まるで時間に追われるという言葉そのままに足を早めた伊三路は平静を顔に浮かべることを意図して務めていた。
逸る気持ちや思考ばかりに置き去りにされかける身体の――より正確には身体に纏う上履きの靴底だ。窮屈にならないように設けられた遊びのその分だけが置いてけぼりにされるかのようについていかず、反射の光が強く照り返すわりには滑りがよいとはいえない廊下と擦れて砂のたっぷり入った麻袋を引きずることに似た音を発しているのだ。
ざりりとした音に急かされながらも緊張を平静として装うことを主たる心情とすべく懸命になっていたとすれば、それを蝋の塗られた糸と比喩してまさにその糸の先に火をつけられた様子でいる。
少しずつ温まり、上塗りの蝋が溶け去ればやがて焼き切れるであろう脆弱な糸の先で"何か"を憂いて心臓を普段より早くするのだった。
漠然とする焦りだけを感じることは困難であり、血が巡っている感覚が気持ち悪さとして胸のざわめきを受け取るばかりだ。
緊張であるのは確かに感じていたのである。むしろ、それで精いっぱいといった様子であった。
そうして歩調を速めては部室棟の三階へ向かうと、吹奏楽部に割り当てられた区画から漏れる疎らな音合わせを聞きながら視線をめぐらせていたのだ。
彼の瞳が瞬時に探しだそうとする文字は既に決まっていて、暦が所属し、彼が「ボドゲ会」と呼ぶ活動部の正式名称だ。
マイナーな活動部の正式な名称を祐は正しく知り絵なかったが、大抵は「ボードゲーム」や「アナログゲーム」などといった言葉が入るだろうと推測しては、同じく周囲を見渡していたのだった。
 ぐるりと見渡しながら歩を進めるうちに不意にはっとしては前髪を揺らし、ついぞ足を止めた先には、かつては愛好会という非公式サークル形式で発足した名残りか『ボードゲーム愛好会』と油性マジックで適当に書かれたプレートがぶら下がっていた。明らかにこだわりは存在しない佇まいをしており、その場しのぎのように作られた表札の末尾にはとってつけたような"部"の字がある。
つまり、口語では愛好会と称するものの明確に認められた部活動であるのだ。まるで非公認の様相で居るが歴としてこの学校に名を連ねる部活動である。
部活動費が少なからず割り振られ、報告の義務を要するきちんとした『ボードゲーム愛好会部』なのであった。
そうであるからにして、他の生徒が"ちゃらんぽらん"と半分馬鹿にするような非公認活動部のように遊びまわっているだけではないらしい。部室前の掲示板には地域大会や、近隣の公民館で行われるシニアサークルである囲碁将棋倶楽部との交流会に関する告知や活動報告が所狭しに貼り付けられているのだ。
福祉交流のような親睦目的の交流会から、競技として興した大会の参加記録までそのどれもがきちんとした報告書風の新聞だった。
プライドをもって新聞の制作に長けるわけでもないだろうに、校内掲示物にしてはよく作り込まれていることが伺える様子に思わず祐はそれらの文字を視線で追いかけようとした。しかし、伊三路の目的を思い出しては視線を逸らす。
意図してそうしなければ、少しくらいの暇つぶしには目を通しても娯楽になりどうな程度には魅力的なのだ。
校内のゴシップやテストの出題範囲を予想するなどといった俗っぽい記事ばかりだす新聞部には見習ってほしいものである。
活動新聞の体で丁寧に作られた記事と、受け継がれてきたであろうプラスチック製のプレートの黄変。そしてかすれつつある部名称の題字が顕著だが、やはり、それだけに語るものがあることは想像に易い。ただのボロとしてやり過ごす気はないらしいくらいには堂々とした姿勢と、部内の雰囲気を感じられることができた。
実際にその年輪を分析した際の事実としても、適当にでっちあげて先週始めましたと言われて何の疑いもないような部室の外観に反して活動の記録はそれなりに持ち合わせている部活動であると祐は想像したし、それは真実としても確かに祐が想像するよりも長い歴史を持っているのだ。
 祐の思考をよそに、伊三路は引き戸式のドアの前に突っ立っていた。
文化部の並びに存在するボードゲーム愛好会のプレートが下がるドアをまじまじと見つめ、一呼吸置くと意を決した顔つきをしてから指の背で三回ノックする。珍しいことに緊張をしている様子だった。
指の一本ずつに通る骨の関節あたりが硬いドアを打つ小気味の良い高い音がする。喧騒を遠くにこの辺りだけがしんとしていた。
振動が空気や、空気を手繰ってたどり着いた人間のうちの水分をよく震わせた。
それこそ目に見えた反応ではなかったものの、サッカー部のような重たい扉ではない引き戸式ドアの経年で僅かに痩せた木材を震わせることもまた、事実だった。
伊三路の背中を付き添いとして後ろで眺めているだけの祐はひゅるりと魂が抜けたようにその景色を離れた場所から見ることを想像する。己が空気で居ようと徹する様がそうさせたものの、どこかでこのあたり一帯に漂う不穏さを客観的に眺めるようであったのだ。
 怪しげな日野春暦の言動を目の当たりにしたこともあるかもしれない。
しかし、どこかこの廊下の薄暗がりには日常で感じられることは少ないべったりとしたものを感じている気がする。
雨上がりのぬかるみが存外におどろおどろしいことを知る感覚に似ている。肺のあたりが急にかび臭くなるようにぞわりと肩から首までの皮膚があからさまな冷たさを知る。
身近な事柄でいうのならば、そうだった。
緊張が見せる錯覚だった。そう思い込んでいるのだ。
 しばし間をもってして中からの返事を聞くと引手金具に手をかけた伊三路は、そうっと、それはもう鳥さえも起こさぬことを努めるかのように静かにドアを開ける。その行動の次には明るい土色の髪を揺らして室内を首だけで覗き込む。
何名かの生徒はこちらを見ていたが、圧をかけてはいけないとでも思ったのか緊張を隠す様をあからさまにしながらもそれこそがよそよそしさと演出するままに「どうぞ」と言ったきり伊三路に声をかけることはなかった。
そうやって部活動自体がその通り部内で完結しており、来る者も去る者も気にしていないふりを繕っていたが、視線がちらちらとこちらを見やっていたり座り直したり、はたまた唇を舐める生徒たちの仕草がよく見受けられていた。
姿形を認識され、歓迎されているというのにまだどこか緊張しているようにも見える伊三路は続く緊張から不必要の忍び足で入室をしていて、その挙動不審の彼に無表情に近い様子の祐が続くことになる。
気配は伝染して、ついぞ誰も何も喋り出すことがかなわない空間が出来上がっている。少なくとも部員たちは伊三路が何の目的でこの場にやってきたのかを早く知りたくて仕方がなかったし、言葉は丁寧であれどもどこか怒っているようにも見える祐がとても高い壁に似た圧に思えた。だからこそ選べるならばこの沈黙を崩すのは伊三路であってほしいと思いながら、伊三路の言葉を今か今かと待っていたのだ。
その周囲の緊張も露も知らずに、伊三路は伊三路として周囲の状況を確認していた。
 部室は本校舎の教室と大きくは変わらず、その通りであれば多くあるはずの机のうち不必要に余った机と椅子を端へ追いやった結果、教室は広々としている。
両手もあれば数えるに事足りてしまう程度の人数で活動を行なっているのだ。同時に、この部室棟はある程度は部活動のために建造されたと思われるが、この町が更なる発展を見せた際にはこちらを臨時に増やした教室にしようとしていたことも窺えていた。人の気配や往来が少ないが故の滞ったような空気を除けば明るくて清潔感のある部室は好ましい空間であるのだ。
 二人組を作って向かい合わせた椅子が二つ。そしてその間に机を置き、卓上ゲームの盤を囲んでいるのだ。
似たり寄ったりで見るからに大人しそうな生徒たちを見渡すも、その中に暦の姿はない。
伊三路が不思議そうに首を捻ると、ちょうど他の部員が座っていた椅子や盤を置いていた机の影で死角になっていた位置の――壁面に備えられた背の低い棚の足元で影が動く。そこで整理かなにかをしていたらしい暦が不意に立ち上がると、ちょうど目の高さでふたりの視線はぱちんと噛み合った。
まるで金平糖がぱちんと弾けるような可愛らしい様相と、微かに放つ火花のような淡い光が眼前を走るようだ。
それから、どちらからともなく両者ともに顔を綻ばせると一歩を踏み出す。
教室の中程で落ち合うと控えめに歯をのぞかせてはにかむのだった。はやり甘い砂糖菓子を転がしたようにころころと笑い合う様に伊三路はようやく肩の力を抜く。
遅れながらも後ろ手でドアを閉めた祐は、たまたま目の合った生徒に小さく会釈をして伊三路の後ろへ控えるのだった。
「やあやあ、暦、調子はどうかな? そう、調子といえば指は平気? ああ、違うや……ごめんごめん、本題としては先日の件でさ。きみの話も聞きたかったから来たんだ。少しだけお邪魔してもいいかい」
「いらっしゃい、伊三路くん。それに結崎くんも! もちろんだよ。ようこそボードゲーム愛好会へ! 楽しんでいってね」
「既に共通の趣味で結ばれたような集まりに飛び込むのはおれでもすこしばかり緊張しているから、その言葉がとにかく心強いよ。よろしくお願いします」
教室を見渡して、落ち着きのない生徒たちへ照れくさそうな笑みを向けると伊三路は頭を下げた。「へへへ」という締まりのない笑みがそのまま効果音として表現ができそうなほどに気が抜ける声色である。
人懐こく、あまり人見知りをしない伊三路であるが流石に不利な状況と感じたのか、またはこの中に飛び込むことに対して本当に自信がなかったのか――わずかに心が浮ついて落ち着かない感情を身体に触れることで誤魔化すかのように己の首の側面に触れていた。
呼応して広まったはにかみに他の生徒たちも思わず頭を下げる。教室には各々から曖昧な笑みが浮かんで、時たまに怪しく聞こえるくらいだ。正確には挙動不審ともいうのだろう。
 普段から伊三路と暦の独特なペースをすぐ感じている祐にとっては黙って立っているだけのこの空気はどうにもやりにくい空間に感じる。己の話す必要性は確かにないのだが、こういう場所では居るだけで圧として捉えられることが多い。接点を持たないことが過ぎて親近感の消え失せた他の生徒からは疑問の目しか向けられないのだ。
「なぜここに?」と言いたげな目が刺さる。今まさにこの瞬間、この部室はまるでそんな疑問と複雑に絡み合っては伊三路と暦の持つ良くも悪くも曖昧な間合いを何倍かに強めて、うすぼんやりとして気の抜けた和やかさばかりが存在していたからだ。
 自分のような性格とはとにかく相性が悪いと、祐は思考する。この間延びして切れの悪い空気の流れを好ましく思わないし、今なお萎縮して目を合わせない部員からしてみれば親近感の感じられない男が趣味に特化して楽しんでいるサークルにわざわざ不機嫌に見える顔で押しかけてくるのだ。『恐らく』という言葉の意味をあまり重要視せずぶら下げておくだけでも概ねの言いたいことが伝わる程度には相手も所見では警戒するだろう。
理解を得ようとは思わずとも一人歩きした冷血に向けられるのは萎縮、嫌悪、軽蔑、その他特筆するべくもない感情たち。そしてそれらに比べれば砂粒ほどの不純物ともいえる好奇心だけだ。そういった感情を大枠へ分類していけばごく当然ながらに正体は理解のできないことの数々を本能として避けようとするのは自己防衛だ。それこそが人間の持つべく適切な距離であるのだ。
思考にそのような確信を持って我を通していることに加えて、足元に視線を向ければ上履きの学年カラーは自分たちと同じ二学年のものである。故に、祐は自身がこの場で浮くことを顕著に理解をしたし、事実としてもそうだった。
 二学年の、少なくとも結崎祐を知る人間は彼をひどく冷たくて表情の極めて薄い人間だと思っている。そして何より大人――自分たちを評価する立場にある教師以外とはまともに会話もしないような利益ばかり追い求める結果主義で、それ以外は他人を蹴落とすことを見せしめのように甚振り、見下すことに何も感じない冷血な人間だと思っているのだ。
「大丈夫だよ。みんな面白い人たちなんだ。その、実は今年の入部希望者が居なくて新入生が獲得できなくってね、君たちが新しい仲間になってくれるんじゃないかって期待してギラギラしてるだけだから……」
 暦は踵を返して窓際へ向かうと教室の端へ追いやられていた机と椅子を緩慢とした動作で持ち上げる。そして思い悩むような横顔で淀んだ言葉を言い直すのだ。「ウン……それについてはごめんだけど、本当に変な人たちじゃないからね。それから、指は……保健室に先生が居なかったから帰りに近所の医院へかかるよ。心配してくれてありがとう」
一つの机に椅子を向かい合うように並べ後にもう一つの椅子をそっと置き、計三脚を見渡して客人である伊三路と祐に座るように促す。
祐は向かい合っている椅子へ座る気はさらさらになかったものの、伊三路にまで座ることを勧められてはきりがない会話を続けるだけだと察して一等先に付け足したように配置された椅子へ腰を掛けた。
彼の目にはこの場所が三脚の椅子の中で最も魅力的に見えたのである。まるでゲームをするためには動きにくいと想定されるような、いかにも三人で卓を囲むためだけに付け足された席だからだ。机の短辺に対して並行に配置され、呼ばれもしない四人目が手違いで現れない限りでは誰と向き合うこともない。
 間延びするばかりに思考は食われている。
時間がないというのは伊三路が口にする通りであると窺えるが、三石が赴いた部活動全体の報告を主たる会議が終わるまで足止めを食らうのは確定事項である。
ならば無駄な会話で長引かないようにするのが最善であることを見誤るようではなかったのだ。
 我関せずを貫く意思表示かのように目を閉じた祐に暦はわかっていたような笑みを浮かべると、伊三路へ着席を促してから先ほどまで屈みこんで整理していた棚からいくつかのボードゲームの盤を持ちだす。
暦自身に命の危険がある可能性があると考えると随分のんきであるようにも思えるが、彼自身がそのことを知る由もないのだ。当然のように相変わらずとばかり形容する日常を享受するばかりである。
むしろ、「ううん」とどれで遊ぶかを悩み、唸るばかりの暦を見ては遊ぶ気力に満ち、一緒になって並べられたゲームのセットを選ぶ様を見ると変に周りの見えなくなるところのある伊三路が先走らないように制御するにはいい暇つぶしになるだろうと祐には思えていた。
自分たちが日野春暦の困りごとに探りを入れていることは本人も知っているために、わざわざ長丁場になるものを選ぶことはないだろうという安堵がその思考を加速させる。
基本的に、茅間伊三路という人間が焦りに駆られる際に最も必要と思われるのは冷静になることだ。正確には思考を逸らさせることである。
根拠を固めることの方が安心するという人間も存在するし、祐もそういう側の人間であったが茅間伊三路にとっては『焦りを感じていなかった状態』に近づけるのが早道なのだ。
理由は単純明快に、伊三路に限らず今まで気が付かなかったことに気付けば誰しもが「あれもこれも」と"「今思えば」の不自然"を言い出すからだ。そしてそれは彼の責任感の表れとも腕に抱えるものの多さが傲慢とも言えるまでに膨らんでいるからだ、とも言い得ることが出来たが、なによりこの世の中には茅間伊三路の知らないものが多すぎることが問題であったのだ。
重ね重ねながら三石宗吾に接触するまでに時間をつぶさなければいけないのは確かであるし、ここで娯楽を通して伊三路の怪異の危険に対して静かな興奮を見せる様が落ち着けばよいと祐は考えていた。 
「人生ゲームじゃあ長丁場になるし、三人となれば……無難にトランプを使った遊びでもする? 部長がミーティングに行っちゃったからちょうど僕だけあぶれちゃったんだ」
どうせならばゲームをしながら話をしようという話題から具体的な提案することに話が移り変わっていくと途端に伊三路は目を輝かせた。
未知の体験であることと、自身の"ともだち"が好き好んで行う遊びを知れることを素直に喜んでいることがありありと窺える。今にも机から身を乗り出して、その勢いが過ぎてはそのまま向こう側へずるりと落ちていきそうな勢いだ。
その様を見届けてから反対に『そういうことであれば』と祐は席を立つ。
「俺は参加するつもりはない。先ほどまで棚の整理をしていたんだろう。代わる」
「え! いいよいいよ、そんな。お客さんだもん、結崎くんさえよければ遊んでってよ」
椅子に座りかけた暦が腰を浮かせて中腰になると半分立ち上がる。祐はそのまま座り直すように手の仕草で制すとすぐに背を向けて雑多に物の並んだ棚へつま先を向けた。
「本来行うべきことを邪魔していることは変わらない。それに、俺は参加する気はないが茅間は明らかに"そう"ではないだろう。……言い方は悪いが茅間の相手を押し付けられるだけこちらの儲けものであるし、手持無沙汰が一番に時間の浪費だ」
「そ、そう……? そっか、ええと、うーん。じゃあ、お願いしようかな。一応種類ごとに箱に収まってはいるから、整理して並べてくれると……助かります」
観念した様子の暦が指で示したいくつかの段ボール箱を一目見てから向き直ると「ふむ」という言葉に近いような返事と共に祐は小さく頷くのだった。
「承知した」
短い返事だけで棚の前に移動すると祐は足を揃えたまま屈んでポップ体の並ぶパッケージたちを手に取る。
人間の後ろ姿に目玉がついていることなどあり得はしないというのに未だに委縮したままの暦は、その後ろ姿から視線を逸らさぬままで恐る恐る伊三路の耳元へ唇を寄せた。震える息遣いが柔らかな耳たぶの産毛をくすぐって、静電気ほどではないがどこか引き合う温度を感じる距離で囁き声を放ったのだ。
「ゆ、結崎くんて、あんな感じだっけ?」
「祐? うん。逆に、みなは本当に揃って祐に冷たい血が流れていると思っているの? 会話が正当に成立してできるのだから、交渉だってできておかしくはないんじゃあない? 彼の中ではおれの相手を頼む代わりに対価の労働をするようなものだもの。そういう考えを至極普通にするひとだよ」
言葉に耳を傾けることに集中していた伊三路が眉を潜めながら言葉を受けとり、そしてけろっとした様子で返すと、次の瞬間には好奇心を浮かべてこの部活動の一員でもない伊三路が一丁前な様子で暦へ着席を促すのだった。
 ボードゲームのパッケージを手早く分けた後に、将棋や囲碁など戦術の指南書を仕分けている祐の後ろ姿を見つめながら会話をしている。
「そうなんだ? 確かに意思の疎通をしようと思えば真面目に聞いてくれるけれど、最低限のことを果たしたらすぐにどこかへ行っちゃいそうだなあって僕はいつも思ってるんだけど」
ざわざわとした顔を一人でする暦の横顔を、きょとんと目を曇りのない硝子玉のように丸くしていた伊三路が見ていた。暦の横顔がそのようなことを考えていること自体が伊三路には意外という感情を抱かせるのだ。
目の前で驚く男は結崎祐のことを会話をすることのできる人物と認識していながらも、その応酬が発生すると言う意味で会話をすることが出来る人間と"しか"思っていなかったことに少なからず驚いている。
一〇〇の相互理解を人間が共有することは出来ずとも、結崎祐という人間像が三者によって様々に歪められているものがそのまま他人に伝わっていくばかりだ。
その中には事実ではないことも山ほどある。しかし祐自身ががそれを訂正せず是としていることが伊三路にとっては少しばかり気に食わないのだ。
そしてあまり偏見を持ち合わせて自分たちに接してこない暦の中でも少なからずそれは存在していたことを身勝手にも『すこしだけ残念』と思ってしまったのだ。
そのことに対して暦が悪いだとか彼を理解しようとしない他人が悪いとだか言いたいのではなく、誰でもない祐が悪いと伊三路は考えるのだ。
もっときちんと己の感情を言葉にすればいいのに。そう
思いながら今現在は視界に入ってはいないが本棚の前に立っているであろう祐の姿を思い浮かべている。
「彼はね、確かに少し気難しいと言われるところがあるかもしれないけれども……少なくともおれは祐をやさしいこだと思うんだ」



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