たらりとした汗で背を凍えさせる暦が会話における"次"のために脳内で言葉たちを必死に手繰っていると、不意に発せられた大きな声が廊下から離れた祐の席――つまり窓際までを一息に貫いた。
「おおーい。日野春、居るかあ?」
「日野春、日野春う」と語るはやまびこが返ってくることを待つようなよく通る声音だ。
手から投げ放ったボールの描く線が如く気持ちよく伸び、低いながらにはしゃぐ様が無邪気さを思わせるという極めて聞くにバランスの良い声量と小気味よい調子である。
快活なのだ。運動部に所属する男子高校生と聞いて想像するに易いかたちを地でいく。とにかく元気で、精力に満ち溢れている声であった。
そうやって一直線に教室を通り抜けた声は窓の外へ逃げていく。
よく聞いた名前が呼ばれることに反射の反応を示して三人は顔を上げた。暦に至っては自身の姓が不意打ちで呼ばれたことに大層おどろいて椅子から腰を浮かせては思わず立ち上がった。
 声の主は『烏丸清水高等学校サッカー部』という文字の刺繍が金色の糸で仰々しくあしらわれた紺色のジャージを纏う精悍な顔つきの男子生徒だ。教室の引き戸に備わる縦枠へ背を預けては重心を傾け、力が抜けつつも恰好のつく立ち方をしている。
ぐるりと教室を見渡しては重たい前髪と挙動の忙しない暦を見つけると、四月半ばの時点で幾分か日に焼けた顔を綻ばせていた。小脇によく手入れのされたサッカーボールを抱え、もう片方の手はビニール袋を指と指の間に引っ掛けたまま小さく手を振っている。
おかげさまで、廊下側の席の人間はカサカサとビニールが鳴り止まぬ様を聞かされていると思うと気の毒だ。恐らく本人や、彼の性格を想像するに控えめにしているほうだとはいえど、なかなかに大雑把な勘定なのだ。
身振りの動作が小さいというのはきっと普段の彼に比較して、という独自性のある判断基準だといえる。しかしその顔をこの瞬間まで認識していなかった伊三路や祐までもが"そう"思うのだから、やはり男子生徒は見るからに運動が好きで、声もクラスという小さな社会に与える影響も大きいのだと思えた。
『一見では暗い顔ばかりして教室の隅に居るばかりのような暦とは正反対に見える快活な男子生徒が突然現れた』。その事実と、男子生徒の親しげに対してすぐに返事をしない暦を不審と訝った祐が探る視線で目配せをすると、暦も同じように疑問を浮かべては困ったような、不思議そうな顔をしていたのだった。
間をおいてから自分自身を指さし確かめるように首を傾げる暦へ、男子生徒は何度も頷きを返してはピカピカとした光沢でも錯覚をしそうな笑みを浮かべて手招きをした。
 伊三路は既に興味を失ったのか先程のように詮索をするつもりはないのか、「ばちが当たるかも」と言った言葉をどこへやらとして二個目のツナマヨネーズ味のおにぎりへ手を伸ばしていたのだった。相当に気に入ったらしく、ツナマヨネーズと詰め気味に表記された文字をらんらんとした視線で眺めている。
「暦の今日は忙しいねえ。おれたちには構わずどうぞ。話の途中ではあるけれども、彼の用事が急を要すのならばなんだか悪いしね」
「え? う、うん。じゃあ、ちょっと席外すね」
歯切れの悪い言葉を残し、伊三路の机に飲みかけの紙パックを置かせてもらうと額に緊張の汗を浮かべた暦は男子生徒の元へ小走りで向かって行った。
対してフィルム包装を剥く伊三路はスーッと泳ぐ静かな視線だけで自身の前を通り抜けていく暦を追いかけたが、彼が教室の半ばほどを通過するころには信頼しきって伊三路自身は目の前のおにぎりにパクついていた。
その様子を見て祐は目の前の男の食欲はいかほどなのかと呆れを孕んだじっとりした目で見る。瞳に滲む淡い碧が暗がりの水面へ浮き上がる反射のように光っていた。
空気が停滞するかのようにゆっくりとした時間に感じられていたのだった。
「あの、お待たせしました。えっと……三石くん、だよね? わざわざ僕に用事があったり……してきてくれたの?」
「そう、三石だよ、三石! 隣のクラスの。それより昨日はホントありがとうなあ。お前ってどんくさそうな見た目してるし、数ばっかの助っ人でもいいからって正直思ってた。ごめんな。良いプレーだったよ! また機会があったら頼むぜ、日野春! ……いや、暦!」
三石と名乗った男子生徒はやはりよく通る声で豪快に笑い、暦の薄っぺらい肩をニ、三度叩いた。
「この町のヤツらってずーっと同じ学校だけどやっぱグループができてくるだろ? 確かに競技歴のあるやつに比べればまだまだだろうけど、小学生くらいのときに少し話したかもなってくらいなだけのはずだけど、おまえの中になーんかいいもの、オレは見た気がするぜ!」
動物のこどもがじゃれるような無邪気のコミュニケーションという勢いが加わった結果、暦は困惑を浮かべたまま喝を入れる勢いで励まされた勢いのまま身体をぐらぐらと揺らしていた。
会話の詳細を聞き取るに至らない伊三路は窓際の席から眺めるその光景を見て、肩をじゃれつくように叩かれてぺらぺらに揺れる暦を"こんにゃく"のようだと密かに思っていた。
すぐに悲鳴のような声をあげて身を縮こまらせてしまうところも、なんだか熱されたこんにゃくのようだと思うといよいよ面白くなってきて笑みをこぼす。
同時に愛らしさを覚えるとどんどん親和性が増していくのだ。次に玉こんにゃくの煮つけでも食事の献立に上がった日には愛しくて食べられなくなってしまうかもしれないと遠くで考えている。
既に切れた会話と、興味もない食事風景に飽きを知ってぼんやりと外を眺めていた祐は急に笑い出した伊三路を怪しいものを見るようにしている。
教室の入り口では簡単な会話を終えた男子生徒が手を振りながら去っていく。次に小さく手を振り返すのは暦の番であった。
「まるで嵐だねえ」
「散らかされる側をまるで考えていない」
祐から返事が来たことに伊三路はくふくふと笑みを浮かべる。
その『散らかされる側』という文言に掛かるものが、三石の騒がしさであるのか、それとも手にしていたサッカーボールに少なからず付着する砂を示しているのかを想像をして膨らませていたのだ。
「きみの言葉って本当に興味深いよ」
 嵐のようにやってきてはあっという間に去って行った男子生徒を見送った暦は確かに笑みを浮かべていはしたが、翳り半分にげっそりすることを通り越しては無に近い表情を浮かべている。
会話が苦痛なのではない。面識の薄い相手に無意識に構えるという誰にでも持ちうる警戒と緊張、そして伊三路とはまた異なる光量である明るく快活な様に眩んでいたのだ。
その場に留まっては二分ほど立ちつくしていて、それから思い出したように押しつけられたビニールの中を覗くと慌てて三石を追いかけて廊下へ消えて行った。
 言葉と言葉の間で黙りこくっては食事を続けてついにおにぎりの具にたどり着いた伊三路は、暦のことは彼自身がどうにかするしどうにかできるであろうと考えて、呑気に「つなまよねえずって、『つな』と『まよねえず』に分けられるのだよね? 『つな』って、なあに?」などと呟いていた。
なぜピンポイントでツナの部分を指摘するのだと祐は一瞬疑問に思ったが、先の会話でパンの話題をだしていたあたり、調理パンにおける定番調味料であるマヨネーズのことは恐らく"解決済み"なのだろうと推測する。
想像は少々の不躾を伴って広がるものの、事実として伊三路は日常によく浸透しているものを珍しがって質問してくることがあったのだ。
祐は視線だけでツナマヨと見つめ合う俯き顔を捉えると、再び窓の外を見た。
「主にマグロやカツオを油漬けにした加工品だ」
「ふうん。まぐろやかつおって海にいる大きなさかなの? へえ……そうなんだあ」
校庭に植えられた木々を揺らす風によく似た声色だった。おまけに、ちょうどそれらをざざんと揺らす風が吹くもので、横顔はよく物思いに誘うのだった。
 四月のわりに量の多い雲は時たまに太陽を隠して影の境界を薄めている。
日中の日差しも冬よりずっと暖かくなっていた。時には例年よりも早く初夏を思わせる天候もあるが、こういった日差しの強すぎない曇りは過ごしやすいのである。
暑さにはとることのできる対処も手段も寒さより少なく憂いが募るものであるが、寒いぶんにはごく原始的な思考として着込めば良いだけだ。
まだ暖かさと肌寒さを行ったり来たりする季節ではあるが、あたたかな灯がともるような温度は大分に春を思わせる。
二人の間で会話は途切れたままであるが、この周囲には雲の流れるような長閑な時間が流れていた。
 しばらくして、吊り糸を切ったようにがっくりとし肩を内側へ丸めた暦が老けこんだ様子の足取りで戻ってきた。
疲れ切った足は椅子にたどり着くやいなや膝から崩れ落ちるが如くへたりと力なく座りこみ、暦は置いて行ったヨーグルトドリンクのストローを吸った。喉を鳴らして甘ったるいそれを飲み下すと深く息を吐く。
彼が大きな動作をするたびに追いかけてくるように乾燥したビニールの擦れ合う音がする。それは三石から暦の手に渡ったビニール袋であり、乳白色からはうっすらと購買部で売っているメロンパンのパッケージが透けていたのだった。
「ねえ、どうしよう? 彼は僕にお礼の品を持ってきたんだって。ああ、彼は隣のクラスの三石くんと言って、クラスの人気者なんだよ。昔からサッカーが上手いんだ。なんだか僕が三石くんの助けになったんだそうだけど……絶対ひと違いだよ」
椅子に座ったまま、頭を抱えるようにして身を小さくしていた暦であるが、思い出したように顔を上げた。勢いの良さに驚いて僅かに背を逸らした伊三路が聞き返す前に、助け舟を求める瞳はよく縋っていたのだ。
暦はビニールの中身が窺える程度に口を開いて見せる。そこには外側へ透けた色の通り、購買部で買うことのできる人気商品のうちのいくつかがぎゅうぎゅうに詰められていた。
「ていうか、また食べものが増えちゃったんだよ! ね、伊三路くんどうか助けてね。いっぱい持って帰ってね。流石の僕も向こう三日くらいずーっとこればっかりになるのはさ……」
食べるものがあるという豊かさ、恵まれていることを前に気が引けるのだと濁された言葉であるが、『飽きちゃうよ』とでもいいたいことはありありと感ぜられた。視線や、言葉や、指先までもが、表情という表情を宿して憂いていたのだ。終いには祐にまで及ぶ助けを求める視線は困り果てているが、誰が悪いわけでもない偶然の重なりについぞ涙目になっていた。
伊三路もまた、飽和する食事量にやや困った表情を浮かべている。食べ物自体が飽和して存在することもある時世では分け与えるにも限度というものがあるのだ。
そして、伊三路自身にもここまで与えられるものには対価の有無を考えずとも意味のない後ろめたさを感じるし、身体の欲を上回ってなお手に持つという強欲は罰せられるべくと考えるために選択肢に困るのであった。
「まあ、これらの行く先は考える必要はあるだろうけれども、そして盗み聞きをしたわけでもないけれども、とにかくそれはお礼なのでしょ? 暦は感謝されるようなことをしたのだから、それは胸を張って気持ちよくいただけば良いんでないのかなあ。と、おれは思うよ」
「僕は三石くんのことをきちんと知ってるけど、本当に小学校以降で会話をしたのは僕の知る限りさっきが初めてなんだよね。しかも彼は昨日一昨日の出来事だっていうし。おかしいよねえ?」
「ええ? どういうこと」
 諦めた顔をした暦が中に詰められた品々な量を確認するためにパンや菓子やパックジュースを取り出して並べていく。
食べ盛りの運動部所属生徒らしい量のそれらをきれいに並べていくと、ついには祐の机へ侵食していた。
それを見て机の持ち主である祐がじろりとした睨みをきかせたが、三石との会話に思うところのあるらしい暦はため息をつくばかりで、自身に深く刺さる視線までへは気が回らないらしかった。
不安を濃く浮かべた表情をしては顔の前で両手を擦り合わせているのだ。
「昨日は僕、父さんに植木の枝切りを手伝うように頼まれてたから、ホームルームが終わってからは徒歩じゃなくてバスですぐ帰ったんだ。それで夕飯前まで手伝ってた。でも、三石くんが言うには僕は日野春暦と名乗ってサッカー部の部内模擬試合に出てたんだって言うんだ」
「それは……おかしな話だよね」
「そうでしょ? 三石くんはサッカー部でも上手い方だしサッカー部は部員がそれなりにいてさ、やんわりとした派閥というか、部内が腐らない程度のグループ分けがされてるんだ。部内の対立構図と切磋琢磨の部内模擬試合がウチの高校で有名なサッカー部の伝統なの。それに僕を助っ人にいれて、あまつさえ僕なんかのプレーを褒めるって? ありえないよ。天と地はいつひっくり返ったの? って僕が聞きたいくらいさ!」
興奮気味に鼻を膨らませる暦は頭を軽く振って言葉を続けた。口早になってもいまいち勢いを感じさせない彼の語り口を補強するかのような手振りでやっと説得力を得るものの、曰く体育の実技授業中に痛めた指先を時おり庇う様がどこか可哀想に見えるくらいである。
「三石くんと僕が同じクラスだったら彼は僕が志願しても断ったと思うんだよね。仮に僕にやる気があっても、助っ人には入らないでくれって逆に頭下げられてそう。気まずいよねえ。でもそんな気がする。たしかに僕はサッカーが得意ではないし、さっきの授業でも、ボールに群がるところの最後尾に着いてってただけだもん。なんとなく言いたいことはわかってもらえると思うんだけど、どうかな?」
ちら、と向けられた暦の視線に頷きで返した伊三路はすっかり考え込んで自身の顎をさすった。
「……たしかに」そう呟いて思考を巡らせるばかりであったのだ。
「戦力を求めるための助太刀ならば全くもって暦の言う通りだ。何より本人がそう言うのだしね」
 竹を割ったような語調だ。
祐はやはり言葉を発することなく伊三路を見やる。
確かに伊三路は体力があるとは言ったが技術があるとは述べなかったのである。
素直であることが間違いのないような正しさではないが、上手い抜け穴であるなと思うのだ。
事実、裏も表もない言葉なのだから、受け手が耳を介した際に都合よく屈折させて受け取った感性に過ぎなかった。それだけである。
なぜこれらに複雑な感情を抱くかというと、まさに裏も表もないからであった。
あくまで事実を事実のみとして発する茅間伊三路の俯瞰した言葉は、茅間伊三路という人間に第三者が抱く人間"らしさ"の想像に反して幽霊のようだったのである。様々な感性や経験に付随して掻き立たされる親近の感覚を持ち得ない。
彼をどこか浮いた感性として掴みどころがないと足らしめる所以であった。
伊三路の裏も表も持たず事実のみを語る手法を継ぎ目なく取り入れる会話の様、そして複雑に絡まった感情、感性を垣間見る度に人間性を訝る。
同時に人懐こさが嘘ではないと思えるだけの生活態度である。
この男にとって日常とは何で、彼自身が一体何者なのだ?
時たまに肌を撫でる薄気味の悪さがゾッと撫でる。
全てが出来合いのもので構成されて、誰もかれも、そして自分自身さえもが筋書き通りの立ち位置に駒として置かれるかのようないやな気がしていた。
「ここ数日、僕のそっくりさんが幅を利かせてるみたいなんだよね。人違いならそれで良いんだけど、なんでかキッチリ名乗ってるみたいなんだ。それも……僕の名前を」
 自身の覚えのないところで姿かたちを同じくした者が現れて何かをしていくことを最初は記憶や人の違いと訝り、正していた暦であったが、ここ三、四日で顕著になったそれらを正すことが難しくなってきたのだと語る。しっかり名前を名乗るようになられてからはもはや訂正のしようがないのだと言う。
その言葉で伊三路の目がぴかりと光った。
鮮やかな新緑の色が光の当たる様子で煮詰めた蜜を垂らす黄金の色にも見えるのだ。
祐の思考を引き込んでいた不気味さをなぞる輪郭がぐわりと広がって、開いた毛穴を怖気がよく触れた。
 思わず背を正した祐が一瞬だけ息の吸い込み方を忘れていることを誰もが察することのないまま、会話は進んでいる。
時間が止まることなどが決して起こり得ないように、その後に続く見込みのある言葉たちが不自然に止まることもなかったのだ。
「今のところいい話しか聞かないけど、そして自分に不利益ではないからって訂正をサボってしまった僕の言えることじゃないけど、つまり、悪いことをして名乗っても罪はこの僕のものになるでしょ? とてもじゃないけど気が気でないよ」
「つまり、どういうこと? 祐?」
 思い悩む思考を払うように頭を振る暦を気の毒そうな表情で慰めてから伊三路は振り返った。
理解していなさを半分に持ちながらも、先ほどまで会話に参加せずとも表情を僅かに変えるなど言葉を聞いている素振りを見せていた祐の様子が変わったことに勘付いていたのだ。
暦の会話を途切れさせて舵を切ってしまわぬ程度で様子を探る言葉を発したのである。
は、と半開きになっていた唇で祐は息を吸った。
まるで深く潜り続けたところの水面から頭を出すかのようだ。
思考は途端に鮮やかになり、靄を払う。
そして一秒を幾つかに切り分けたうちで、呼吸が管を広げる痛みに似た感覚を知るのだった。
瞼は絶えず開いて、定期として眼球へ涙を行き渡らせていたものの、まるで視界は今に像を結ぶことを再開するかのようであった。
言葉に誘導をされた祐は机に並べられた食品の数々を見渡してから、暦が弥彦に使い走りにされたが追い返されたのだと語った話を思い出す。
「"どう"、とは何を示す? 事実上の初対面として過言ではない三石はともかく、幼馴染であり使い走り程度としての交流を続ける弥彦までもがそう言うならばよほど人違いではないのだろう。全員が真実を語る仮定であるならば、という前置きが必要ではあるが。矛盾が発生しているのは事実でも、日野春暦本人以外には――それこそ三石などには日野春暦を持ち上げるメリットが全くない。それだけだ」
「暦が分裂したということ? 生物に出てくる寄り目の……おたまじゃくしとなめくじの間みたいなやつみたいに」
「え、ええ……、それはないと思うけど」
 僅かに焦点を中心へ寄せておどける伊三路へ冷めた目を向ける。
次いで暦を見ると伊三路の言葉へどう返すべくか思い悩んでいた。祐は当事者である日野春暦本人として憂うべく点が異なるだろうが、と思いながら続けた。
「しかし、この話をわざわざすることによって発生する日野春暦のメリットは存外無視できるものではないだろう。今後"何か"が合った際にアリバイをでっち上げる時間稼ぎくらいは今この話を聞いた茅間伊三路が担うであろうからだ。わかるか、茅間。お前の善意と正義感を利用される可能性があることを」
「おれは暦を信じるよ。祐を否定するわけでもない。どちらの訝む思考も深読みも不信であるとする理由がないからね。でも、きみが慎重な思考をして、先のような言葉を言うかもしれないことを察するくらいはできるであろう暦が今これを三人の場で語る理由に、その"めりっと"とやらはあるのかい?」
紛うことも迷うこともない返事だった。
 まるで手放しで信用できる話でもない。だが、これこそが茅間伊三路が語る"怪異"の一種であるならば?
これは祐にとって一つ明確な言葉の仕掛けであった。そして伊三路は祐に疑念を持たせないために得るべく及第点を上回っていたのだ。
限りなく一◯◯点に近い。
伊三路が暦を信用をしないと手を返せば薄っぺらさを詰り、意味もなく的外れな深読みをすることや周囲の環境ではなく暦自身を問い詰めることがあれば、祐自身はこの目で見た蝕という生物や世界の裏面を認めながらも"怪異"の存在までもは容認はしないつもりであったのである。
結局のところ、不透明な言葉のままに"ともだち"という言葉で結びつけられた利害を断つ機会は先延ばしにされるのだった。
こうして結崎祐は如何にも正しさを指摘したようにして茅間伊三路の言葉に正誤と信用に足るか否かを測っていたのだ。
「深読みにきりはない、か」
祐は肩が僅かに上がるほど深く息を吸い込むと、首を小さく振ってそのまま息を吐いた。
息を吐ききり、身体を落ち着けた祐は暦を見て「過剰に悪い言い方をしたのは謝る。すまなかった」とはっきりした調子で語った。
「茅間が語る"怪異"の可能性を織り込んで語るならばこの現状は分析するにも材料が足りなさすぎる。まるで説明がつかない。常に眠りや意識の低下が付き纏うならばまだこじつけも出来たものだろうがな」
「え? 怪異……? あ、いや。そ、そう、だよね。ううん、気にしないで。結崎くんまで一緒に考えてくれてありがとね。でも、やっぱりわからさすぎるよね。規模のある勘違いかもしれないし……まだ楽観の方がいいのかも、なんて」
祐の言葉に含まれた"怪異"の語句に話を知らない暦はきょとんとした顔を浮かべもしたが、氷のような碧の視線を躱して俯きがちになると唇を噛んだ。
『説明がつかない』その言葉に伊三路は頷いて身を乗り出すと内緒話をするように祐の耳元へ頬を寄せた。そして口元の動きを悟らせないように手のひらで翳りを作り出すのだった。
見た目の幼さから想像するより幾分か低く、落ち着いた声音が手の中で囁いた。「祐、これは探ってみる必要がありそうだよ」
祐は前を向いたまま視線だけで一瞥をくれたきりでいたが、伊三路はごく真剣な表情で小さな頷きを続けていた。
何かと不思議であると疑問を浮かべて並べる伊三路にとって、祐の言う『説明がつかない』は大層に物事を測る物差しとして優秀であったのである。
「俺に実害がなければ誰がどうなろうと構わない」
「えー! どうにも怪しい話じゃない! 暦だっておれのともだちだからさ、どうにかしてあげたい……いや、おれ"が"どうにかしたいのさね。でも、その間に事が起きてしまったら、だれがきみを守るというのさ」
「物理が通るならば全くの庇護対象ではない」
 武道の心得はないが全くの頼りきりになるつもりではない祐はあからさまな不機嫌をして口を一文字に結ぶ。
伊三路といえば気が気ではないようで、ぐっと息を呑んだ後に不安を浮かべて真っ先に口を歪めた。
丸い目尻が下がるといかに心配を浮かべた顔であるかをありありと見せつけられる気分になる。
互いが互いに重苦しい鉛の呼気を唸るように吐いては譲らなかったのだ。
こうしたやり取りの中でぴったり瞼を閉じて考えを巡らせていた伊三路はようやく仕方なしとすでに地層を重ねたようなだんまりを決め込んでいた唇を割って、沈黙を崩した。
少しばかりの笑みは口角を上げるが、目は確信には至らない一抹の不安を抱えている。
賭け事に大金を積むことに似て挑発を並べてはこめかみに浅いばかりの見積もりの予想と緊張の汗を浮かべていたのだ。
「……わかった。じゃあ、交換条件だ。簡単でしょう? おれたちの関係そのものと同じなんだ。放課後のうち、おれの言葉に従ってくれるのならば相応の対価に蝕のことを知っている範囲で教えるよ」
小声のやりとりに暦は唾を呑んで首を傾げている。
言葉を向けられた祐は思わず耳元の伊三路へ顔を向けた。
縮まった距離の分だけの距離を新たに作った彼の明るい髪の色が揺れる。
『これでどう? 自分の生命を狙っているかもしれない輩のことを知らなくていいほどの無関心こそ稀有さね』今にもそう聞こえてきそうなほど鮮やかであり、生き生きとした得意げな顔を視界に入れた祐は己の目頭のあたりがくしゃりとするのを確かに感じていた。まるでアルミホイルの素材が用いる不可逆を意図して乱しているのだ。
心を動かされると表現するほどの振れ幅はないものの、その言葉は正論そのものだ。
そして、蝕にまつわる様々は現時点で他の存在から知り得ることはできない貴重な情報である。
唾を呑む喉元が目に見えて上下するのを見送った伊三路はようやく自身の勝利を確信して肩を碇にする行き場のない緊張を逃すことを許した。外側へ力が逃げていくと椅子の上で一回り小さくなる。
背は自然な湾曲を取り戻し、ゆとりの幅で僅かに低くなった視線から惑う瞳の色を眺めるのだ。
「……協力はしないからな」
 悔しさの多く滲む声だ。
反対に椅子から立ち上がる勢いで顔を明るくした伊三路は素直に安堵して破顔した。
まるで駆け引きに敗北したような悔しさや、己の不本意が強いられる様を祐は理不尽に思った。
そして、その不本意という感情をさらに細かくした感情の中には己が言い負かされたのは思考において劣る部分が存在するからだと考えたのだった。
仮にどれだけ高度な駆け引きをしたとて、主題はそこではないのだ。
茅間伊三路が茅間伊三路にしか使えない貴重なカードを早々に切ったのだとしても不服は油を行き渡らせた胸に火の着いたマッチを落とすことそのものであったのである。
負けず嫌いというほど可愛らしくもない結果を崇高とする主義において、評価の最終にして最も重要な場所で劣ると自覚する思考の概念が真綿となって首を絞めていたのだった。
「うん、うん。見ているだけでいいのさ。きみが関係ないのだというならば、きみにとってはそうなのだから。さて、暦! この件はおれが解決……するとは断言できないけれども、きっと良いところへ向かえるように注意して、工夫の案を出すようにしてみるよ!」
「えっ! ほ、ほんと? 君にそう言われたらなんだか安心だよ! ありがとう、伊三路くん、結崎くん……!」
 瞳を潤ませては教室に燦然と存在する色彩を細かに浮かべた暦は心から喜んで立ち上がると伊三路の手を両手でとった。上下に揺らしてはようやく解いた緊張の上で控えめに歯を見せて笑っている。
それを遠くの日向として眺めていた祐に先の伊三路の言葉が過ぎる。
 蝕が好むのは噂の集まる人間や陰鬱を育てる人間の悪意を持ち寄る精神であるといった趣旨の言葉だ。
目に見える日野春暦という人間の表面だけで考えた際に、彼の場合は蝕と偶然に波長があっただけであると祐は考えていた。
しかし伊三路の手を大事に包んだまま上下に揺らし安堵と喜びを浮かべる姿に窓枠によって生まれる細い影が伸びて被さると、日野春暦という存在自体がどこか翳りのあるもののように思えるのだ。
 人間は極めて複雑な多面体の思考構造を持つ。
故に彼を狡猾な臆病者というのも、損得のうちでも人の好さから厚意と考えられるというのも瑣末な言葉の違いに過ぎないのだった。
どこからか刺さる薄暗闇の視線に怖気がする。
 区切りをつけるように昼休みの終わりを告げる予鈴が流れると、机に放り出されていた食品の数々を手早く三等分にした暦が登場の際と同じくして慌ただしく自身の席へ帰っていく。
何度も何度も振り返りながら頭を下げて、ようやく席へ着く頃合いには本鈴が鳴っている最中であったのだった。
「じゃあ、祐。放課後は少しおれに付き合ってくれる? きみの言葉は難しいけれども、おれの判断に裏付けを強くする言葉をくれたらとても助かるからさ。おれはこの生活とおれの感性にまだ合致を見出せていないんだ」
 斜め前の席に座っていた伊三路は祐を振り返ると丸い目を幾分か細くして、光を鋭く瞳に乗せていた。
話の途中でおどける程度に場を保つことに努めど、秀でているのはそれだけではない。
否、そういったように場を和ませようとする気遣いが出来るからこそ交流に長けているのやも知れぬが――とにかく振れ幅のある言動の一様をただの悪ふざけではないようであることはそろそろ確信として接するべきだと己を律した祐は机から次の授業で使用する教材らと極めてシンプルなペンケースを引っ張り出すのだった。



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