自動販売機と共に備えられた簡素なベンチに伊三路は腰掛けている。
五分は待たせないと言われた手前、何をするにも中途半端になると思ったのかすっかり背を預けるように座面へ深く掛けているだけだった。
自動販売機の側面に印字された企業ロゴや節電をアピールする文言を眺めていたのだ。暇を持て余し、足まで適当にぶらつかせている。
そして言葉の通り場に同席するには混ざれない程度に入り組んだ内容でいて、待たせるには長すぎない"五分"の会話を遂行した祐が中庭のベンチに着くと、まさに司書が言ったようなことを思う人間が他にもいるかもしれないと納得する程度はできそうな様子の伊三路が幼い横顔で足をぶらつかせていたというわけだ。
なるほど小動物的な庇護欲を煽りそうではある。
かくいう自分も目の前の男を小動物のようであるとは考えたことを認める祐であるが、今となってはそんなふうにかわいいものではないのだ。
少なくとも、一般論で近似した生物を認めることが一見では難しい異形の者に命を賭してかかる人間を簡単に小動物と一括りにすることは憚れる。
「悪い、待たせた」
 気配に感づいていなかったわけではないであろうが、祐の存在を改めて認めると伊三路は睫毛を瞬かせて顔を上げる。そしてぱっと表情を明るくしてからこぼれるように笑うのだ。
「ううん! ううん。これくらい待ったうちには入らないって」
待ち人が来たことに喜び弾んだ様子の表情ではあるが、眉だけが会話の切り出しを迷うように中途半端に密やかな表情をしている。
それを見た祐も、まるでつられて眉頭を低く顰めた。
どちらの行動もさして深い意味はない。
内心に抱える切り出し方を模索し、結果的に互いの表面に出てきた些細な表れがそれだったのだ。
「……何か飲むか。先日の話が長くなるんだろう」
 視線をほとんど動かさないまま呟くように切り出した祐に伊三路は「んーん」と唸るように拒否じみた意志を示す。
疑問符をほとんど感じられない言葉を聞いても、きちんと疑問形だと読み取った目の前の人物が穏やかをしていた。
「気を遣わなくたっていいよ。固くならないで」
その姿の輪郭から、内側の意図を察し見ては祐だけ表情の意味を変化させ、片方の眉を上げていた。
「実はさ、お昼に買ったものがまだ飲みきってないの。そちらを先に飲まないと。直接ね、口を付けちゃったからさ」
二五〇ミリリットルのペットボトルを大事そうに取り出す伊三路は、祐の視線をものともせず笑う。「最後の授業前に買ったのだけど、ちょっとね。すこし。飲みそびれちゃって」
どうして懐から何のふくらみも察することもされずペットボトルを取り出すことが出来るのだ、ということを言いたい気持ちにもなる祐であったが、平静のまま自販機で適当に飲み物を購入する。
並ぶボタンを眺める祐の横面をなぞりささめく声が、寒の戻りを思わせるやや乾いてくすぐったがる声として鼓膜に触れた。「弥彦伸司と話をしたんだ。さあ、きみも座るといいよ」
鼻の奥に靄がかったものを感じる気配がしてか、砂糖の多いコーヒーの味を疎んだ気分ゆえか、深くは考えずに購入したホットレモンを片手に祐は一人分の隙間を空けて同じベンチに腰を掛ける。
人通りが少ないという前提は周知のことであると言っても過言ではない場所であるにもかかわらず、炭酸飲料のボタンには"売り切れ"の文字が浮かんでいるのを未だぬるい目で眺めていた。
季節は確実に夏へ向かっているらしいのだ。
「……一昨日のことを皆があまりに知らないようで、きみは驚いた?」
「本当に誰も聞きつけなかったのか、と思う程度には」
視線は交わることなく、淡々とした一問一答が続く。
素直に語る祐に伊三路は肩の力を抜くと、首を傾げるかのように姿勢を崩し、僅かに背を逸らす。よく凭れ、後方へ預ける背に反して足はつま先の方向へ伸ばしていた。
思わず『出ました』とでも言いたげに背を伸ばすことに気持ちの良いほど音の伸びが豊かな声を漏らし、それに対してまた一人勝手に面白くなっては声を明るくして彼は答えた。
努めて明るくしているわけではない。止まっていた息を吐き出すように語りだした様がそのような息遣いで聞こえただけである。
それでも、静けさを追いやっていくようにぱっと目立つ顔をはすっきりとさせていたのだ。
もはや何を切り出すことに迷っていたのかと問いかけたくなる。
しかし、それをすると延々として本題から逸れていくために祐はただ一言返すにとどめて、感想の一切は余計なこととして決して口には出さないでいた。
「"影法師の蝕(あれ)"は、おれたち全員を捕食する気でいたからね。正確に言えば、というか、存在を知られて不利益になるならば、きっと誰でもそうするでしょう? "口封じ"ってやつをさ」
 唇を舐める伊三路がポツンと言い切って呟く。
この程度の発言に今さら驚くことなど一つもない。祐はホットレモンの封を切っては想像より酸味の強いもので喉を温めた。
正確には暦上の冬はとうに過ぎ去り冷えを語るには大袈裟であるが、日陰にいるとどこか内臓から冷たくなる気配が生き物のように足元を往来していく。
それから逃れたい潜在的な意識が足元をなぞる。居心地の悪さから逃げ出したくて砂のこぼれた地面を躙る靴の下から、ざりりと鼓膜に不快を塗り付けるような摩擦音がするのだ。
ほう、と息を吐く頃には既に次に何が続くかという話題の分岐を幾つか想像し、あとは待つのみとして言葉が再開されるまで黙りこくっていた。
「日野春暦を真似て続けることに不都合ならば、おれたちは必然として犠牲者の候補だ。時間の問題だったよ、簡単な話さね。鴨がねぎを背負って来るとでも言いたいくらい! 帰すわけにはいかないし、そのつもりもないし、よく考えればいい食事が自ら来たわけ。それに」
 言葉が一度切れて、出直すかより強調をするかの様相で伊三路は続ける。まるで念を押すように含みをもって改めた言葉を重ねた。「それに」
ただ日常で馬鹿みたいにヘラヘラと笑っている様の延長をした声である。
急に見透かすような緑を怪しく輝かせることもない。
そのような不気味なほど深刻な姿を好ましくないと語るのは誰でもない自分であるというのに、唾を飲み込むことに対して無意識のうちに随分な労力を要していることに祐は気が付いていた。
「前に話したような"狭間の空間"……この前のあれがいわゆる縄張りだったのならば、引き込みさえすれば縄張りの主が死ぬまでの間のそこは蝕の独壇場だ。長期戦すら厭わなかったと思うね。そして、それが続くほどおれたちは不利にだった。なるはずだった」
息を深く吐いて頭を振る。
伊三路はそのまま流れる所作で小さなペットボトルの中身を煽ると、飲み口のふちを眺めては祐を見ずに続けている。
「でも相手はその計画に僅かな焦りと明確な不安が過ったときに一度は企みの事象完璧な道筋を放棄してまで、まずきみを捕食しようとした。これは別に、きみならば簡単に食べられると思って選定されたわけではない」
「はあ」と祐は疑問を呈する。
 本能として最も力の弱い者が捕食の対象として優先順位が高いことなど至って当然のことであるのだ。
しかし、目の前の男は何に確信を持ってどんなことを言い出そうとしている?
確かに意味深なことを蝕は語っていたものの――。
思わず身体が強張る様を祐は自覚している。
心中で投げかける疑問と共に、常に蔓延っていた靄の姿をする漠然とした思考に焦点が当てられた気がした。
今までは伊三路の思わせぶりから察するのみであったその答えが、今になって道筋はぼんやりながら明確な答えを導くのだ。正確には、逸らしていたものに抱く推測が答えを察し得て輪郭を鮮明に絞った。
故に唐突として鮮やかに認識したものへ意識は傾いたのである。祐は目の前で認識した思考をより咀嚼するために手をかけるようなイメージをしていた。
それらの思考を伊三路は知り得ないが、しっかりと目の前にある凍て星に朝日を浴びせたような祐の顔を捕らえた。
唇の手前に飲み口を掲げたままの祐が息を呑み、続きを待つのだ。
空間の緩やかな流れを肌で受け流していた。呼吸を深くしている。
「それだけきみは蝕という生物にとって魅力的というわけさ。正確にはきみを真っ先に食らえば格段に力をつけることのできる栄養の塊と認識してなにより欲しがった。きみの持ち得る因果や感情を、だ」
 ざわっとした音が聞こえる錯覚を掻き立てるほど一瞬にしてのことだった。強風で煽られるような勢いで肌が粟立つ。
確信はより大きく答えを肯定するために、まるで空気を含んでは体積を大きくして胸に住み着く。
思わずホットレモンのボトルを取り落としかけ、祐は前屈みに姿勢を崩したままで、尚も伊三路の言葉を待っていた。
知らない。覚えもない話だ。
しかし、どこか合致する端々の根拠と折り重なる言葉によって更なる確信を得たがるかのように、一字一句をまさに一つでも早く唇の動きで察するために顔を凝視しているのだ。目を逸らせないでいる。
「"執着"。先にはそうとも表現をしたけれども、明らかに、そして不自然なくらいにきみの存在は向こうの目に魅入られている。芳しいまでの負の感情・因果、そして世界の裏側を知覚したが故に普通の人間よりも近い縁を持って波長を変質させている肉体。――何かに巻き込まれたとしても、誰が何を言おうと推測に過ぎないと言われてしまうほど希薄な関係しか持たないきみの人間性は蝕にとっては好都合だよね。蝕でなくとも、悪企みをするすべてにとって、そうだということは言わずもがな」
その辺りで、伊三路が伝えたい大体のことを祐は察した。
概ね思考のその通りであるということは補足をする必要もなく、もはや消化を待つだけの答え合わせである。
「誰しも持ち得るはずの負の感情は偶然に接触した側面の縁によって変質をきたし、蝕たちにはそれが美味そうな血肉に見えて仕方ないのさ。改めてきみも思い浮かんでいる言葉かもしれないけれども、つまり、今のきみは強く"撒き餌"の性をしている」
「ああ……」と言葉が漏れていく。
 呆気なく空気が抜けていくことそのままの様相で、カスカスに掠れた喉が相槌を打つ。
落胆でも何でもなく、幾つかのことと自身の思うことが合致して納得がいったのだ。
つまり、何をどうあがこうと怪異は日常を取り巻き、時たまに恐ろしくなる内側の虚空は異常ではない。
伊三路は幼い子どもに言い聞かせるかのようにして繰り返し伝える。
「目を付けられている。だからきみは非日常にどれだけの心を奪われて、そして時に空っぽの感情を知ったとしても、ちっともおかしくなんてなっていないよ。きみはきみの考えることが自分の望む意志であるのか、そうではないのかだけをわかっていればいい」
「元より他に委ねて手放しているものでもない」
貫くように鋭い眼光が伊三路はつよく頷いた。
低い声音はその意志の強さを思わせていたが、勢い余ると怒りの感情にも似て微かに揺らぎを見せる声に伊三路は驚き、開ける限りに瞼を持ち上げて目を丸くしてから、安堵に笑みを浮かべるのだ。
喜びに似た感情を称え、首を傾げるようにしてから肩を僅かに竦めていたのだ。
「そうであってほしいよ。もう納得できるのではないかな、おれがきみを守ると言った理由をさ」
しかし、次の瞬間には『しかし、まだこの話は終わっていないぞ』とでも言いたいかのように目を瞑り、そして再び開いた。
 次の瞬間に開いた瞼の向こう側で力強い瞳孔の色が鈍く響いていたのだ。
生命に危機を感じる状況を回想しているのか、それ以外の思考に何かしらの感情を抱いているのかを祐は察することが出来ないで居たものの、伊三路が意志を持ち、それを伝えるために内側で燃ゆる強い興奮を抱いているということは察することができる。
「だから、今回だけ言わせてほしいんだ」
はた、と声が小さくなる。
「――どうして、あんなことをしたの」
 ブレザーの内胸ポケットを弄り伊三路は首に提げるために長く紐をぶら下げた、すり切れた布のような生地で作られたお守りを取り出す。そしてよく見せるために手のひらに乗せたお守りをもう一方の手で覆うようにしてその生地をやさしく撫でた。
喉を締め上げるように絞った呟きはほとんど掠れており、祐が言葉の意味を聞き取るために息を吸うほどだけの間が開く。
怒気すら孕んでいる。静かに圧のある声を浴びせるということをするのは、今度は伊三路のほうだったのだ。
しかし、それを受けて祐の心臓が跳ねることも、取り繕おうとすることもなかった。
伊三路の怒りを察する程度まで状況を思い出すことができても、結崎祐という内側の秤では異常な空間で自らが動いたことの何一つにも悪事に分類されることはしてなどいないのだ。
「ふん」と不機嫌を見せることにも似た息遣いをしてから祐はホットレモンで喉を温め、そして蓋をする。
ネジの溝に合わせて沈んでいくキャップのオレンジ色を見ていた。
視線を上げる様子で二人は納得する。これから、理解の落とし所がつく程度には真面目な話をしようとしているのだ。
従って、伊三路は仕切り直すように咳払いをした。
「借りものを更なる他人に……又貸しをするのは道徳としてはどうかと思うけれども、おれとしてはこれにあまり怒りはないよ。他にもね、怒ってないつもりだった。最初は」
言葉が続いている。思い詰めた様子でこそないが、眉根を僅かに寄せた表情は足元近くの地面へ視線を投げている。そして思い出すように、しっかりと感情を伝えたがって再び顔を上げるのだった。
「でも、日ごと増して自覚している。おれはやっぱり怒っているんださね」
 祐はそんな伊三路の言葉もどこか遠くにして、彼の手元を見ていた。重ね合わせて上下の形をする手のひらの間に包まれたお守りがやわらかく光っているように見えるのだ。
指の隙間から光が漏れ、指先の色が血を濃くするように透けている。柔らかな日と、巡り往く輪の色をしている。
澄んで暖かな空気が場を満たし、また、ふたりの身を包んでいた。
「きみが優しいこだって、おれはそう思うし、事実としてそうだったと実感した。最初に受け取らないと断ったとき、きみはこのお守りの意味を想像していたのではないかい?」
その際の様子を思い出すように、そしてやけに遠い春に思いを馳せるかのように瞼を閉じる。
普段から昔話を語るようにゆっくりと話す声が伊三路自身が自覚する胸の痛みを訴えて続けるのだ。
「そしていざおれに返還のできない状況で、暦たちの命運と己を天秤にかけた。暦の覚悟をあえて聞き直したのは弥彦伸司の価値を測るためだ。結果、きみは命に優先順位をつけた」
まるでそれが悲しくてやりきれないのだと訴える真っ直ぐな視線に次に胸を貫かれるようだ。
放っておけば伊三路の様子はどんどんと萎びていく。反対に祐はそれを前にしても目に見えて感情を動かすことはなく話を聞いていた。
その価値に共感が出来るわけでもないし、これから目の前の男が語りそうな綺麗ごとは想像できる、と確信していたのだ。
しかし、あまりに強いまなざしは光を見る目を逸らすなと磔にするようにして、次には余りに強い光で見えなくなってしまっていた。
「そう、"きみ自身を蔑ろにすること"でね。――そういった考えは精神論では美しいのかもしれないし、どちらかと言えば、おれもきっとそれを尊んで思うほうだ」
言葉は長く、ひとつひとつを十分に語って雄弁をしてみせる。
しかし次に続くのはありがたい説教でも、怒っていると語る通りの叱責でもない。静かに首を左右に振って絞り出される悲しげな声だった。
「でも、正直なところ、おれはただのずるい人間で……そうにしか過ぎなくて、つまり、相手がきみでなければ、これを貸すつもりはきっとなかった」
 一度、区切りをつけるように言葉を切る。「ここから先が、きみの思うこのお守りの答え合わせかもしれないね」
もはや頷くだけの祐が、伊三路が伝えたいと思っていることを最後まで告げることを待って聞いていた。
「これはね、別離する際に母がくれたものなんだ。父という存在を知らなかったからね、とりわけ甘えたし、大好きだった。長く一緒に居ることができなかったからと母が一等に気に入っていた着物を解いて縫ってくれたの。だから、おれは誰にだってと気軽にこれを貸さない」
微かに指先が強張る祐の様を見て、伊三路はやっと笑い出して肩を揺らした。
そしてパッと明るい声で続け、同じく明るい毛色の髪をふわふわとさせるのだ。
祐の表情を改めてじっと眺め、手振りを交えては再び笑っている。
「責めてなどいないさ! だってきみはこれをいま初めて知ったじゃない! どう詰りようがあるのさ。そんな顔をしないで」
その語り口の通りに表情を暗くするなと言う伊三路であるが、祐は伊三路の生い立ちに同情しているのではない。
伊三路の表情が見ようによっては今にもよりどころを失くしてしまいそうに寂しい顔をしているのだ。
それをじっと見ていると特筆して情がなくとも、人懐こさの象徴のような存在が曇っていくことをあまりの気の毒にすら思ったのである。
誰にでも好かれるという認識に前提を与える要素が翳ると、どこか気持ちが引っ張られる。
急に目の前の伊三路が人間らしい人間に思えたのだ。
どんよりとし風の行く先を変えてしまおうとする話題を回避したがって早口にまくし立てる様は普段の穏やかな姿から想像しても、今の彼では周囲に与える影響の大きささえたかが知れたどこにでも存在に思えた。
手振りが大きい割には圧を感じるほどではない勢いが間を詰めて並んでいたのである。
「おれが、おれ"が"、貸したくて貸したんだ。心からね。今だって、やむを得ない状況になればおれはこれをきみに再び貸し与えることも辞さないし」
 祐は耐えかねて逃げるように目を閉じた。
逸らすことでも逃れ切ることはできないと知って、それでも拒絶の意を示した結果である。
過大評価だの、誘導だのと反論することさえ億劫だ。祐にとっては逃れたいだけに過ぎない。
なぜならば結崎祐にとってはなぜ相手が怒っているかを十分に理解ができないからだ。
故に、より詳細に感情の種類を語るのであれば『面倒臭い』というのが適切だった。
こういった評価の肥大とひとり歩きは大抵のところ贔屓目を含む。
一体自分のどこにそれを感じたのだと語り、返事を聞けば憂うつだけが残る。
「ならば又貸しなんかしなかったらいいのに、きみもきみの意思が強くて難儀だなあ」
 囁くように目を細める緑だ。綻び、弛む風を肌に感じている。
伊三路の手のひらから漏れる温かい光は薄いだけの皮膚を透過して、瞼の裏に流れる血潮を眺めているような気分になるのだ。
それら五感で得て感じられるものの多くが温かさで満ち溢れていた。
「……祐。きみはどちらかの取捨選択を強いられたとき、少なくとも天秤に掛けて極端に軽いほうの存在じゃない」
声になるか、ならないかの囁きだ。ほとんど息遣いの域を出ない。「それに正確を語れば、元より天秤にかけるべきではない、けど」
喉を掠めてやっと出たようなそれらが音を縫っては風を模して語るのだ。
「おれはきみがきみを蔑ろにするところを見たくないんだ。でも、それがきみの中で最善であると思うものならば……強制と誘導はあまりしたくないとも思う」
 音に惑って一瞬詰まるも、言葉は続く。
ずっと黙っていた祐も聞いていた"だけ"ではないのだ。最後まで聞き遂げることをするために黙っているものの、言ってやりたいことはいくつかあるのである。
 連続した思考が頷きながら、大体の続きを想像した。
いつもこの男はこんなことを言っていて、どんな目線から何を思って語るのだろうか。
そんな風に祐が疑問に思うような簡単な推測の続きだ。
そしてそれは概ね正しい解として確定する道を歩き始めるのだった。
「でも、それは命が脅かされない場合だよ。おれにはおれの思う道がある」
すう、と息を吸い込む音がする。引き込まれる風に瞼を開く。
「綺麗ごとだっていい。でもね、少なくとも、おれにとってのきみの生命は他と比べて優劣の付けられるものじゃあない。知っておいて。おれはきみがきみをどうだっていいと思い込んでいるところに怒っているんだ」
澄んで底のない言葉だ。心からこんなにくさい台詞じみた言葉を語る様を漠然としたまま空恐ろしく思いながらも、周囲の風景はこんなにもごみごみしていただろうかと考えていた。
理解をしている。
理解はしているのだ。
祐が茅間伊三路に常々抱くは、己の価値を変えてくれるかもしれないという期待だったのである。



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