しみこんだオセロゲームの余韻を名残惜しくしては時おり振り返るように、まさに後ろ髪を引かれていた伊三路であるが、階段を降りてサッカー部に割り当てられた部室付近にたどり着く頃には諦めがついたのか、ごく真面目な顔をしていた。
少なくとも祐にはその様子であると感じられていた。
まるで表裏を返したように――正しくは茅間伊三路が持ちうるいくつもの人間性の一面であるそれは光を当てる方向を変えたが如くとした表情の変わりようである。
次に彼を見るとき、先とは違った顔をしているのはよくあることだった。その切り替えの速さが彼を達観しているように見せる要因のうちのひとつであり、または人を惹きつける魅力に違いない。
多くの人間たちと比較しても、目に見えて飛び出ている茅間伊三路の性質である。
同時に、どこか冷たさを感じる人間もあるだろう。そのくらいには、反射のような鋭い光ばかりを追って得た様相の高低差に対し人が変わったと語る人間が居そうなほどの切り替えでもあるが、全体を見れば紛れもなく茅間伊三路たり得る。
一日のうちに日が昇り、また沈む様子に例えるならわかりやすい。そう考えれば当たる面によって切り口を異なって光を屈折させることがあれども、ゆったりと構える様子から移り変わった一面であるのは明確だ。
滲み出る他の人間への懐こさが色濃く残っている。どの場面を切り取っても微睡の光そのもの自体は柔らかく射していることをなんとなく知ることできるのだった。
つまるところ、観測しているものは事象に反射する光に見た断片に過ぎない。
この時の茅間伊三路とは一日のうちに東から昇り、南を渡って西に沈む太陽の光を示すのである。彼自身が一日という中に立ち位置を変えるようなことはあれど、それすらが地球が自転をするための勝手な都合であり、彼自身が簡単に変わることはまず、ないに等しい。
 先を行く伊三路は駆け足に近い歩で、更に前を歩く男子生徒を追いかけながら大きな声で呼び止める。
その声に何の疑いもなく従っては振り返った生徒の手には薄いオレンジ色をした紙製の表紙をしたファイルが携えられており、表題には『烏丸清水高校サッカー部』の字が仰々しく存在していた。よく見れば同時に、くちゃくちゃに寄せられて雑に腕へ抱えられていたジャージの上着にも同様の名が刺繍されているのだ。
 いかにもスポーツを嗜むらしい精悍な身体と、どちらかというと鋭さを感じる顔立ち。そこに少しばかり人懐こさを落とし込んだ一種の幼さ、あるいは垢抜けさがある。鳩が豆鉄砲を食ったような表情が助長をして、より一層に間が抜けたような顔をしていた。
初夏に差し掛かる早々で元の地より僅かに焼けた肌に被る服の裾が揺れる様に対し、なるほど聞くに女子がきゃあきゃあ言うようだと祐は率直な感想を抱く。
好きだとか、好きではないだとかを語る前に彼は健康という言葉の象徴に思えたのだ。簡単に言えばそのくらいのエネルギーや自信といったような精力に溢れていた。祐にとっては目を逸らしたくなるそれは、"そのくらい"人間が好意として捉えやすい生命力だったのである。
思わず目を細めていた。そして目が慣れるとその輪郭を察することができる。
 遠目に見ただけの伊三路や祐にはすぐに理解ができなかったが、彼こそが昨日の昼休みに暦に接触をした三石というサッカー部所属の男子生徒らしかった。
先のように溢れんばかりの生命力や外見、言動にどこかそういった思いを確信へ変えていく切れ端の根拠が幾つも見られたのである。
彼が伊三路や祐のことを知らない人間だと認識して馴れ馴れしい様を強く警戒している、という前置きを考慮して一見ではマイナスに捉えられやすい印象を補正すれば、彼は紛れもなく、聞きかじりと表現するにも曖昧な知見で得た三石宗吾像そのものだと感じられたのだ。
「……つまり、この前の助っ人がどうだったかって? なんだお前、何部だ? てか誰? ヤツを勧誘したいなら俺じゃなくて直接行けよな。勧誘におけるマナー違反だぜ」
訝る様を隠さず、顎を僅かに引いて探ることを憚らない三石はじとりとした視線で伊三路を舐めるように見た。
呆れたため息が強く刺さる。断定的に語り早々に会話を終わらせようとすると同時に、顔を突き合わせて一層に重く孕む警戒の表情は真意を探り出そうとする目をしているのだ。
訝りは強くなるばかりに光を照り返しては、伊三路の目を鋭く焼いたのである。
緊張や訝りといった強い負の感情で研ぎ澄まされる刃がそこに存在するかのようだ。そういった感覚が己の息遣いが如くすぐ傍で肌に触れてありありと思い知らせられる。
己が身を守ろうと警戒するが故の言葉による押しの強さに、最初こそ困り顔をしかけた伊三路であるが、自らがまだ名乗り出ていないけことを思い出すと一呼吸おいてからゆったりとした口調を努めて語り出した。
 『それもそうだ』と納得している。
一応、という言葉を最初に並べてひとつずつ弁解をしようとするならばまず、ひとつ。
伊三路が聞いているのは三石自身のことではなく暦のことだ。前提として、確かに暦が語る分には彼と三石には面識が極めて薄い。つまるところ、急に飛び出した馴染みない名に驚いたのである。
『なぜ面識の薄い暦の名前が当然のように出てくる?』、『わざわざ部活棟で接触してくる理由はなんだ?』。『なにか面倒ごとに巻き込まれるのだろうか?』。
そのような思考が渦巻いたり、行き交ったりしているのがどこかで感じられる。
恐らく彼自身にそこまで警戒するつもりはなくとも、伊三路には複雑な警戒心が理解が出来たつもりだった。三石は『助っ人をしてくれた日野春暦』に対して詳細を求められることで芋づるを辿るように弥彦伸司に関する厄介ごとが続いているのかと不安を感じるのだろう。
伊三路のことを弥彦伸司を憎む人間か、彼にどうにか落とし前をつけてやろうと躍起になっている人間だと思っているのだ。事実がどうであれども、三石の目にはそれがまるで真実であるかのように映るのだから仕方がなくなっていた。
そのことを先回って察しては柔和に受け入れる伊三路の推察が正しければ、彼は弥彦伸司の行動によって迷惑を被っているはずなのだ。そして日野春暦と弥彦伸司の因果関係を詳しく知らずとも、『助っ人をしてくれた日野春暦』がそれらに巻き込まれていくならばそれはそれで申し訳のない気持ちになっているのだと感じられた。
言葉を詰まらせている。
しかし何よりも、三石本人と暦の交友関係の希薄さを理由にして『己は無関係であるから』と主観でしかない都合の良いことを簡単に話しださないところを見て伊三路は嬉しくなったのだ。
自分の腕に抱えきれない範疇であるからと言葉や印象を安売りにしないところに好感を抱いたのである。
相手に対して警戒をしているにも関わらず急に嬉しそうに名乗りだす伊三路を見て三石はさらに身を小さくして怯えかけたが、息を呑み込むと気を強く持ち直すべくと足元から地へ強く根を張るように足の裏を踏み込んだ。
そうやって身を小さく、そして固くする彼を前に、伊三路は息をすっかり吐いて体を柔らかくする。肺が空っぽになった身体で親しみやすさを見せつけるように体を小さく揺らすと言葉を続けたのだ。
同時に情報を整理するように、ふたつ、と頭の中で語ろうとして、それらに散らばる問題のうち、比重の殆どがひとつめに集約されていたことに気付く。
そうなのだ。兎にも角にも、そして少なくとも。伊三路はまだ自分の名すらをも名乗ってもいない。
「おれは無所属だよ。強いて属性を語れば、暦のともだち。名は伊三路。茅間伊三路さ」
「フゥン。そっか。で、言葉に間が空きはしたけどさ、友達であるお前は本人に聞けないようなことを俺に聞くのかよ? ま、そこはホントに俺に関係のあるところじゃねえし、いーけど」
「フゥン」という、息を吐きながら返事をする声色がやけに白々しい。三石という男子生徒は外見のどこか僅かに垢ぬけない様を思わせることと相反して警戒心を忘れはしないようだった。
 未だ疑いを継続していることがはっきりと感じられる言葉は、ちくちくとした棘をもってしてやわい絹玉を透かしたように滑らかな肌へ刺さった。
突き刺さるための深さを継続する疑いの感情はその体積をこれ以上に稼がないものの、肌に細かな棘がすがりついていつまでも付着している。
よく、冬を目前にした頃の路傍に見られる植物の種子――世間一般では『ひっつきむし』と呼ばれては飛び出た被毛に似た棘をもつ植物の種子を内包する外殻に似ているのだ。
痛みを覚えるほどの主張ではないが、必死に、言い方を変えるならばしつこく、そういうふうに縋っている。それが三石の持つ訝りともよく性質を似せているのだ。
緻密な被毛と、そのからだ自体にやわな棘を持ってはやはり警戒を辞めはしない視線だった。
こうして身構えることが継続され、時間という単位が嵩んでいくことに伊三路は一抹に寂しさを覚るのである。
そこには見えない壁で隔てられていること、その事実をこれでもかというほど感じられたからだ。
誰とでも仲良くなる、なりたい、と語る傲慢さは持ち合わせずとも、拒絶というものはよく相手を傷つける。
少なくとも、この世の全ての出来事に快か不快かの評価を付けなくてはならないのであれば、圧倒的に不快な出来事である。
しかしその"不快"を辿り続けると、好意を踏み躙られたように跳ねのけられる感情は寂しいと行き着くわけである。
伊三路は"不快"の行く先を知って、だからこそ人間と仲良くなりたいと感じるのだった。
「そう、ともだちの暦が困っているんだ。ぶつかっている問題があって、きみたちには直接関わりはないけれども、共通の関わりをもつひとたちの言葉を聞いて確かめたい。宗吾の感じたことをおれに教えてほしくて、おれはきみに会いたかった」
「いきなり宗吾って。正直おまえらに疑いは若干あるけどさ、昼の会話だけ盗み聞きしたんじゃわからなさそうなことも言ってるし、とりあえず信じるさ。暦は困ってんだろ?」
「うん。今更なのだけれども、きみにとってはこの訪問は不躾だったかもしれない。気が逸ってごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げた伊三路の調子にすっかり気を乱された三石は長くため息を吐く。「本当だよ」
呟いて呆れると繕う程度に横柄を気取り、壁に背を預けては持て余した手に持つファイルを抱え直し、行く先の余ったジャージの上着は半袖であるサッカー部ユニフォームの上へ羽織った。
今度は下に出る伊三路の言葉や態度に気後れした三石は自然と重くなってしまっていた口をようやく開いて言葉を紡いだ。
「……でもさ、気付いてちゃんと謝ることができるなら、その困りごととやらが順番守ってられないくらいお前にも気掛かりなんだろ」
 三石は思考を辿るようにして視線を僅かに上げると、人差し指でこめかみを小気味よくつついた。そして瞼を閉じると時間の流れる正しいべき方向とは逆へ向かって風の流れを見た。
鳥が地面を見下ろすような視点でぐんぐんと学校から河川敷へ向かう風景を駆け抜けて、風の方角を知る。まるで河川敷の小高い堤防を駆ける感覚がそのまま前髪の上から額を撫でつけた。
その錯覚からどんどん引きずり出されていく想像は、風は、春という季節から連想する放課後の時間としてはまだ少し冷たくて、身体をぶるりと震わせる。
そして気が引き締まる暮れの情景へと昇華し、さらに深い記憶を呼び起こすのだ。
完全に日が暮れたわけではなかった気がする。確か、まだ黄色としての彩りが強い葉が鳴っていた。柔らかくて、そして芽生えたばかりのつやつやしている葉っぱたちだ。
その身はよく水や養分を巡らせているために他の季節ほど騒がしくない。むしろ葉が揺られて鳴っているというのは実に仰々しい表現で、実際は囁き声か、衣擦れか、もっと小さければ鳴ったような気がしただけだろうとも思える。そのどれを選び取っても曖昧な表現であり、同時に適切だった。
とにかく風の強さと比較しても、どちらかといえば鳴っていたといった方が適切と感じられたのだからこそ、強く印象に残ったのだと思う。
少しの間、身体は風を切って走りながらそんなことを考えていたが、いずれ川面に反射する光に視線が引き寄せられて、夕日の存在を視界の端で認識していたのだ。
それらを追体験する記憶と、空想上に過ぎない風の冷たさを肌は自覚している。
記憶を遡ることを手伝うように、指でこめかみへ小気味よい刺激を与え続けた三石はいくつかの情景を思い出すヒントを連想し――そして先日に出会った、『助っ人である日野春暦』の像を浮かび上がらせるのである。
「うん、うん。そうだなあ。暦は……第一印象はあいつは、すっげえニコニコしてて、なんでも『うん』と『わかった』の二つ返事で聞いてくれたよ。でも昨日あったヤツは本当に同一人物かちょっとばかし疑いたくなったな。率直に暗そうな奴だなって思ったよ。この前は相当気分でもよかったのか? ってさ。でも、いざ話せば人が好い様子は変わらないし、確かに雰囲気はちがう。けど同一人物ではあるとは思えた」
 言葉の最中で唸り声をあげて三石は首をひねる。時間が経つにつれて薄まる感覚に舌の根も乾かぬうちから自信を無くしているのだ。
終いには「……はず」と付け足して黙ってしまった。
ただ、はっきりとしているのは、彼が思い出す限りで存在する『助っ人をしてくれた日野春暦』はとにかく笑顔であり、二つ返事でなんでも了承したというのだ。
笑っている顔以外はあまり印象には残っていない、と語ったきり考え込むように腕を組んで背を僅かに丸め込んでいる。
僅かな間をとってから解いた腕の先に存在する指は絶えずこめかみを叩き、前屈みになった身体が三石宗吾という人間の持ち得るすべてで思考を継続していた。
「少なくとも、昨日の俺が出した答えとしては、やっぱり助っ人してくれたのはこいつだったなって思えた。ただ単に、時間が大きく開くと人見知りが再開するタイプかもなって納得すれば変な話ではない程度だったよ。違和感は」
暦に関して三石が知り得ることが少ないばかりに、余計なことは言えぬと幾つか逡巡を経て重苦しくしていた口をようやくに開く。
「……ただ」その言葉に片方の眉をつり上げたのは伊三路のほうだった。祐はこの場において極めて透明を貫き、言葉に頷くこともなければ呼吸さえも存在しないかと疑うほど静かにしていた。
自らの言葉に迷う三石の困ったような、あまり言いたくないように淀んだ口ぶりに予感めいたものを覚えていたのは、伊三路ただひとりだ。
たっぷりとした間をとって、それでも言葉に続きがないもので、瞬きついでのように息を呑み込む。そしてしびれを切らして伊三路は「ただ……どうしたの?」と続きを促した。
「あんまり……言いたくはないんだけどさ、なーんか、気持ち悪かったんだよな。助っ人のときのあいつは。表情は……まあ、アンタたちが疑ってるのもあって今となっては印象が歪むけどさ……」
 歯切れの悪い三石は逃げるようにサッと視線を逸らす。
そして、少なからず情報の知り得た人間を悪い方向へ語ることへの罪悪感や嫌悪というよりは、言葉にすることで改めて鮮明に浮かび上がった違和感にぞっとしたようで、まるで水をかけられたかのようにして寒がると顔をくしゃっと中心へ寄せたのだった。
「下校中でも散歩中でもないような手ぶらで河川敷を見下ろしていた。まるで助っ人を探しているのを知って来たかのように、向こうから俺に簡単な挨拶をしてきたんだ。昨日の昼に話したとき、暦は最初、自分は運動はあまり得意じゃないから人違いなんじゃないかというようなことを言っていた。あの日を先に知ってる俺から見たら謙遜にしか見えなかったから目立ちたくないんだなと思ったけど、今考えたらおかしいんだよな。あの日の俺は確かに藁にでも幽霊にでも縋りたい思いだったけど、アンタたちがあんまりに疑うから、ちょっと怖くなってきた。俺、そーいうコワいの嫌いなんだよな」
 壁に背を預けていた三石は身体を起き上がらせ、言葉尻をそう呟くと断りもなく歩き出す。そして少し先へ進むと横目でだけで振り返って、不思議そうな顔をしたままの伊三路と突っ立ったままでだんまりを続ける祐を見る。催促をするような目ではあったが、いつの間にか警戒心は消えている。
三石にとって今この瞬間に目の前に居る二人は部活動勧誘か引き抜き目的のマナー違反者から、彼の語る『苦手であるコワいもの』を共有する仲間になっていた。
不安を拭ってほしいという欲求のままにいつの間にか伊三路と祐を受け入れていたのだ。
「もう少し話を聞きたいんだろ。ここは構造上、他より暗い。場所を変えようぜ、伊三路……とそこの黒いの、アンタもな」
 防災設備として等間隔に設置された消火器の位置を知らせるためにぼんやりと光る赤いランプを通り過ぎる。



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