喚こうが諦めようが――極論としては、誰が生きて誰が呼吸を辞めようが、生命あるものは時間というものに逆らえない。
概念が消え失せる瞬間が来るのであれば、それはまた一つの概念が生命と同じように燃え尽きる瞬間である。
この場所に立つ時間という延長へ存在する経過こそが生命に与えられた唯一の不可逆な平等であり、最も惨い残酷のひとつだ。
逆らずとも朝は来る。そして同じくして日はいずれ暮れゆく。
輪を描くようにと重力のひとつ――もしくは時間という核そのものを起点としながら繰り返す習性を持つものの全ては互いの後ろ姿を追いかけあっているのだった。
こうして何をするにしても、さも当然のように澄ました顔で静かな夜が明けたのだ。真新しいと見紛うほど清潔な色に満ちた朝が来たのである。
 祐は、簡単に飲みこめない程度には棘の形を模し、緩やかで薄暗く存在する嫌な気配を持つ気掛かりのやわらかさを覚えては喉を傷めたのだった。
渇きにも痛みにも似てじりじりと喉を燻る熱が、意識を眠りの境界を越えて沈めることを妨げたのである。
こびりつくような気掛かりを他所にさっさと日が昇った後も意識を引っ張り続けるそれのせいで何度も寝返りを打った身体に気怠さを覚えていたのだ。
そのことについて何かを推察したり気掛かりに対して行き場のない文句を言ったりすることに一抹ほどにすら意味を感じられないまま言葉に形作ることはせず、祐は何事も無かったかのように昼間のための日常を続けることにした。
微かなあくびを奥歯で噛み殺しては淡々と今日という日も学び舎として所属する場へ登校をし、学生としての本分を果たし、決まりきった内容の食事と義務としてやるべきことの多くを機械的に終わらせていたのだ。
 続く繰り返しの日々を送りながらも、時に変化は起こるものである。
ただ膨大な無味に均されては薄味になるだけで、この日常が全くな無感動であるわけでもない。
具体的な事柄を挙げるならば、ここ数日のうちですっかり定番になっていた伊三路と共にするはずの昼食の時間は珍しいことにひとりきりだった。
不在の彼は昨日の出来事にいくつか思うことがあるようで祐には何ひとつを説明することもなく、それはもう説明をする時間すらもを惜しいとでも言いたいかのように一人で忙しく走り回っていたからである。
ひとりという時間を過ごしていたことの方がずっと長かったというのにも関わらず、味気のない時間だった。そう錯覚する。
祐はそれに対し、濃く味付けをされたものを食べた後に薄味の料理を出されたことと同義であると言い聞かせるのであるし、事実としてもその通りである。
茅間伊三路という男を"濃い味"と言わずしてなんというのだというのだと言えば、十中八九で人は「濃い味だ」と言い直して納得するだろう。
まるでその通りに、茅間伊三路が干渉してくる前の生活をあまりにそのままなぞるもので、それを薄味としながらも安堵を得ていたのも事実であったのだ。
絶えず変化を求めることよりも、つまらない不変の方が魅力的なのだ。少なくとも祐にとってはそうだった。
変わらないでいることに飽きは覚えど、繰り返すだけならば誰かを脅かすことも誰かに害されることもない。静寂に呼吸の音を聞くことに同義だった。
祐にとってはそれが呼吸のしやすい環境であったのだ。
だからこそ、その平穏を久方ぶりに取り戻しかけた祐はいざ放課後になってからは知らん顔をして帰宅しようとした。
 昨日の今日で放課後をひとりきりで自由にすれば、伊三路は間違いなく小言を口にするだろう。彼の普段の言動や、昨日の別れ際の言動からしても想像に易いことだ。
しかし祐も己は一言を惜しんで駆け回る相手に帰宅の許可を取りに行くほど暇でもないのだと言いたかったのである。
子供じみてへそを曲げているわけでもないが、相手がこちらへ一言をやらずとも理解をすると考えるならば、それは祐から伊三路へ向けても成立のする相互理解の欠けであった。
故に伊三路が忙殺されたがために己の存在をうっかり気にかけ忘れたと仮定しても、祐もそれはそれで仕方がないと思ったのだ。昨日から続く文脈を考えれば伊三路を待つべきであるが、口約束すらしていないのだから"言わずとも理解をすると解釈を違ったが故に"すれ違うことのひとつやふたつだってあるだろう。
そういった筋書きの状況を白々しくも形成しようとしていたのである。そして素知らぬ顔で実行しようとしている。
何かの気掛かりに改めて自覚を持ち、縛られることが嫌いなのだ。深入りをしたくないのである。
透明に生きたいだけだと思考し、故に言葉を交わすこともなく溝を掘り続けるだけだ。
もとより直に交流もなくなりその他大勢になるような者たちに心を配り歩くことは極めて無駄で、意味のないことであるにすぎない。
とにかく伊三路の干渉を回避しようとすることも虚しく、ホームルームが終わった直後、微かな緊張で高鳴る胸を押さえつけて席を立とうとする祐に対して思考の根源に居て自由を縛る厄介は身体ごときちんと向き合ったのだった。
「放課後の時間なのだけど、おれに付き合ってくれないかな?」
その言葉に対し、久方ぶりに訪れそうであった自由と向き合うことに僅かながらに楽しみを見出そうとしていた祐は少なからず落胆をする。
そして、次の瞬間には己が落胆をしたことその事実に驚きを得ていたのである。
日常は退屈の繰り返しである。しかし希釈をし続ける薄味と、濃い味として喜ばれたり疎まれたりするそれらの相互に対比をした関係を改めて驚くほどの理解させられたのである。
祐にとっての退屈な現実と少しばかり心臓を早く動かすような非日常はまさに"薄味"と"濃い味"であった。
そして濃い味を知った己が薄味に対して余計に退屈を知るのではなく、薄味なりに悪くないところを見ようとしていたことに驚きを覚えたのだった。



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