宅した先は例に漏れず洋室としてのデザインを多く取り入れているが、年季が入っていることには変わりのない小ぢんまりとしたアパートだ。
強いて言えば、単身用ワンルームにしては収納にそこそこ優しい部屋であることが挙げられる。
いずれ個人や個人で雇う業者範囲でのリノベーションが可能な物件として売り出すつもりだったらしく、一部の設備は予め見直しと手入れがなされているのだそうだ。
ワンルームと聞けば広いものとは言い難いがこれら将来性を見通し手入れがなされ、新しくつけた扉も手伝って間延びした空間を仕切られた結果、感覚の上では数字の割には広くも思えていた。
なにより、元々手持ちの荷物が少ない祐にはやや不必要な広さともすら言えたし、それはもっと狭いワンルームであっても相対的に荷物を減らすとも言えたのである。
生活のしやすい余白を成立させるために取捨選択をしようと考える際に、この人間に持ち合わせるものは簡単に棄てられる荷物でしかないのだ。
極論を言えば最低限の衣食住の確保をするためのものと勉学に必要なもの、時たまの余暇を潰すためにある数冊の文庫本以外のほとんどは彼にとって不要なものなのである。
そのおかげか、やたら広い机には備え付けのブックスタンドに収まる以外にはぽつんとデジタル式の置時計があるのみだ。時間は午後七時半を過ぎていた。
 簡素な勉強机を前に、一息ついて椅子へ座っていたのだ。
家事のいくつかを済ませたところで、まだ空腹を感じるほどではいない。
ふと手を止めていたが、後に就寝をするだけであれば無理に食事をとる必要もないと思い直す。そして今日という日の授業の数々における復習と、予習問題を解くことを再開する。
問題文の先に並ぶ数式を追っていくことを作業的に淡々と行っていく。
ボールペンがややざらついたノートの紙面を引っ掻いている。ペン先の中で転がるボールに合わせてインクが紙に塗布され、文字が浮かぶのだ。
長らく数式と答えを書く音だけが室内を満たしていた。
 物事を整理し、適当に示された数字を公式や法則を用い、当てはめ、そして解き明かしていく。
娯楽に似たものとして例えればパズルや虫食い問題を想起する思考のもと問いを提示される数学を祐は好ましく思うほうであったが、今日はなぜだか数字が頭の中でから回ってのめり込むことが出来なかった。
どうにも気が散る。ふっと息を吐けばたちまち思考は霧散するのだ。
ただ集中を乱すことにとどまらず、散らした蜘蛛の子が間を置いては再び集まってくるかのような中途半端な感覚が疎ましいくらいだと思っていた。
そうして漫然をする原因を知ろうとしない思考をしていたが、祐は薄々ながらにその答えを知っている。
 ふと今日のことを思い出して、言われてみれば最上の言う通り今日までの教室には日野春暦以外にも明らかに不自然な空席があって、その生徒と仲が良いと思わしき生徒が代わる代わる呼び出しを受けていた気がする。
芋づる式に『今思えば』を頭の中で呟くことを続ければ、先日すれ違った際に最上の口からより早く行方不明の可能性がある生徒の存在は聞いていたはずだ。思い至る末に疑問は大きくなっていた。
茅間伊三路は何を考えているだろうか。漫然とした考えが浮かんでは砕け、より細かくなって輪郭はぼやける。
最後には自分に被害の及んだことではないことに思いを馳せるのはただの過剰な意識であると思い込み、己を律すると考えることを辞める。
 獣の姿をした蝕に出くわした日の出来事や、茅間伊三路という男と出会ってからの毎日は些細な違和と疑問を常々に覚える日々だったが、徐々に水を飲んだような無味を覚えることに近かった。
それが自分という生活の中で当たり前になる過程にあるために、自身の上手い立ち位置を見失ってはすべての物事に意識が敏感になっているのだ。
思考の端々に挟まる数字やアルファベットがひどく歪んでいるように感じられて気持ちが悪い。胸に嫌な感じがつかえる。
強い湿気に満ちた空気を延々と吸い込んでいるかのようだ。重い酸素が肺を締め上げ、脳が茹だっては思考の速度を落としていく。
押し出されるようなため息とともに改めてノートを見下ろすと問3と問題番号を書き写したあたりで完全に手が止まっていた。
まばたきひとつ。その間の一瞬にして力の抜けた指から落ちたボールペンが転がっている。
乾いた目を見開いていた。
微かに霞む視界の中で恐る恐る己の左手のひらを見る。外に出る際に身に着けている手袋をしていない素手のものだ。
見慣れた意味では変哲のない色があるだけだった。次いで無意識に右手を見やろうとしたものの、左手が先に眼前を覆うのだった。
「……少しだけ」
長く息を吐き、そして呟いてから声を発していたことに気がつく。
 連なることでようやく認識するのは日常の些細が積み重なって生じた小さいながらに明確な疲労と、かすむ視界に映りこもうとするぼやけた数字だ。
身体が休息を求めていることには変わりないとして、目頭をクッと抑える。
乾いた眼球の上でぎこちなく動作する瞼がそれを眠気と勘違いしている。祐はそう考えていた。
少しでいい、就寝に影響しない程度に少しでも眠れば集中も戻る。
言い聞かせ、そしてノートを広い机の端に追いやると、腕を囲い込むようにして作った暗がりへ顔を突っ伏すのだった。
 周囲から光の干渉が減ると、身体は鉛に似た怠さを感じることを憚らなくなっていた。そのまま底なしに落ちていくようだ。
目の奥が重たくなって、自然と瞼が下がる感覚を眠気と勘違ったまま意識を急速に降下させる。
暗転を下っている。水の中のような感覚に身を任せると目の奥で重たくなっていた力が抜けていた。
暗転をしている。沈んでいる。
そして手放そうとすればふっと身体が浮き上がるような奇妙な感覚に脳が支配されるのだ。
交互に現れる浮遊と停滞、そして重力がないまま身体が固定される感覚がゆったりとした間を以て存在している。
ひどく客観的にそれを思考すれば、まるで明滅しているように思えるのだった。

 不意に暗くなった視界の奥でか細く輝く光が現れていた。
点描の一粒を散らした光を見ていると、それらが実際のところ規則的に並んでいるものだと気付くのだ。
光を視線で追いかけるとそれらは輝きを増し、眩い点同士が結びついていく。
暗闇の中で弾け、一つのくすみもない光が翻ったことで、点の正体が点ではなく線であることを理解した。
同時に根拠なく、しかし明確に、線がより正確に語ると『糸』であるということの直感が的を貫いていたのである。
その揺らぎでチカリと一際強く光ることに対して閉じているはずの目の表面が焼かれている感覚を知り、瞼が瞬きを再開するのだ。
そして気付く。
暗がりの冷たさが、異様だ。
 はっと顔を上げるとよく見慣れた校舎の中だった。
日よけ目的に備えられた薄手のカーテンが肩を掠める。なにより、本来の時刻であれば夜も半ばに暗くなっているはずの校舎は薄い黄昏の色に濡れている。
開け放たれた窓の外は夕暮れの光源が広がっているだけであり、他には何もない。遠くに山の足元や町並みが見えることもなく、学校という敷地だけが切り取られた薄霞が広がっているだけだった。
 内臓が冷える感覚を確かに察知しながら己の服装を確かめる。
仮眠を始める前に着用していたシャツとネクタイ、スラックスだ。制服の上着であるブレザーを脱いだだけの姿に等しい。
靴は履いてらず、靴下越しに床材の冷たさを感じる。
人間が住む正しい側ではないとすぐに察することができるものだ。どこからともなく風が流れて冷えた空気を運んでいる。
それでも確実に非日常へ引き寄せられるならば、自意識の過剰によって引き出された妄想ではないことだけは確実であるだけに思想がいくつかの無駄を捨てることができる。その意味では今の状況は祐にとって呼吸のしやすい環境でもある。
だからといってこの場所が安全な生活が保証されているというわけでもない。次に悩むべくはこの場所からの脱出だ。
昨日から預けられている結び飾りはブレザーのほうの胸ポケットの中に収めたままである。
つまり、第三者の介入による脱出は期待はできない。
もとより頼りきる気はないものの、それでも知り得る情報がまだ少ない以上はやむを得ない期待だ。
そんな脆弱な期待ではなく、もっと確実であり且つ一人で完結する方法は、と直近の日々で聞いたこの裏側に関する言葉を整理する。
夢という意識下の干渉は現実で行われるものよりも結びつきが弱い。
伊三路が語る干渉の仕組みについての概要を思い出して祐は考えていた。
もし、波長を例えて電波が弱い状況に迷い込んでいるならば取り込まれた人間に起因することを考えるよりも、なぜこの場所なのかということやこの場所から想像しうる出口を考えた方が早いはずだ。
なにか空間に対して概念の当てはまる範囲で脆弱となる突破口があれば――外側に向けて攻撃や保身すること以外も方法でも自力で目覚めることができるはずだ。
とにもかくにも靴下を履いただけの足は機動力に劣る。この校舎に何が落ちているかもわからないままでは裸足で探索をするわけにもいかないと思い立つ。
そして『校舎から脱出するために日常の概念が適応される出口という出口』を片っ端から開いて確認することにしたのだ。
祐は音を立てないように息を潜め、静かに椅子を引いて立ち上がる。
 教室内では椅子や机、教卓といった室内で面積を占めるものたちが揃って並べられている。ゴミ箱にゴミもあれば、黒板は粉っぽい。
ロッカーには備品としてそれぞれに配られている錠が掛けられているために鍵を無くしてなにを手に入れることもできないだろう。
再現されたものと語るとすれば日常的に使用されている形跡が奇妙なほど作り込まれて散見されていた。
教卓を漁り、手に持つために便利なものがすぐそばにない事を確認する。
そして教室を見渡してうろつく。
壁の掲示物や美化活動として置かれた鉢植えの植物、掃除用具入れのロッカーに収められた用具の面々。
とくにロッカー内に収められたブラシ部分と柄が丁字に交わる箒や、溝などの細かな箇所の清掃に特化した形状のブラシ、汚れ落としやガラス用の清掃スプレーなどを値踏みするように眺めたが、そのいずれもが祐の望む威力と携帯性の両立には向いていなかった。
ふとドアのそばにかかった温度計を見つめる。下部に湿度を計るメモリを備える、手のひらより少し大きい四角形のものだ。
折れ釘のような構造をしたフックピンにかかっているだけのそれを軽く持ち上げて外す。
プラスチック製の質量は想像したよりも軽く、あらためて握りやすさを確認すると何度か振りかぶる動作をする。
ないよりはマシであると確信得たものを片手にひっ掴むと祐は教室の引き戸へ耳を近づけ、物音がしないことを十分に納得できるように室外へ聴覚を研ぎ澄ませるのだ。
そして無音を知った後も警戒を解かないよう細心の注意を払うと、意を決してそうっとドアの引き手に触れた。そして首を僅かに伸ばし目視での安全を確認する。
 廊下は教室と比べ明らかに室温が下がっていることが肌で感じられた。思わずほうっと息を吐きたくなるような冷たい空気が頬に触れる。
直線の特徴を多く持つ建物であり、なおかつドアなどで細かく仕切られていない校舎の廊下は本来であれば音がよく響く。しかしいま踏み締めるこの場所は不自然なほど音のない校舎だ。
音どころかむしろ、耳の奥が冷たさばかりを享受しては不気味な雰囲気に萎縮し、鈍く詰まる耳鳴りを感じている。
くぐもった様子でトンネルを抜けると甲高く響く音が頭にこだましたと思えば、間を置いてザーッと箱の中で砂を往来させるが如く不快な音が鳴っていたのである。
祐はギュッと強く目を閉じてから瞼を大きく開き、左右に頭を振った。
段々と血の通う感覚に顔まわりが温まるのを感じると、今に停滞しかけた頭が冴えていくように思えていた。
もしこの場に蝕やそれに類するものが巣食っているとして、姿を現すならば、裸足でいたほうが走りやすいだろうか。
一部を除けばあまりに平時と変わりない環境を前に気を抜けば緊張を緩めてしまいそうになるが、常にあるはずと思い込んでいる足元の安全性よりも緊急時の対応へ重きを置き始める思考だ。
 ゆっくりと確実な一歩で廊下の中心を歩く。
教室のドアに近づきすぎては内側から何かが飛び出してきた際の対応に欠き、窓に近づきすぎれば窓越しの屋外からでも見つかりやすくなる。
廊下の幅は複数人の生徒がすれ違うために充分な広さが設けられているが、祐は意味もなく透明な一本線の上を綱渡りをさせられているような気持ちを抱えた足取りで進んでいた。
吹き抜けて上下を確認できる階段は、踊り場を境に上階と階下へ続く階段がそれぞれ伸びてコンパクトなコの字型を描いて続いている。
階下の気配を全ての感覚で探り、受け取り、あらゆる推測していたのだ。
足元を探るようにして階段を降りていく祐の耳がふと音を拾う。
最初は聞こえてはいなかったはずのものである。しかし気を張っていたはずの場所で改めて気付けばそれは最初から聞こえていたような気がしてくるのだ。
顔を上げ、左右を確認する。
ボールが地面をつくような音だ。どれもが等間隔に近く存在し、リズムを刻むようにして何度も地面に叩きつく。そして運動の勢いに向かう方向を変え、跳ね上がってははまた手中へ。
軽やかな音の正体を知ろうとすれば無意識にそれを辿り、階下へ降りた祐は窓際へ導かれるように寄り付いた。
途中、手すりに着いた指先が糊に皮膚を持っていかれるかのような感覚を知ったために、尻ポケットへ納めていたハンカチでよく拭う。
手を拭いた後にハンカチを確認すると、濃紺のパイル地にキラリと光る糸が乗っていた。
見覚えのないそれに対して目を細めて凝視する。そして類似するものをいくつか思い浮かべたがこれといった答えが思いつかないままハンカチを折りたたみ、そして再び広げる。
糸の素材に特徴があるのかを確かめていたのだ。
折り畳みをそうっとひらく生地の間で、糸は粘つきを持って生地と生地の間を繋いでいた。正確にはべたつく糊というよりはもっと柔軟に伸縮する糸の表面が吸着性のある素材をしていると想像するほうが知覚するものに近い。
一見シンプルに思えるそれが何でできているかまでは想像することができない様子でいたが、再現の高いこの空間でひとつ見つけたくらいではまだ脅威と認定するには早かったのだ。
 祐はさらに進んだ階段の翳りから廊下に出ると、姿勢を低くしてその糸を探す。
そして這うように低い姿勢で廊下を進み行く。横幅の端から端までたるむことなく張られたいくつもの糸を道中で見つけると付近の教室から椅子を持ち運んできては、椅子の脚に糸を纏わせた。
ただの蜘蛛の糸か何かと思うには明らかに多く見られるのだ。
だからこそこれが何かの罠かこちらの位置を検知するためのものであるならば時間稼ぎになるだろうと思ったのである。
既に糸の付着したハンカチも掃除用具入れとして置かれたロッカーの中に隠し、自身はその糸に決して触れないよう注意をして歩みを続ける。
 ゆっくりと進み、時に糸をくぐり、階段を降りる。そしてとうとう一階までたどり着いた。
この頃になるとボールのようなものをつく音が手毬遊びであるとようやく気付くことが出来た。利き手ではない指先に持った筆で一本線を描くようにか細く、しかししなやかな声音が数え歌のようなものを口ずさんでいるのだ。
ボール――正しくは毬であろうものには鈴が仕込まれていることも理解していた。
シャラン、コロンと、突き抜けるように高い音が転がるようにして響いているためである。
自覚を得てからはその声を避け続けて回り道をしていた祐がついに昇降口の付近へ辿り着き、自らの上履きを身に着けてから昇降口の扉へ手を掛ける。
扉が開いて意識が浮上することが最も好ましいが、その先で行動を要求されたり、そもそも開かずに更なる探索を求められることもあるかもしれない。もしも話のなかでも収束しうるいくつかのパターンを見越して靴を手に入れた祐であるが、不気味な校舎の中の出来事からすればそれだけで一種の達成感を知りそうになっていた。
そんな己を厳しく叱咤しようとした瞬間、上階から雪崩れ込むような騒がしい音がする。階段の辺りで執拗に何かを打ち付けるような音が響き出したのだ。
まるで激しく抵抗し縋り付くものを簡単に引きずっているかのような音である。
しかし、それらは祐のいる一階へ向かっているのではなく、むしろ離れていった。
音は遠ざかっていく。そしてどこかでバタン、と勢いよく扉が閉まる音がするとそれきり静かになるのだった。
 開きもしない扉の取っ手に縋って、祐は驚きに騒ぐ心臓をもう一方の手で抑えていた。心臓がどくどくと脈打っている。
呼吸が詰まってから調子を取り戻すことまでの時間にひどく長い時間が流れていたように思えた。
煮えたぎる汗が噴き出し、明かに乱れた息遣いが肩を揺らしていたのである。
そして思考を再開するとこれらがごく短い間に起こり、そして動揺すらもが時間に換算して消化することに膨大な時間がかかるものではなかったことに気付く。
事実、時間の経過だけで語れば5分もないだろう。
噴き出した汗が冷え切って背中がじっとりとしていることの奇妙さに、祐は思わず身体を震わせていた。
今、一体何が起こった?
掠れた空気が音を成さずに喉を通り過ぎる。
困惑し言葉を忘れた末に母音だけが無防備にも口から出てしまいそうになっていた。呆然としている。
張り詰めていた緊張が乱れては思わず昇降口の重い扉に身体を預けていた。
立ち尽くすというよりは術なしに項垂れることに似た姿で祐はその場に佇んでいることしかできないでいるのだ。
思い出したように周囲の安全を求めて左右を見渡したのである。
「ようやくに出られるはずの歓喜からのそれ。その顔を見るのがたまらんのよ。だのに、一体なにごとじゃ? 食えぬものを寄越すとはつまらぬことを」
 少しばかり距離の離れた左右を気にしていた祐の足元には上等な絹糸が艶やかに織り込まれた毬が転がっていた。
濡れたようにしとりとした絹の糸を視線でなぞり、すぐに顔を上げて声の出何処を探す。
その先で正面のシューズロッカーの上には白髪に鮮やかなピンク色をした牡丹の花飾りをふんだんに纏った子供がいた。
兵児帯ではなく上等に纏った着物と、体躯とは不相応に目元の妖艶な紅が特徴的だ。
着物の裾をシューズロッカーに垂らし、首を傾げて祐を見つめている。品定めをして舌なめずりをしていたのだ。
気付かないわけがない。この少女はいまこの瞬間に湧いたように現れたのである。
しかし祐がなにより驚いたのはその異様な立ち姿でも口元から覗くいやに発達した犬歯の牙でもなく、酸化した血液のように淀んだ赤黒い眼だった。
眼窩には虹彩も瞳孔も確認できないただ塗りつぶした血の赤黒色――暗褐色を注いで満たされた色の球が当てはめてあるだけだ。
そうでありながらもその眼は瞼の動きによって愉悦のままに歪み、細めた皮膚の切れ目から見える祐を愛しそうに見つめるのである。
「ああ、悔しいなあ。ああ。賢しいなあ。されども、これを長くを楽しむに重畳、重畳」
甘ったるい声音が耳にざらりと触れる。そして囁きは熱してどろどろに溶かした飴を頭から垂らすように降ってくるのだ。
「なあに、逃がしはせぬ。妾はな、男を誰一人逃がしはしまいのよ」
眼力が脳を直接ゆさぶるように意識を抉る。
身体が鞭を打たれたが如く戦慄き、そしてよろめいた体の――その耳にけたたましいベルの音が響いた。



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