抑揚も張りもない。限りなく声色に対する湿度を排除した、まさに音声だ。
それこそ肉声を再現したがった録音だったり、電子読み上げの音声が、息遣いと矛盾する粘りけを以て耳の裏側を這い上り鼓膜へ到達した。
ぞわり、と粟立つことも忘れて、手のひらかから長らく氷を握りしめたような冷たさが支配していく。
 無機質な言葉を追いかけて脳天から足先までを貫いた衝撃は、まるで強い光をインクとして紙に垂らしたようだった。細かな繊維、人間でいう細胞を食みながらじわりじわりと広がっていく。視界を侵していく。
鮮烈な光に輪郭が溶けていくのを感じた。
思考を苛み続けていた痛みを通り越した冷たさに身体を奪われ、小脇に抱えていた学生鞄が音を立てて落ちるのを遠くに聞く。
 金属を撚り合わせて作られた糸は火花に食われていた。外側の正体を失いかけている。
片膝を地面について、なお上半身は伏せはしないように支える手に自嘲したい気持ちだった。
乾いた舌の上に苦みに似た億劫を覚える。腹の底でぞくりと天地を返そうとする不快な感覚にたいして噴出した汗がじっとりと伝っていたのだ。
鉛になった瞼を開いていることに耐えられず次に瞬きをすると、生暖かい曇天の温度が過ぎ去りひんやりとした寒風が歓迎を示して頬を撫でた。
一瞬にして肌寒い場所に放り込まれたというのに火照っているのか身体はじんじんとした熱を持っていた。伝うまでに至らない嫌な汗が半乾きになって肌に居座っている。
認識の裏側に入り込んで地面をひっくり返そうとする感覚を本能は嫌がるというのに、熱を持った身体は徐々にその冷気に落ち着きを取り戻している。
空気を取り込めば十分に肺を満たしていく。肩を大きく揺らし、腹の底が膨らむような深い呼吸を何度か繰り返す。鼓動を押さえつければ、身体は幾らかの濁りを排除する。
呼吸が整う頃には、纏わりつく頭痛からも、鼓膜を直に触れる砂の雑音からも解放され、五感はずっと、しんと、冴え冴えしていた。
これはどうしようもなく、夢であると片づけた今朝の続きだ。
証明のしようがない事象に否定的な祐でさえも、そう直感するほど、この場所には認識へ訴える力がある。
本能はそれを感じ取っても、連続して引き起こされる現実味のない出来事も事象の由来もわからないままでは理性が思考に負荷をかけてフィクションと判断する。
そう、まさに、小説か映画の中だ。
普段、己が立ちすくんでいる誰かに敷かれたレールの上ならば演じ切ることができるだろう。だが、ここがその誰かが敷いたレールでないとすれば、ここが、ここからが現実なのではないだろうか。
その事実に少なからず掻き立てられる高揚に胸を抑える。
吐き出した息が暗い悦びを知っている。ただ、この現実に対して一番最初に認識しなくてはいけないのは──獣に襲われていた事実だ。
ブロック塀の高さよりやや低い体高をしており近所を闊歩している家犬とは比べ物にならない暗闇の獣だ。そこまで思考して、祐は勢いよく顔を上げ、周囲を見渡す。
相も変わらず蔓延るとでも言いたくなる霧が視界を阻み、半透明で覆い、つまり、何もかもを曖昧にする様は一層のこと物事のすべてを平坦に均すようだ。
地面に着いた手に体重をかけ、踵を浮かせるとゆっくりと立ち上がる。
 重い霧を抜けた頭上はべったりとアクリル絵の具を塗りつけたようなオレンジ色で、雲がない空が広がっている。
太陽がさんさんと死を思わせる本能に訴えかける不快を注いで、この世界は一秒ごとに元気よく、退廃を加速する。
今朝方と異なり、行動する差支えのない明るさはあるようだった。
傍に転がっていた学生鞄を手繰り寄せて錠前に手をかける。
 最初にこの場所を訪れた際は烏丸三丁目の十字路によく似ているが、作りかけのおもちゃ箱を見ているような気分でいた。
だが今現在のこの場所は、学習した作り手がブロック塀の向こう側に生活を継ぎ足したように思えた。
砂利をセメントで固めたブロック塀から庭木が覗いている。道路には相変わらず再現不可能に翻訳した文字ばかりが並んだ標識が、雑草が、小石が――。
そういったような小物が散らばって先ほどまで見ていた曇天の景色と大差がなくなっていた。
今朝方、女子生徒が吊るされていた十字路のほうから、引きずり回されたであろう血の跡が乾いた平筆の筆致よろしく残っている。点々と、時に荒々しく、赤黒く染みる血が、惨憺たる事柄を物語っていた。内臓や肉片をいいように弄んだ光景そのものである様相は、まるで項から表皮を剥いで肉を割り込んで潜る感覚を想像することに似ている。
普段であれば想像もしない心臓の下側や裏側から砂を塗り付けるようだ。
想像をし得ることのない不快は苛立ちにや焦燥に似た感覚を掻き立てるも、正しい行き場を知らないでいる。
袋小路になった塀にべったりと着いた血を眺めている。あれだけの体積を持つ獣は、いったい何処へ消えたというのだ。
呼吸を細くする。自身の気配をどれだけ薄めても普段から命を意識しない祐の耳が捉える音は暗闇に向かって吹く風が円筒の縁を撫でるほうっとした音だけだ。
霧に紛れて近くにいるとすれば、呼吸を嗅ぎ付けて喉笛を噛みきりに来るのだろう。この場所は非日常はあるが、夢の中でも命の理を捻じ曲げたフィクションでもない。
足元に敷かれた線路がなければ、命に対する無事の約束もない。
まるで行く先を示唆するように黒い合成皮革の口を開いた学生鞄からペンケースを取り出す。
 ファスナーが音を立てない手つきで引くと引手金具がかみ合って閉じていた凹凸の間に虚空を広げる。金属の色をむき出しにしたカッターナイフのスチールが空の色に濡れる。
業務用でもなければ刃の幅が二センチもない。木切れ同然の事務用カッターナイフだ。おまけに刃を覆うケースはプラスチック製だ。
スライダーを動かせば、先ほどの慎重をあざ笑う体でチキチキとした音を響かせて安っぽい刃の鋭さが顔を覗かせる。
一〇秒ほど、磨かれた刃を眺めていたが祐は徐に付箋紙を取り出して一枚目をめくった。
その刃に二つ折りにした幅広の付箋紙を被せるとホルダーを支点にして力を込める。下へ振り下ろす手つきで刃を折り込んだ。
あらかじめ計算された線に沿ってパッキリと折れた刃は、鋭さを取り戻して先ほど先頭にいた刃よりも強く光を返した。首をひねった祐はカッターナイフの刃を見つめている。
時たまに翻して、刃こぼれなどないまっさらさで白く繊細な身を舐めるように見ていた。
獣のように毛皮を持ち、且つ人間よりもずっと質量のある筋肉を裂くには不十分すぎる。精々、皮膚を引っ掻いて上々といった褒め具合がよく似合う。
その下に蓄えた脂肪を裂き、脂によって刃が使えなくなる前に刃が見るに堪えない姿になることを想像できないというほうが稀有だ。
事務だとか業務だとかいう話ではないのが明瞭である。鉈でも大男でもない限りでは前脚ひとつ落とすことはできはしないだろう。
ふっと視線を逸らし、二つ折りの付箋紙から刃が零れ落ちないようにもう一度折りたたむ。
薄くともきっちりとした紙に包まれて影を潜めたかつての鋭さをブレザーのポケットに突っ込んだとき、無意識に下唇を噛んでいた。
「いや、それすらに及ばなくとも何もないよりは……か」
危害を加えてくるものが獣だけであるとは限らないのだ。ペンケースの口を再び閉じて静かにしまう。左手袖の内側にカッターナイフを忍ばせると、学生鞄を右手に持ち、すっと立ち上がった。
 最優先事項として十字路から距離を置く。
獣に獲物がこの場所へ逃げたぞ、と思わせつつも、小回りが利いて自身は別の場所から多方向へ移動することができる。
そして獣が騙されている間にもなるべく時間を稼ぐことができる広さが必要だと仮定する。──そこまで導き出す時点で答えはもう決まっていた。
ただ、一〇メートル先を見通すにも心もとない視界、地理を含む"よく似た場所"がどこまで自身の知るものかという情報、認識の裏側に潜り込む世界のうちで安全を判断するための材料。それをとっても、圧倒的に足りない。
根拠のないものに、人間は命を懸けない。だからと言って体のいい実験台もいない。
湿りけを帯びた空気そのものが曖昧にしている正体にいつまでも目を向けていると、情報を得る器官から伝染した曖昧さに己までもが輪郭を失うように思える。
段々と、理不尽を覚えて苛立ちが首をもたげていた。目頭のあたりがぴくを痙攣する。
なぜ自分が?
望んだ非日常に対する不満と疑問が帰結するのは"自分ばかりが不幸"ではなく、"自分である必要はない"という与えられない必然に対してだった。
贅沢なことにも、人間というものは与えられた瞬間に不満をこぼすのである。
不満の外側をなぞり、焦れる太陽は、直視を避ければ大した光源ではない。
眩しくもないというのに意識のほとんど端っこで右手を庇にするための形にした祐は、遠くを凝視するために目を細めた。乱視の影響で重なる像の輪郭がスーッと中心に寄っていく。
黒い被毛は霧の中でもよく目立つだろう、という曖昧な判断のもとで泥濘を掻くことに似た足取りは学校へ戻り始める。
「……どこへ行っても着いてくるな」
理不尽だとか、窮屈だとかいうものは。
深いため息とともにそう続けようとした言葉が途切れる。
びくりと跳ねた指先が勢いを余らせて肩に触れたからだ。もちろん、自身のものではない。



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