本校舎と、後に増設された部活棟の位置関係は実に妙なものである。
生徒が活動する時間の多くにおいて、部活棟自体が校舎の影になりがちなのはもちろんのこと、限られた土地を有効活用しようとする努力ばかりが空回った形跡も見られる。
その中でも部活棟とする建造物の南側では箱のような建物の足元で低木が花が植えられているのだ。もっぱら美化委員と、植物に関する知見を深めようとするサークルの活動場所になっているのである。
反対に、時間や天気によって日あたりの曖昧な場所は運動部における校庭の奪い合いとは無縁にひっそりと存在していた。授業をサボったり、人目につくことを好まなかったりする生徒たちには絶好の場所だと語れば想像がしやすくなるだろう。
とにかく、山や林の姿そのままが多く残る場所に建設されたこの学校においても特筆していい程度には林に面していて、いつでも静けさを纏う場所だった。さらに付け加えるならば、この季節ではまだ温まり切らない冷気が常に漂って余計に人の足が遠のくような場所だ。
 誰に配慮をするわけでもなく、伊三路は自らの身体が生み出したはずの瞬発力に半ば身体を振り回されながら部活棟の側面をなぞるように走り抜ける。
そしてその先で微かに言い争う声を聞くと、身体に更なる負荷をかけて速度を上げるのだった。
活動に伴って熱を生じる身体に相反して取り込んだ酸素が循環して呼気が冷たくなっていることも気にかけている暇はない。己の身体の調子を顧みず、締め上げられるような筋肉の悲鳴に追い打ちをかけるのだ。
「暦!」
 角を滑るように曲がりこんだ伊三路は上半身の体勢が崩れて前のめりになる。地面を一歩でも力強く、一歩でも多く踏み出そうとしていた足でしっかりと地面に縋りつく。
踏ん張る程度では殺せない勢いに思わず突き出した手の、その指先が粗い砂の目をした地面に触れ、ザラリとしたまま皮膚を焼く摩擦と熱を明確に生じさせていた。
皮膚を粗い砂目で削ぎ落そうとする軽微な痛みを感ずる間もなく、瞼はしっかりと持ち上げられて眼前に広がる光景を一刻も早く確認したがっているのである。
しかし、伊三路が唐突に準備のない活動を求められた筋肉の疲労と負荷に締めあげられながらも、半ば叫ぶように読んだ名前に対し誰が振り返ることもなかった。
そこではまさに手負いの獣のように興奮しては己が身を何としても守るために攻撃的なまでの警戒をし、そして何より強い怯えを抱いた弥彦自身と、狼狽する二人の日野春暦が言い争いをしていたのだ。
「は、話を聞いてよ、弥彦くん……」
「なんだよ、なんなんだよお前は! それとも、俺がおかしくなっちまったのか?」
 己の周囲からすべてを遠ざけるように大きく腕を振り払って、弥彦は後退りをしていた。目は怯えきって開いたままだ。
声の調子を裏返しながら空気を大きく揺らす怒気が空回る様に、仲裁に入ろうとした伊三路の足が一瞬竦む。
まるで暦を正しく認識できていない弥彦の悲痛な声と、己の中に存在する己にとって恐れている漠然とした影が被る。こうして初めて、乱れる呼吸が身体の運動能力を超える負荷だけで生じたものではないと知るのだ。
 なるべく努めて正常な息を見出し、瞼を閉じる。
恐ろしいものなどこの世界には数え切れぬほど存在する。それに己の中に存在する世界の概念が、実在するこの世界よりもずっとせまいということを知ったばかりじゃないか。
大抵の物事は、杞憂に過ぎる。生来心配性なのだからそれくらいの考えで良い。
これまでの結果を眺めていれば、ずっとそうだったじゃないか。
足を竦めている場合か? 己の存在意義を見誤ってはいけない。
そう思考をして己を叱咤しながらも、今更になって苛む思考に、疑問に、顔の前を手のひらで覆う伊三路は吐く息が不規則に乱れる幅を大きくしていることをいやというほど自覚させられる。
 全て一人で完結できる世界で生きてきたからだ。
しかし、こうしてその環境を出てきたが故に疑問を抱き、次に己の力不足故を自覚し、もしかしたら、最悪の展開では、『人間を殺さなくてはいけなくなるかもしれない』ということを知ったのだ。
そうでなくとも、ここまで怯えた人間の目を見て、想像する。このひとたちは、ここから脱出することが叶ったとして、今まで通りの生活ができるだろうか?
目の逸らしようがない不安が近寄っている。
 やるせなさの合間に、己が否定されることの恐怖が浮かぶ。よく知った感覚がよい方向へ働く様を、少なくとも伊三路は見たことがない。
自分のするべきことと、暦や弥彦のために自分がしたいことの間で、初めて判断が揺らいだ。
すべて、このすべてが己の欲を少しばかりのつもりで優先させた結果で、因果故に生じた罰が眼前に広がる光景そのものだとしたら――。
奥歯を噛み締める。足が止まっていた。それら全てを背後で砂を踏む音を聞いたとき、はっとして自覚したのだ。
「何をしている? どう見ても様子を窺うべきは……過ぎていると感じられるが。"お前が"後悔をしたくないとして先を急いだんじゃなかったのか」
 冷たくなっていた瞳に光が差す。そして風が吹くようだった。
僅かに後れを取りながらも後に続いてきた祐の訝しげな表情と額に滲んだ汗を伊三路は見ている。肩で息をしながらも切れ切れに言葉を発する姿を見て、伊三路の足元を凍えさせようとしていた氷がまだ己の身体の動きを完全に封じるものではないと知ったのだ。
するべきこと、したいこと。それを選ぶ権利を、誰かに肯定してもらうことで選んでいいと思えるならば、自分のするべきことは『帳尻合わせ』でも良いはずだ。
結果がすぐに出ないならば、先延ばしにしたって良いはずなのだ。
「……ごめん。おれはじぶんかわいさの本能で恐ろしいことを避けることに支配されかけていた、のかもしれない」
「その話をするのは今ではないし、俺はその話に興味は全くない。謝るべくも俺ではない」
祐の無関心が伊三路にとっては強く背中を押す言葉となってすっかり歩みを止めたがっていた足は再び地面を蹴る。
「そうだよ、母ちゃんが死んでから俺の人生は一変した。でも、待ってくれはしなかったのはお前だよ。お前らの方だろうがよ!」
暦が動揺する後ろ姿を追いかけている。
 まるでそこら中に生えた草木が己の足に絡みついて先へ進めないようにでもしていると伊三路は感じた。
 自分が変えようとしているのは己のものではない誰かのものだ。
それも極めて深い関係に介入すること、聞きたくない言葉の先を聞くことで他の圧力なく変わることのできる可能性のある二人を妨げること。
それは自分のために与えられた生きる術として適切であるのだろうか。自分の役目を果たすべくこと?
ただもっと単純明快に、極めて利己的に、そして一人きりのための偽善として、自分の聞きたくない言葉たちを止めたいだけではないのか?
 自問に浮かぶ暗がりを散らすために息を吹きかける。蝕によって姿形を写し取られた暦のその姿が、どうしてもずれていくばかりの認識を可視化したように、この世界で乖離していく感情と本能を示すようで伊三路は己の内臓の位置を腹の中でかき混ぜられるような気持ちの悪さを覚えていた。断片的に存在する疑問や、迷いや、信念がちぐはぐに組み合わせられている。
 間違ってなどいない。役目は尊重するべきである。この世界で誰かが悲しむようなものを大団円とは呼ばないのだ。
それが思考をする生き物が気の遠くなるほど多く存在するこの世界で息をする以上、可能性として実現することだとは思わない。そこまでの傲慢はなくとも、どうしたってこの腕に抱えきれるものの範囲だけはどうにかしたいと考えるのが人間で、少なくとも己の思う茅間伊三路だった。伊三路は明確にそう考えている。
ブレザーの襟を乱雑に寛げると、内ポケットに提げていた切り出しナイフの白く色の抜けた木の肌を、柄を、しっかりと握り込んだ。
「ああ、そうだよ。父ちゃんは立ち直って前を向いてる、人生の続きを一緒に歩んでもいいかなって人を見つけてる。でも、でもそんなのおかしいだろ!」
 時間の経過を、本来よりずっと長く感じるのだ。
唇が冷えている。焦りも恐怖も、そしてもどかしいくらいには理解の出来る稚拙も、どうしようもない事実に打ちひしがれる寂しさも、すべて伊三路にとっても振り払いたいと思うものだった。
己の中の劣等感に似た煮えたぎる汚泥を自覚する。死と、どうしようもない感情を天秤にかけてもがくことをよく知っている。
寄り添うことだって出来たかもしれない。しかし弥彦がそれを知ってほしいと思う相手は伊三路ではなかったし、伊三路は己の役目も信念も、したいことも、すべてをひっくるめたうえで今は己の役目を果たすだけである。
 複雑に切り取った思考は幾つも存在している。だからこそ、今の自分にするべきこと、したいこととして重なるものを最も優先するだけでいい。
『ここから全員生きて帰すこと』ただそれだけだ。
そう言い聞かせるも熱暴走の直前まで煮えたぎる脳は弥彦の声をよく澄まして響かせていた。このわがままとしか言えないような言葉の数々をより感情的に、悲痛な叫びのように伊三路の脳は処理をしていたのである。
「頭ではわかってるよ。悲しんだって、もう、帰ってなんかこねえもんなあ。かわいそうかわいそうって寄って集って、俺を慰めるふりして満足そうにしてやがる。そして慰めてた相手がどんな状態だろうが誰もが時間と共に自分だけの満足を得て忘れてく。手のひら返しだ」
 弥彦の表情から一切の怒りも、悲しみもが消える。
そこに在るのは洞を覗き込んでいるだけのような虚しさだけなのだ。ぞっとする。全身の毛穴が恐怖に支配されて縮こまる。
緊張のままに固まった肌には、草丈の表面を舐めるじっとりとした風が渡るように皮膚の感覚を翻させた。ざあっと粟立った肌に心臓が握り込まれる感覚を知る。
 言葉は憎悪を訴えるわけでもなく、悲しみに暮れる侘しさでもなく、ただ単純に、勝手な都合で手の離された子供の幼い姿そのものだった。
「今やいつまでふさぎ込んでるんだ、大人になれ、なんて言われたりしてな。……なあ、暦、いつまでが"いつまで"なんだよ?」
粗暴な言葉ばかり吐いていた弥彦の中でずり落ちた虚勢から幼い姿が覗いているのだ。乱雑に叫んで枯れかけた声が震えている。
ようやくしてもがくように暦の隣へ立った伊三路は、どちらが本物であるかなど今は関係ないと二人の暦の間に立ち、ふたりともの手を引こうとした。
しかし腕の伸びる距離を許すだけその場に留まろうとし、足に力を入れる暦に伊三路が声をかけようとしてハッとする。
暦は呆然として未だ苦しみを溢れさせて止めることのできない弥彦を見ていたのだ。歯を噛み締めて、それでも表情はすべての力が抜けたようにして見ていた。
そんなことを思っているなど知りもしなかった、とでも言いたげに涙を浮かべた瞳に、立っているのもやっとのような足で身体を支えて、等身大の弥彦伸司を焼き付けている。
「暦! ここは危険だ。今はどちらが偽物でも本物でもいい、ここに満ちる負の気を育てては危険だよ! 場を改めなくっちゃ――」
「ごめん、伊三路くん」
 日野春暦という姿形はずっとここに存在しているというものの、その背中から感じられるものは虚ろに色の温度を奪われた幽霊のような声色だ。
心がまるでここにはない。そして、伊三路のことを認識しながらもまるで映していないのだ。
その様を見て目を大きく見開いた伊三路は悔しげに歯を食いしばった。暦の手首を掴んで引き戻そうとする手に知らず知らずのうちで力が入って、そしてその力が誰かを傷つけてしまうことを恐れて、自覚をして手を緩く解いたのだ。
迷いそうになる。誰かを傷つけることはしたくない。
しかし、このままでは『ここから全員生きて帰すこと』すらできなくなる。だから、かくなるうえでは仕方あるまい。
そう言い聞かせては、この状況がどれだけ危険かということを理解しきれていない暦の気を引くために伊三路はごく単純な手段を取ろうとした。
 答えは単純で、乱暴だ。現に今しがた改めたばかりであることも手伝って普段以上にこういった手段を好ましく思わないが、最も言葉なく行うことが出来ること、そして暦自身が危険を感じて回避を実行したと思わせることでわだかまりを割けるためには仕方がない。
傷にはいつか治る見込みがあるのだ。それを仮に刃物として、皮膚に残った傷跡までがどれだけの時間を要して体に馴染むかは断言などできない。
しかしこの天秤はそういった『完治の見込みのある怪我』という皿の向こう側に『死』を載せたのである。ならば、恐れている場合ではない。
乾ききって貼りつく喉を割り開いて下っていく唾がまるで異物そのものであるだけだ。じっとりとする汗が冷たさを通り越して、熱のように感じている。
伊三路は自身の爪の後がくっきりと残った手のひらを開くと暦の頬を叩くために大きく振りかぶった。
「伊三路くん、大丈夫だよ。僕は大丈夫。でも、きっと、僕は僕たちのためにこの先を聞かなくちゃ……いけないんだよ。そう思うから、ごめん」
言葉を見送った伊三路は、頭を抱えて悲痛を訴える弥彦を一瞥してから、今に振り上げていたままの腕を力なく下ろす。半開きの唇が言葉を失っていた。
そして二人の暦の腕を等しく解放すると後退る。
「……どうして、いつも人間は――」
 呟きかけた唇が呆然としたまま言葉を途切れさせた。
伊三路はゆるゆると頭を振って思考を切り離すと、力強い瞳で真っ直ぐと暦の背中を見る。ただでさえ少し小突いただけでぱたりと倒れてしまいそうであるのに、不憫にも僅かに震えている薄い肩だ。
己の思い通りに過ぎ行くだけのことなど何ひとつ存在しない。
故に、伊三路に出来ることと言えば、そう己に言い聞かせては、目の前の彼にとって最善の選択ではないものを通させようとする自我を押さえつけていた。
そうして逸る身体に走った伝令で指先がピクリと動くのを感じていた。再度、拳を握りしめる。
「きみがそれを選択するならば、おれも見届けるだけだ。ただ、この先で万が一に死人が出ようと、これはきみの選択だ。きみが望む通りおれはぎりぎりまで介入しない。もちろん、最善は尽くすよ」
 言葉が暦に届いているのか返事を聞くよりも早く、弥彦の言葉が遮る。
声の勢いと共にピリピリとするその気配を感じていたのだ。微かな電気が往来する感覚にも似ている。肌や袖口といったように重なり合う物質の間で光が弾ける痛みを感じるのだ。
同時に地響きのような圧が湖面に一滴の水を落としたように広がる。蝕が育っているのだ。
「そんなの見せつけられて俺は大人になんかなりたかねえよ。お前だってそうだろ。さぞ素晴らしい『大人』の側に立ったフリして世話を焼いて優越感を得てるんだろ! ……お前だけは小銭かき集めて、ボロのバスに乗って、ちゃちい駄菓子買いに行ってた頃と変わんねえって思ってた。ああ、そうだよ、自分勝手だよ! そうあって欲しかったんだよ! お前には!」
二人の会話に挟まる声を聞きながら暦は一度だけ振り返る。周囲には可視の出来るほどに育った気を触媒とする黒々とした光が立ち上っていたが、伊三路は己の発した言葉の通り静かに眺めているのだ。今に動き出したい衝動に駆られながら右腕を押さえつけている。
「ありがとうね、今度、弥彦くんも誘って駄菓子屋に行こう。彼、駄菓子のコスパ見極めにすごく詳しいんだ。伊三路くんにもみせてあげたいよ」
前へ向き直ってしまった暦の声を聞いて伊三路は思わず視線を逸らす。
 いつも自信がないようにして、曖昧な笑みを浮かべていると称される日野春暦の像からは想像もできぬほどにはっきりとして落ち着いた声だ。
ぬるい風が渦巻くような嫌な気配のなかで洟を啜る掠れた音が響く。それがこの風の届く範囲の誰のものかは想像できないでいる。
少なくとも伊三路にも泣きたい気持ちは存在していたが、唇を噛むばかりでいるしか許されないでいた。
暦との間で発した強い意思を脳内で反芻することでより強い言霊の枷を己に嵌めているのだ。
そうでなければ伊三路は暦の意思など疎ましく身にまとわりつく一本の糸ほどにも気にかけず、己の役目のために正しいことをするだけとして今に弥彦を害すだけである。
それらを強く抑えつけることができる程度に、暦の先の言葉には強い力があるのだった。
思うようにいかないことばかりだ。一層のこと冷静に冷たくなっていくばかりの身体によく沁みて涙を誘っていた。
「なのに、なのにどうだ? 周りのヤツらと一緒だ。干渉はなくともお前はヘラヘラして、薄っぺらくニヤついて俺を見てる。だから八つ当たりしちまったのが最初だった。それきりにして謝るつもりだった。なのにお前はヘラヘラしたままで、それをどんどん繰り返してわけわかんなくなってた。ズレてくばっかりだ。俺はついぞお前が何考えてるのかわかんねーよ。なんにもわかんねえ。俺は……お前が怖いよ」
「弥彦く……」
「なあ、俺を見るなよ、ご機嫌取りのためにヘラヘラすんなよ! 可哀想って思わないでくれよ、その馬鹿みてーに人の好い顔で見んな‼」
 強い風が渦巻いている。今に弾けてしまいそうな暗闇が静かに脈を刻んでいる。
暦は強く顔に叩きつく風から身を守るようにして、腕を顔の前にかざしながら一歩を踏み出した。
今に泣き出してしまいそうな表情をしているが、決して敵意や悪意などがないことを示そうとしている。
弥彦はそのヘラヘラとした表情を恐ろしいとまで言葉にしたが、皮肉にも暦の中には、彼を思い留まらせるものとして、安心させるものとしてそれしか思い浮かばなかったのだ。
この場所が誰も弥彦を害さないことを証明しようとするたびに、思い浮かんで泡沫に消えていくのは今に記憶の彼方で煤けてしまいそうな幼いころの優しかったり、少し得意げだったりする顔ばかりなのだ。
その瞬間、過去の自分はどんな顔を彼に向けていただろうか? それの答えが今この瞬間で間違いなく溝を埋めるものとしか思えなかったのである。
既に再現などできなくなった笑顔を求め続けることしかできないでいることが、暦にとってこの日常を享受してきた罰に思えていた。
故に、自分の言葉を如何にして届けるかなどと言うことに関しては弥彦の本心をさらに深掘りしたときに笑顔の何が恐ろしいのかを分析して、その恐ろしさだけを取り除くことなど考えることは出来ないのだ。ただ、言葉をきちんと交わせば、少なくとも今この瞬間をここに繋ぎとめることのできることだけがはっきりとした根拠がなくとも確信として存在している。
つまり、衝動に突き動かされるばかりだ。
「違うよ、弥彦くん……!」
「こっちに来んな! 怖いんだよ、なんなんだよ! 笑うな! 嫌なんだよ。みるなッ! お前の……今のお前の! 同情しかねえ暗いだけの目に俺を写すな!」
 直後、悲痛な声色と共に強いつむじ風がまた一歩と踏み出そうとした暦と弥彦の間を遮った。
ごうごうと風が音を立てているようにも思えていたが、正確にはこの場に満ちていた負の気配が弾けたのだ。
強い風の気配と共に、はじけた場所から近い位置に居た二人の暦と弥彦の身体が浮き上がる。
その瞬間とほとんど同じくして伊三路が動きだしたのは言うまでもなく、その場から離れすぎないように物陰に居た祐の目には、直後、部活棟の裏に立っている人間を目視することは出来なかった。
 少なくともその一瞬では蝕が好むというその負の感情が弾けた後に何が起きるか――もしくは何が残るかということは目にとらえることは出来なかったのである。



目次