まるで地を這う生き物のようだ。ごうっと迫りくる風と共に首をもたげて、牙を剥く。
丸呑みされるかのようだ。
それらが身体を透過して過行く頃には、引く波のと等しくして引き戻すかのように身体が内側へ引かれた。互いに作用する慣性に似たもので身体は剥離される。
例えるならば、そんな感覚に近かった。
 砂や小石を巻き上げて浮き上がった風の中から少し離れた場所でそれらを見ていた祐には、その瞬間から、少なくとも二、三秒の間は中心の場所で誰の姿をも目視することは出来なかった。その感覚を確実として脳は認識しているのだ。
足のつま先へ持てるの力すべてを入れ、指をぎゅう、と曲げて大地にしがみつこうとしなければ、たちまち浮き上がってしまいそうだと思える。
この距離でこれだけの圧を帯びる風では、それが弾けた瞬間を想像しては伊三路たちの無事を一瞬には諦めそうになるのだ。
浮き上がった時点で無事とは言えないだろう。単純に圧に押し出されるだけでもこの場所は風圧に屈しない、校舎という如何にも頑健な建造物がある。
 肉体のうちでどれくらいの割合が水分に等しいものであるか、ということを考えれば想像に易い。
まだ青いながら、後の豊さを想像させる果実を壁に投げつけることと同義に想像しただけでも平和でいられたものではないからだ。
祐は想像する。まだ熟れきってはいないがよく身の締まった青いトマトだ。びしゃりと勢いのついた水分を――先ほどまで己が内包していたはずの水分を、前方に散らせながらよく潰れている。
そこまで惨たらしい様ではないにしろ、風に巻き上げられるならば自重を落下速度に加算して打ち付けられる。それも、また、晒したままのコンクリートの上でよく潰れるのだった。
 一般的に言う『望まぬ結果』である数秒後の観測地点へ、いくつもの筋が伸びて思考は導かれていた。
常に最悪を想定すればすべてが潰える。しかし、今この瞬間は、その思考に抗うことなく道を行くのが最も無駄のない理屈であり、期待をしないだけの精神のためには最も健全だった。
『最も無駄のない理屈だ』、『筋が通っている』。本心からそう知りながらも、祐は自分が伊三路と出会った日のことを思い出していたのだ。
あれほどの不可思議と非日常を知った後では――否、思い知らされた後では、恐らく、きっと、たぶん。幾つも予防線を張っては想像をする。
これしきの風で死ぬことはないだろう。
 伊三路を信用している割合よりも、あの日を生き延びた茅間伊三路が居る時点で死んでも死にそうにないと思うのだ。加えての人懐こさと、うんざりするほどの正義感である。
先日まで何を見ても聞いても納得がいかないと問い続けた表裏を都合よく解釈している。『結崎祐にとって表裏の解釈に生じる疑問と、茅間伊三路の突飛は別物だった』とも言えた。
恐らく、と未だしつこく前置きをしながらも、日野春暦を回収してけろっと不安を丸々呑み込んでは、何でもない顔で戻ってくる。どうせそういう男なのだ、と根拠も無く思っていたのだ。
こじつけじみたものでも何か納得のできることを語るならば、獣の爪にもたらされる鋭利や風圧よりは安全に思える。なぜならば、今対峙する敵は獣よりずっと身体は小さく、人間に近い形をしているからだ。
馬鹿みたいに無理のあるこじつけだった。目の前の生き物は、伊三路が語るように生き物の常識を変える異質な生命体である。
都合の良さが何かの変えようのない現状に、他者の生命や空回る思考に、つまり命の未来に何かしらの光をもたらすように。それらは、ただの根拠なしに極まりない勝手な想像であるが、信頼関係には遠いようで近くもある思考が祐の中では同時に、そして並行して存在している。
己の逸る心臓がどんな思考に基づくのか、そういうことを祐は自覚をしないまま唇を舐めた。
無意識だ。利害関係でしかない"ともだち"の安否と、非日常の渇望。
そのどちらもを、それぞれがどんな色をしているのか確認もおざなりにないまぜにしては、昂る感情を叩き落とすための無意識だった。
 未だ身体を呑み込んでいく最中、胴の長い風のうち喉元を過ぎた腹の中で見えない壁のように押し迫ってくる勢いがごうごうと唸る喉音を響かせ、頑健な校舎のうち、アルミサッシの中に納まる硝子窓を風は騒がしく揺らす。
 頭の中で、耳鳴りが甲高くするのだ。足は靴底でふたつ、まだしっかりと地に着いているというのに、頭部だけが遠くに置き去りにされるかのように気持ちの悪い浮遊感が襲う。
風に押され続ける汗が肌をしつこく舐っては縋ることを諦めて飛ばされていく。
そのすべてが、一秒ごとに目まぐるしく変わって命を脅かしているというのに、まるでその向こうに永遠を見る錯覚をした。
叩いて伸ばした時間たちが気の遠くなるほどの隊列で連なっている。だんまりとしているのだ。
風だけが物質を遠くへ吹き飛ばしていけば、まるでその中心には静寂があるかのように錯覚をする。
この先に、世界の何よりも美しい――むしろこの世界の精錬をより極めるための、美しき沈黙、世界そのものがあるのだ。
 思わず感嘆の言葉を漏らしそうになって、祐は正気に戻る。
まるでゆうるりと尾を引くように身体と精神が繋がるかのようだった。
そうしてこれを己の意思ではないと明確に知る。伊三路の言葉を引用するならば『瘴気にあてられた』のだ。
 耳元で風が鳴る音がまるで音叉のように澄んだ音を長く響かせていた。
非日常を求めながら、同時に知る。冷静になればなるほど、よく納得して脳は理解をする。
だからこそ、渇望は縋るだけのもので、表裏のどちらであろうと望むすべてはまやかしだ。
至ることが出来ないのならば、理想郷など存在はしない。
正確に言うならば、存在しない、ではなく意味がないのである。
ならば、自分が望むものは何だ?

 膨らんだ日常の些細が、重なりあって質量を増していた。
そこに針が刺さる。その質量を巻き込んで貫通すると、薄い膜にあく小さな穴は内包する空気を少しずつ吐き出そうとするのだ。
少しずつ吐き出せばその薄皮はみてくればかりの体積を失う代わりに、パンパンになるまで空気を注入されては内側から押し拡げられていた皮膚の脆弱を誤魔化すことができただろう。
しかし、内包された空気は内側の停滞が終わりを告げたことを知ると、一気に流れ出すのだった。故に、薄皮の脆弱は崩れ去る。
パン、と鋭い音を立てて破裂するも、元より皮膚に持ち合わせた伸縮性で、元の小さくなった姿で地に落ちる様はまるで死体を見ているかのようだった。
 伊三路は風のはじける様をコマ送りの景色のように感じていた。
ぱちんと弾けた瞬間に放出される気が光を帯びる。そして渦を巻くように周囲の空気を巻き込み、一瞬の間に螺旋は反転するのだった。
まるで呼吸をするかのように、吸いこんだ息を循環させて吐き出すのだ。その、誰かにとっての『ただの呼吸』に耐え得ることのできない数々は意図も簡単に吹き上げられる。
その間に、風船のように脆い日常の些細がどれだけ残酷であるかを知るということを情景に重ねる。
『美しい』だとか、『儚い』だとか、それらは己の思うよりずっとたくさんの感情で表すこともできる言葉だ。こういう表現は陳腐でもあるかもしれない。
突き詰めればすべては多面的な見方がある、ということに過ぎないのだ。
誰かが誰かの価値で破滅的な光景に抱く恍惚でさえ、この世界で人間が美しいと思うものの一つは死を思わせる退廃と、抗えない底なしの好奇心への憧れや恐怖という魅力の一種であるからである。
共感はできなくとも、そういった考え方があることを伊三路は理解することができるのだ。
そのうえで、伊三路は茅間伊三路の意思として、それでも、自分はそれらが枯れないように世話をしたり、植物に例えるならば水をやったりするのが己の生に見出す美学と思うだけだった。
――故に。日常の些細を折り重ねる停滞が爆ぜた瞬間のことだ。
 息を深く吸い込む。そして身体の底へ向かい意識を向けるのだ。
腹を通り越しては脹脛のあたりで一層のこと身体に巡る光は温かく広がる。目を閉じて、息を吐ききる。
肺に底を見たとき、時間はどうっと流れ出す。まるで引きこんでいた水をせき止めていた水路用の木板が取り去られたかのようだ。
 今まで止まっていた時間を正しい時間の流れに追い付かせるかのように先を急ぐのだ。光の粒が目まぐるしく視界を過ぎ去る。
天地を貫く閃光が走るかのようだった。
 圧倒されるほど目の前に立ちはだかる時間の波の中で、強く地面を蹴り上げた伊三路は駆ける。
身体は軽く、迫りくる風と少なくとも同等に存在する目には見えない追い風に背中を押されるかのように駆けたのだ。
そして指先までめいっぱいに腕を伸ばすと、風の爆ぜた中心から巻き起こった衝撃に簡単に煽られ身体を浮かせては、外側へ押しやられていく暦を受け止めていた。
引き寄せた胸元に温かい温度を自覚しながら、己と合わせて二人分の身体が強い風圧に吹き飛ばされぬように、地へとしっかり足を踏みとどまらせようとしていたのだ。
辛うじて地に足を付けて縋るものの、未だ吹き止まぬそれに対し、直に揮発してしまうであろう瞬発の力だけでは勝ることは出来ない。
暦を掴まえて腕の範囲に匿うにしても己の身体は風圧を受け止めきれず今にも身体は後方へ飛ばされそうだというのに、『どちらが本物の日野春暦か正確な判断がつかない以上は取捨選択のしようもない』として、伊三路は己の身が受け止めることのできる限度を顧みることをしなかった。
やっとのことでもうひとり暦の姿をしている男子生徒の襟首をつかんで引き寄せたのだった。
 地面の上では鈍く、思わず耳を塞ぎたくなるような摩擦音が長くしていた。上履きの底が激しい熱を伴っては生える草を躙っている。同時に上履き自身が己をよく摩耗をさせて、この場に伊三路を踏みとどまらせていたのだ。
全てが、きめ細かに挽かれた粉のように簡単に高く巻き上がる砂とその姿を外側へ向かう風の圧、そして勢いによってより鋭い切り口とした小石が渦巻く中でのことだった。
校舎はまるで幾年も此処にいるかのように堂々と構えたままそこへ居座っているものの、窓硝子はいつまでもアルミサッシの中でよく騒めく。
割れるに至らずとも、これが部室棟の中に居ると思われる生徒たちへ混乱をもたらすことは深く勘繰る必要もなく、火を見るより明らかに目に見えたことだ。
伊三路が二人の暦を己の腹の側へ匿いながら四つ這いになる。頬の皮膚や、袖から伸びる素手の甲を浅く裂く小石のつぶてに片目を瞑りながらその場をやり過ごそうとしていた。
 風の圧がこの場の全体を覆うほどの緊張となり、呼吸が苦しくなる。
ままならないのだ。
それを自覚したとき、伊三路は風が止んでいたことに気付く。
呼吸を再開することができたが故に、今まで呼吸がままなっていなかったと自覚するほど薄い酸素の存在に気付いたのである。
酷く咽込む伊三路の喉は風の中で呼吸をしようと喘いでいたらしく、まるで砂を呑み込んだかのようにざらついていた。
ざらついた呼吸が喉を撫でる度に嘔吐くほど噎せて、転げまわりそうになった。そして四つ這いになった腹の側に匿った存在を思い出して力強く瞼を持ち上げざるを得なくなるのだ。
この場を切り抜けることが出来るのは、間違いなく自分だけなのだから。
伊三路はそうして己を鼓舞して、砂が爪の内側に潜り込むことも憚らず地面の上で拳を作った。手のひらに食い込む爪が鈍い痛みを与えるほど頭は冷えて。よく冷静になる。
自分がやらなくては。
「暦、立てる? 怪我はない」
言葉の端々が切れ切れとなり、その言葉は疑問の体をしているというには適切ではなかった。
 身を挺して守りたかったはずの存在に怪我があってたまるか、という思考も僅かに滲んで、ぎこちない音である。己の影の延長であるかのように腹の下から覗く暦の茶混じりの黒髪を認める。
「い、伊三路くん、こそ……! 怪我……僕の意地で、君を傷つけてない?」
普段の穏やかな口調からは想像できないほど焦りを滲ませた暦は伊三路の下から這い出して、己を守っていた身体が、まさに己の纏う制服の襟元を弄っていた。
四つの手のひらが己を触る。そのどちらかがよく擬態をした蝕であることを思うとぞっとするものの、どちらが本物であるか、ということを伊三路は知らないのだ。
昨日の通りであれば、せめて日光が出ていれば――恐らく、蝕は己が写し取った影が成した自らの姿形に影が落ちないことを知らないのだ。
そうすれば暦を安全圏である場所へ移してから戦闘をすることが出来るというのに。
伊三路はそういった思考で頭を働かせていた。そして返事を待つばかり、四つの目がこちらを窺っていることを思い出すとカラカラの喉でわざわざ笑ってみせた。
つぶてに抉られた皮膚が顔の動きに合わせて傷を晒すと、痛みから目尻を軽微に動かしたが、続ける。
「おれに怪我はないよ。ほら、血も出ていないし」
「でも、細かい傷が……」
伊三路の返答に対して声が重なる。蝕が暦の思考や言動を写しとればとるほど、言動から正誤を判断することを困難にする様のほうに顔を苦くしているのだ。その様子に対して、痛みを耐えていると想像し感違った暦たちが顔を白くするのを、伊三路は思考に気を取られてはぼんやりした顔で眺めていた。
「いや、本当に……そう、紙で指先を切ったくらいのことだよ。確かに全く痛みがないわけではないけれども、先のようなたとえ話の状況ならば『大したことじゃあないな』って、暦も思うでしょう? 俺にとってみればそういう話さ」
現状を思い出し、つられて早口になった伊三路が続ける。
「おれより弥彦伸司を探そう。風の方向としても仕方はないけれども、申し訳ないことに彼の吹き飛ぶ方向へおれの腕が届かなかったから、怪我をしているならば、彼のほうだ」
 会話を逸らした伊三路の言葉をそのままに受け取った暦が、血の気を言いていたような顔を今度は青くする。すると伊三路に短く礼を言って絡まる足も省みず走り出すのだった。
しかし、数歩の先で弥彦伸司がどこへ吹き飛ばされたかも皆目見当がつかないことを思い出しては、あてもなく、まるで動く死体のようにぞろぞろと心のない足取りで周囲を歩き回っているのだ。四つの足が這いまわって、鳴っている。
「弥彦くん、弥彦くうん、どこ、どこにいるの」
 本人は「弥彦くん」と呼んでいるのだろうが、呼びかけるそれが自然と間延びした音として空気を震わせるたびに、伊三路の心臓はどくどくと早い脈を打って身体を熱くした。
いつもなら頭上をすっかり覆ってしまうような緊張が、極限まで高まった結果としていつしか一点に集中して鋭い形になると、騒ぐ脈の上に薄く張った肉や一枚ぺらの皮膚のすぐそばに宛てがわれているように感じられるのだ。
共に弥彦を探すと申し出たはずの足元がすっかり止まってしまって、伊三路は彼らの持つ、赤茶交じりの黒髪が豊かな後頭部を眺めていた。
 伊三路は影の方にいるであろう祐を視線で探し、その先で目と目をかち合わせるとこちらへは来ないように目配せをして首を横に振った。
ぼんやりとした青い氷の瞳が曖昧になっているからだった。
この縄張りという空間に引きずり込まれてしまうとき、祐を置き去りにすることを即ち分断とするならば、自分が戻るまで結崎祐の身は非常に危険である。そう考えていたものの、この弥彦伸司と日野春暦の関係――ひいてはそれに合致する周波数を持ち合わせて瘴気を振りまく蝕の存在は彼の深層心理に及ぼすものがあるらしく、蝕における瘴気の影響を普段より強く受けているらしいのだ。間違いなく結崎祐の身体にとって、この場の空気そのものが特筆して毒なのである。
そして、その負の感情が爆発した中心へはなるべく近寄らないほうがいい。それが伊三路の判断だった。
急がなくては。
微かな焦りが火を灯して、感情から伸びる導線の紐を食おうとすることを想像する。そして次に、祐が何度か語った冷静になれということ意味する数々を思い出すように口にするのだった。
 部室棟の裏――とはいえども、本来はそれなりに日が当たるようにはなっている。明り取りの大きな硝子たちが何枚も連なっている窓際の足元には、日光を賛美するといって過言でない様子で花壇がよく整備されていた。
そのあたりをぐるりと歩いて、伊三路は次いでに祐のそばへ寄った。
やはり言葉を交わしておいたほうがいい。
後々になって憂いになるようなことは先に潰しておくべきだと考えたのである。
「祐、気分が悪そうだ。なるたけ小さくなっていて」
「いや……」そう言って否定しかけるものの、祐は俯きかけてから首を振った。
下瞼に、伏せる睫毛が翳っていた。深く、暗い色をするそれらが如何に光を遮っているかという訳ではなく、単純に顔色が悪いのだ。
血が凍り付いたといって適切なほど、血の気のない白だ。あたたかみの色をしていない。
「いや、確かに……不本意ではあるが協力する。気遣いは助かるが、その前に気が触れそうだ。俺はこの場所が極めて不快だが、その先に魅力があると錯覚する悍ましさと矛盾に自覚がある」
「なるほど、相当さね。きみがそれをきちんと言葉にすることも、いつもより早い話しかたも。おれの判断は間違っていたのかもしれないね」
直球に助けを求めるようなそれが、常日頃の彼が抑えがちである欲求の数々が搾り出された言葉であると伊三路は率直に思っていた。
だからこそ、僅かな時間の間に逡巡した。視線を彷徨わせてから伊三路は不恰好になっていた自身の襟元でネクタイを緩め、寛げたシャツから紐を使って首に掛けていた小さなぼろ布の塊を丁寧に首から外して差し出したのだ。
「だから、ごめん。ごめんなさい。蝕によって持ち合わせる害の大小は異なるけれども、今回はとびきりきみと相性が悪いみたいだ。……うん、これはおれの母が昔に作ったお守りなのだけれども」
惑う祐の視線が伊三路の手元に落ちる。
 お守りと称され差し出されたそれは、元は明るい地色をしていたらしいことこそは理解できるものの布地のところどころが擦り切れて色が褪せている。
『ぼろ』と表現するよりは『煤けている』、という表現の方がより適切に思えた。そう表現する通り辛うじてこの布地が、かつては控えめに散りばめられた桜の小紋柄だったことが窺えるのだ。
そしてなにより、これがどうしてこの姿になりながらも存在しているかというと、それは誰でもない茅間伊三路というひとりが大事に扱ってきたからである。
思考をしては視線を落としたままで固まったような祐が受け取らない様を認めてからは、伊三路は改めて視線で促し、そして最後には無理やりその手に握らせた。
「おれはおれとしての責任を果たすために、このお守りをきみに貸す。これがきみを守るよ。ただ、これはまじないとかではなく、本当に、本当に意味のあるものだから、手放さないで。あと、どうしようもなければ仕方がないけれども……できることであれば失くさないでほしい」
念に念を押した伊三路の言葉と、微かに感じた若葉の芽吹くような匂いに圧倒されたまま、祐は指先をぴくりと動かすばかりだった。
一見ではぼろ布としか言いようのない生地で作られたそれには、無理に押し付けた伊三路の体温が移っただけとは言い難い温もりが存在し、湯が染み渡るように手袋越しの手に温度が伝わる。その春のような温度に祐は深く息を吐く。
途端に首から肩の間で往来していた冷たさが遠ざかったようにも思えるのだ。
しかし、安堵の息を吐ききる間に、これがどういった経緯で伊三路の手に渡ったかを改めて考え、受けとったばかりのそれを突き返そうとするのだった。
「……こういうものは一時的でも受け取ることはできない」
「それは聞き入れられない。確かにそれはおれの大事なものだけど、おれはきみのためになる選択を読み違えたし、きみはきみの立場をわかってはいない。ここから出たら一つ、話すよ。話をしよう。だから、おれは今この瞬間におけるきみの発言の一切を受け入れることはない」
 遠くに暦の声を聞いて伊三路は簡単に話を切り上げて背を向けた。
「この場を切り抜けて外へ出たら、ごうごうな非難でも歓迎さ。きっときみは怒るだろうけれども、でも、暦たちにも大なり小なり毒の気なのだから、一刻も早く出よう」
お守りを持つ左手に存在する温度を奇妙に思いながらも、祐は伊三路を引き止めようとして口を開き、そして結局は何も発せずに閉じた。
預かったそれを大事に胸ポケットへ納めると伊三路の後を慎重な足取りで追うのだ。
 部活棟の裏、と称されながらもそれなりの日当たりを確保した別の場所で暦は弥彦を見つけていた。
額から血を流す弥彦に手際良くハンカチを当てて止血を試みていたのだ。
伊三路が駆け寄って暦といくつかの言葉を交わし、そして身を乗り出すと短く言う。「落ち着いて。よく見てみるよ」
額を割いた傷は皮膚の薄皮をざっくりと裂いて、張り巡らされる細かな血管たちを害して血を流しているものの深いものではない。周囲を見渡すに、花壇へ頭でもぶつけたのだろうと伊三路は考える。
医者には見せた方がいいだろうが、少なくとも外傷は致命的ではない。血さえ止まれば、針と糸は必要としないことが素人目にも思い描くことが出来たのだ。
あの暴風と言って過言でない風に煽られ、花壇の一部に削られて怪我をしたと思われる。その状況に対して、弥彦はとんでもない奇跡としか言いようのない強運をつかみ取ったのだ。
そうやって大したことは無いように見せかけて語りながら、誰よりも安堵をしているのは伊三路だった。
「暦、いい知らせだよ。きみは冷静を欠いている。だから気付く余裕はなかっただろうけれども、血こそ出ているも想像より軽傷そうだ。でも弥彦伸司は緊張状態にあるから、彼が、自分が怪我をして血がたくさん出ていると知ったら取り乱して調子が悪くなってしまうかもしれない」
そこまで言い切って、最後に付け足す。「それから、もちろんのことこの後に医者には連れていくべきだ」
この場にいる誰よりもそれを発した伊三路が重ねて安堵をしていた。
 自身が発した言葉を脳内で反芻している。
あの風の中、誰に助けられることなくこの程度の傷で済んだということは稀有なことであったからだ。
学校という場所で彼らと関わり合うより前から伊三路は、自分以外の人間がこの場所へ連れてこられた際に"どうなるか"をよく知っているし、異形として様々な名称で呼ばれる蝕がどれだけ容易く人間を害してしまえるかを知っている。
この場所で乗り切らねばならぬことは多い。それも、自分はそのために重要な戦力になる必要があるのだ。
しかし、伊三路には根拠のないところで折れぬ心がある。
何故ならば、ここで誰かが誰かに致命的な害を及ぼされていない、という事実だけで伊三路本人にとってはこの生命たちは天命に見放されてはいないと思えるからだった。
だからこそ、誰ひとり欠かすことなく己は立ち回るだけなのだ。仮に自分が悪者ととられるかもしれない言葉を口にしなければいけないにしても、己の腕に届く範囲として彼らは守りたいもので、彼らの命には何物にも代えられない。
生きる誰かの行く先に、影を落としてはならないのである。
「早く出られる方法をおれは模索したいんだ。だから、聞きたい。一体、きみたちには何があって、どちらが本当の日野春暦なの」
 伊三路や祐とは異なって暗い色素をした瞳が四つ、じっと伊三路を見ていた。
この場に居る誰もが棘を飲み込むように苦く唾を飲み込む瞬間だった。



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