三人だけが騒がしさから切り離された教室で重苦しい沈黙を守る様子は暮れなずむ空を見ているようだった。
暦が己の中に落としどころをつけることができないまま、未練がましく暮れる地平線の赤らを眺めているようであるのは明白である。
強いていうならば、伊三路と祐はその暦を見ていたのだ。
弥彦伸司が暦にひどく当たる様を目の当たりにしている伊三路は、あまりに気分の良くない光景を思い出していたのか眉根を寄せていた。
煙のような嫌悪が渦巻いて、胸が重苦しくなる。そして少しばかりはその複雑を理解することは出来るせいで跳ね退けることもままならないのだ。
それらを己の中でどう納得させるかを生きることの一つと考える伊三路にとって共感は出来ないものの、何か思うことがあってそうせざるを得ないと態度に苦しむ人間をそれなりに見てきたからだった。
複雑だ。態度で当たってしまうこと、当たられることのどちらの複雑をも理解出来ない感情ではない。
だが、暦の思い詰めた表情の『友達』や『幼馴染』という言葉を聞くと、自分から聞いたにも関わらず返す言葉を失って唇を半開きにしてしまっている。
「とも、だち……きょうだい……」そう呟く伊三路までもが右肩下がりの思考に引っ張られかけていた。
いつもきゃあきゃあと女子生徒のように明るく会話に花を咲かせるふたりが急に大人しくなって背を丸める姿を見て、辛うじてその場にいるような祐は辟易した。
居心地が悪いと表現するよりは、まさに辟易だ。うんざりであった。
何も返してやる言葉なく、そして理解することも必要もない話だからだ。途方もないやりとりと理解度の相違に疲労するばかりになる未来が見えているのだ。
どちらも自身には縁遠いものであると感じていたし、追い払うにもあまりに重い空気ではクッションとなる言葉を必要としていた。そしてそれを手繰り寄せる元気も気力も祐にはなかったのである。
元より興味のある話題でもないが、ただでさえ不本意な会話の内容で、しかも空気をうんと悪くされたものではまるで言葉を促されるようなのだ。
誰もが誰かの言葉を待っている。そしてそれはこの話題に何も感じることのない祐が適任に思われていた。
圧を祐自身が感じ取りながらも、特にかけたい言葉もなければかけてやれる言葉もない。故に、だからこそまるで責められているように感じる。
慰めてほしいのか、共感が欲しいのか。どちらも己には出来ないし、するつもりもないことである。意味を感じられない。
会話に参加しているわけでもないというのに目の前でこんな胸糞の悪い寸劇のようなものを繰り広げられて面倒くさい。
沈黙が長くなるにつれて、正直なところでそれに近い感情を覚えていた。
 どうみても暗い声色で『ははは』といういかにも無理に笑っているような声を上げてごまかしていた暦が思い出したようにはっとすることで停滞していた空気は流れ出した。
この瞬間に暦が我に返らなければ、そろそろ伊三路にカビかキノコか、とにかく湿った場所を好みそうな様々が生えてきそうなところであったと考えられる。
暦自身もジメジメとしだした伊三路が自身のそういった昔話に刺激されて彼に渦を巻く思考をさせていることを自覚して焦ったのだ。
珍しいことに、伊三路は茅間伊三路として内側にも外側にも思うことがあるようで塩をかけられたかのように小さくなっているのである。
その中で発した声は暦がわざわざ大袈裟に明るさを作ったようなものでも、結果として言葉は後に続くべくを促すとして空気の流れを変えたのだ。
この一角が窓際の席であることも功を奏して淀んだ空気を押し出すにも最適だった。視覚としても、窓へ視線を向ければ幾分か重苦しい空気は逃げていくように思えるものである。
「や、や、まって、伊三路くん! もしかしたら君が思うほど深刻じゃないかもしれないよ。この町は狭いんだもん。同世代なんかみーんな幼馴染みたいなもので、いくつかの塊で分けられるでしょ? 幼少期、他の人たちのおうちと少しだけ離れていたんだ、僕の家。一番近くの同級生が弥彦くんだったの」
 ヨーグルト飲料の紙パックを持っていない方の手をぶんぶんと否定の意で揺らしながら暦は続ける。
「うちは特に厳しいわけでもないんだけど、僕は生まれ持ってなんだかあまりにも大人しかったみたいで、なかなか友達ができなかったんだ。学校では弥彦くんが見かねて僕をよく仲間にいれてくれた。と言っても僕の家がみんなと離れてるってことは彼もそう。だから僕たち、遊ぶときはもっぱらふたりきりだった」
最初こそは伊三路の思っているであろうことや自分の過去の話に触発されて落ち込んでいるようにも見えることを彼が想像するよりも深刻ではないと伝えるために口早に捲し立てていた暦であるが、言葉を続けるうちに気分が良くなってきたのか目尻を下げていた。
下の瞼を膨らませては遠くを見るような、懐かしむような優しい顔をしている。激しく身振りをしていた片手はすっかり大人しくなって、紙パックを持つもう一方の手の甲を優しく撫でた。
長めの前髪が濡れた茶褐色に覆いかぶさって、赤茶けた色味が強くなる。視界の遠くにぼんやりとした明りがともることに似た温度で昔を思い出しているようだった。
暖かな午後の微睡に瞼を閉じる動作に極めてよく似た様相で語る。換気のために細く開けた窓から囁く風が心地よいことを今更に知るのだ。
囁きに触れた前髪が額を撫でる。透明な手は思考をよく誘っていた。
暦は遠く向こうに、身体の半分ほどをランドセルに乗っ取られていたような幼少期の頃の――小さな後ろ姿をふたつばかり思い描いていた。
「はは、懐かしいなあ。よく弥彦くんちで対戦ゲームをしてさ、彼は自分のゲームなのになんでか僕に勝てなくてよく怒ってたよ。それであまりに再戦を申し込んできて、結局弥彦くんちで夜ご飯をごちそうになってさ……。僕の家はせいぜいかくれんぼくらいしか楽しくないから彼の家で漫画を読みながらグダグダしてたっけ。僕は怖かったけど一緒に近所の大きな雑種犬を冷やかしに行ったり、バスに乗って駄菓子屋に行ったりした日なんて大冒険だよ。これは楽しかったかな。六枚の一〇〇円玉を大事に握ってったけど、今思えば町民バスでも往復で二〇〇円くらいはしてたよねえ」
赤茶けた古紙のような情景らしい通学路を歩いている。きっとよく印象に残る夕暮れの放課後だ。
その数えきれないほど重ねた帰路のうちの一つである。どれかを暦は思い出している。
今も毎日通学時に通っている景色を当時の目線で追体験をすると、なんだか遠い昔に思えるのだ。低い視線と今現在の自分のものより小さな歩幅をその視点で辿っている。
先にあるのはいつも帰り道に分かれたブロック塀の角だ。
自分が分かれ道から二軒先の犬が怖がるものだから、弥彦くんは別れ際にわざとふざけたことをして笑わせてきたり、二軒先分だけ奥まった場所で別れたりすることもあったのだったっけ。
思い出すと鼻の奥がむずむずとして、あくびが出そうなときに似た切なさがあった。少しの寂しさを引きずって今はここにいる。
なんだかんだでクラスのうちでもそれなりに小さい方であった身長も、平均にやや、本当に僅か足りずというくらいまで伸びた。伸びたんだなあ、と思うと同時に足跡を愛しくも思うのだ。
あれもこれもと思い出す昔話は飛び飛びに話題を変えたが、当時に遊んだゲーム機本体の付属コントローラーくらいの大きさを『これくらいの』と、言葉をなくしてもそう思い出しながら暦はやわく丸めた手を上下に動かした。
楽しげに語る声音に対して、伊三路は長いこと外には出られなかったと語るだけあって上手いこと整合性のある想像が出来ないようであったし、この土地に住んで浅い祐にとっては田舎のそういうところがパッと思い浮かばなかった。
共感性の薄さが沈黙とは異なって妙な空気を滲ませ始めているのだ。
「今の町民バスは片道の最大料金が一五〇円だけれど、代わりに町内のどこまででも一律その金額っていうのは地味にありがたいよねえ。結崎くんは正当な税金の還元って言いそうだけどさ……」
感慨深く語尾を間延びさせては話題を横道に逸れる暦は、ひとりきりで何度も頷きをしながら言葉を続ける。
「今思えば"だから"六〇〇円だったんだね、母さんたちがくれたのは。あの頃の僕たちは覚えたばかりの算数に賢さを競って生意気になっていたころだから、バスの中では五〇〇円のほうがきりが良いって言い合ったし、どことなく五〇〇円玉硬貨に憧れがあった。今じゃあ、ありふれた金額だし、レアでもない硬貨ぽっちになっちゃったけど」
「へえ。そんな過去があったんだあ。おれにはあまり想像のつかない事柄もあったけれども、これを語る暦の顔を見ればどれだけ素敵なことだったのかはわかるよ。率直な感想を言うと弥彦伸司にまつわる逸話としては少し、いや、だいぶん意外だと思ったけれども」
 言葉に区切りのついた暦はストローでヨーグルト飲料を啜った。中身の減ったせいかズズ、と音を立てると行儀が悪かったかもしれないと恥じては吸い上げる力を弱くした。
伊三路は自分で購入してきた烏龍茶のボトルを煽る。
互いに顔を見合わせると控えめに笑いあうのだった。
「ごめんごめん、少し逸れちゃったよね。でも、そう思うでしょ? 弥彦くんは面倒見がよかったんだよ。とにかくどんくさい僕のことを引っ張っていってくれて、夏と冬の休み前におどうぐばことか図工の作品とか、体育着を持って帰るときはいつも半分持ってくれてたんだよね。自分のものも重いのにさ。僕の身体が小さかったから、お兄ちゃん気取りだったのかもね」
教室の隅で小さく笑い合う内緒話をするような暦に窓枠の影が被さる。
自身の口の端に小さく破れた海苔片の付いていることに気がついて口元をよく撫でている伊三路をよそに、暦はずっと小さい声で続けて呟いていた。
「だからね、僕はいつも自分がこの上なくズルい奴だなって思うんだよ。勝手に捨てられたみたいになって被害者ぶった顔してる。いじけてるんだ。でも、よく考えたら当然だよね。だって高校生だよ? 人付合いも変わってくるよね。だけど僕は……いや、ううん。なんでもない」
言葉の幽かから様々を察することは出来ずとも何かを話している暦をみて伊三路は顔ごと首の根から傾けていた。
この区画はまるで静かなように感じていたが仕切りもなく、また、声の大きい生徒たちのはしゃぐ声がよく刺さっている。
ざわつく教室は極めて普段通りであり、その圧倒的な言葉の波に揉まれてしまっていた。暦の弱々しい言葉尻はついぞ伊三路が寄せる耳に届くことはなかったのだ。
「ごめん、今のはあんまり気にしないで」何もなかったことを装いきれずとも打ち切って言い直されるものならば、ここには呟きを聞いた気になって首を傾げる男がいるばかりだった。
下手くそなはぐらかしを誰も気には止めることはなかった。正確には出来なかった。踏み込むほど知りもしないが、無理に聞き出す必要もないことをよく理解しているつもりでいるのだ。
「きみがそう言うならば詮索はしないよ。とにかく、暦と弥彦伸司が仲良しだったのはよく知られたさね。じゃあさ、今の彼のことはどう思う? もちろん、話したくなかったらこの話はもうやめよう」
「ううん、ここまで話したんだもの。僕は……今の弥彦くんは、昔とは違うような気がしてる」
 如何にもいい話のようにでっちあげられたものだ。
過去を過剰に賛美して認知を歪めることに対して祐は良い気をしなかった。
"日野春暦の良き理解者であり引っ張り出してくれるような面倒見のある弥彦くん"と現在の荒んだ素行ばかりをする弥彦伸司を等号として現すことはできないし、その"弥彦くん"のおかげで弥彦伸司の評価が上がるわけでもない。
純粋な嫌悪だ。つう、と冷たい指先が皮膚の上から血管を圧迫するような気持ちの悪さを覚える。
表皮は温度を奪われるばかりであるのに、圧のかかる肉と血の流れる管が狭まる感覚が摩擦のように熱を宿して、冷たさと熱を同じくして身体に偏在させた。
いい話として記憶を騙されて過ぎた昇華をする感覚にゾッとする。
まるで己が感覚を疑るような賛美が、いつか負の感情の全てを否定して素晴らしいものとして存在することを当然のように思う日が来るのだろうか。
懐かしむような記憶もないだけに暗い方向へばかり手を引かれる思考に、肌が粟立つのだ。
それらから逃れたがった祐は椅子の上で身動ぎ、座面に預けた重心の位置を正した。
「過去の記憶を賛美して昇華するほど認知は歪められる。脳は都合よく記憶に過ぎた改竄を施す。日野春暦にとって美しい過去が語られることで現在の弥彦伸司の評価が変わるのか? 格差が大きければ大きいほど認知はポジティブに歪められるだけだろう」
「ええ? 手厳しいね。おれはあまり横文字は得意ではないのだけれども、祐はまた難しい話をしているの? ちょびっとばかり厳しい話をしていることはわかるよ」
心の内を悟られることはないような淡々とした口調であえてそれを口にしたのは言葉の意味に正しさの側面があるからなのだ。
暦自身がそれを是するのを本当によいのかと問いかける意もあった。
弥彦と暦の関係に介入する気はさらさらにないが、強いて不快か不快ではないかを語れば不快である。だからこそ見誤る様を見せつけられることだけは目の当たりにしたくはないと祐は考えていたのだ。
そのことを知る由もない伊三路は祐の冷たいようにだけ聞こえる言葉にぶすくれた反応をした。
「事実を述べたまでだ。ここでそういった美化を支持する人間しかいないが故に教室ので"あれ"が日常になるのだろう。はっきり言う。正しい認知をするならばあれはいじめに同義だ」
暦に辛くあたる弥彦の様を直接的には表現せず、"あれ"と称した祐に対して、思考が繋がっているのか繋がっていないのか判断のつかない声色で伊三路は「うーん……」と唸った。
「まあ、昔はよかっただとか、昔よりはいいだとか都合の良いように誤魔化していく様はたしかに健全ではないのかも……? どうかな、美化する事柄を取捨選択できればきみの憂いも減るのかなあ? 記憶は己に都合よく改ざんもされるし、薄れてゆくばかりではあるからこそ、まやかしに過ぎないというのかもしれないけれどもね。過度に厳しく己を律する必要もあるまいさ、とおれは考えるよ」
思考に耽る二人を交互に見やる暦の視線は何度も往来をした。そしてその視線がどちからとかちあうこともなかったのである。
手のひらを下へ向けては『どうどう』と動物を宥めるようにして笑ってみせた。
「まあまあ。話は少し戻るけど結崎くんの言う美化と評価の話は例えば、弥彦くんみたいに素行が悪くてそっけないひとが捨て猫に傘を差し出したら意外と優しくていいひとなんだねって言われるのと同じだよ、伊三路くん。じゃあ元から善人はやさしくないのか? とか、それらを比べて優しさに評価を付けたりとかは確かにおかしい話なんだよ。普通に考えてもね。僕は気にしてないし、結崎くんの言うことも正しいし。そもそも結崎くんと弥彦くんは嫌いあっているから何も言えないよ」
ちくちくとする二人の間に割り入った暦は祐を庇って言葉を続ける。
「う、うーん……こればっかりは一〇割ぜんぶ弥彦くんが悪いんだけどね……」そう言われた伊三路は、椅子から立ち上がって弁解する暦を自然と上目遣いで見るようにした。
ふっくらと幼さを感じさせる頬は未だにうっすらとした不満を浮かべており、祐を庇って弁解する様を訝しんで見ていたのだ。
当の祐といえばこのあたりの話はしたくもないようでついぞそっぽを向いたとも思える動作で視線から伊三路や暦の姿を逃した。
「……そうなの?」
「あ、えっと、うーん、やめろとも言われてないから説明するよ。結崎くんはこの町出身じゃなくてね。中途半端に辺鄙と言える田舎だからみんな県庁寄りの賑わってる場所へ進学したがるんだけど、彼はこの町の、特に進学率があるわけでもなければスポーツの強豪校でもないうちをわざわざ選んだって話題だった」
風の囁きがあまりに前髪を揺らすもので暦は細く開いていた窓をそっと閉めた。
暦がこれから話すであろうちょうど一年ほど前の出来事は、事細かに思い出せば苛立ちもして進んで話したいと思える内容ではないが既に今の祐にとってはどうでもよいことだった。
何故ならば、確かな苛立ちをどれだけ覚えようが今後どれだけの時間が流れても弥彦伸司との関係は変わるとは思えず、そして変えたいとも思わなかったからだ。
いうならば、まさに高校生活を終えれば一切の関わりもなく、二、三年後には確実に忘れ去るような存在であると早々に互いが悟ったからである。
祐はそれに沈黙することを選んで、弥彦は苛立つことに口を閉ざせはしないために暴言に変えることを選んだだけなのだ。
こればかりは個という秤に左右のされるもので、大人だとか子供だとかいうものではない。二人は二人なりに自分のストレスだけを失くす最善策を選んだのである。
 残り二年にやや満たない時間に対して本当に伊三路が日常の傍に付きまとうのであれば聞かせておくに越したことはない。
顔を合わせれば突っかかってくる弥彦伸司はこの二学年では同じクラスであるし、その度に伊三路に「ふたりはなんでそんなに仲が悪そうなの?」と聞かれたものならば脆弱な胃についぞ穴が空いてしまいそうだと祐は考えていた。故に、暦が主観を交えて好き勝手に話すのを咎めることはなしなかったのだ。
「正直な話、学力と倍率のあれこれでこちらにしか進学が出来なかった……とかいうのも、うん、たまーにあるけど、結崎くんは新入生代表挨拶を読む予定だったみたいだから『頭がいいのにどうして?』ってあれこれをいろんな人が好き勝手考えたり、一部の先生たちもが気になってみて話題になったりとにかく噂になっていたんだよね」
暦は一度いき継ぎのために言葉を区切ると、横目で祐を見た。
そして沈黙を守る様子と、自身の背に睨めつける視線がない事を確認すると伊三路への説明を続けるのだった。
「なんだけど、きたる入学式の日、結崎くんはおうちの都合らしいという事情で式に参加できなかったんだ。慌ただしい式だったから、本当に予定外だったと思うよ。それから三日四日後くらいが初登校で、謎の新入生への期待感が高まってた。しかも周りより大人びていて余計に話題になったよ。かっこいい雰囲気だーって女の子たちからの人気がすごくてね。弥彦くんは既にやんちゃだったから姿かたちを見る前から結崎くんを仲間にしたかったみたい」
 あまり思い出したくはない記憶たちだ。そう思いながら祐は一年前の春を思い出す。
一人になりたかった祐が屋上へ赴いたときのことだ。いつもならば施錠されていた鍵が明らかに開いていたのだ。
普段であれば、ひとりになりたいときは教室を出て空きはしない屋上の扉と屋上脇の備品質の間の踊り場に似たスペースで静かに本を読んだり、軽く食事をしていたのである。
扉自体が古そうなものではあると思っていたがついに突破されたのかとある種の関心をした祐は扉に耳を近づけて、向こう側の気配を探っていたのだ。
そして初夏を前にしてはやや強い風の音だけを幾つか聞いてから誰もいないことを確認するとそっと扉を開けた。屋上には遮蔽物が少ないが、校庭から貯水タンクがこれ見よがしに見えるために少しくらい隠れる場所はあるだろうと思っていたのだ。
少なくとも鍵を開けたのが生徒であろうが誰であろうが、素行の悪い生徒たちを別に恐ろしいものと思わない祐は、結局のところで生徒側が敷地の所有を声高く主張することは出来ないのだから問題はないだろうと甘く見ていたのである。
つまり、仮に秘密基地だと喜んだところに他人が居て怒ることに正当性はないし、暴力が働かれれば排斥されるのは加害者であるだけだった。どれだけだと考えている。
 この学校は田舎に位置しており生徒数も多くはないが、元より外界との交流が盛んではないのか元よりやや小さめに作られた学校であった。
教室数を絞りながらも部室棟があるなど、バブル経済の恩恵をどこか感じるも健全に学校として文武両道の促進を図り、また十二分にそれらを発揮できるようよく配慮のされた近代的な学校建築だ。もちろん、床は木材製ではない。定期的なメンテナンスこそ必要とすれど長期的な運用を見据えつつ温かみを思わせる木目を模したきちんとした床材だ。
とにかく、元より生徒数が極端には多くなく、今後もある程度減るであろうと想定されたコンパクトな校舎は静かな場所というものが己の想像するよりも少なかったのだ。
見知らぬ土地の空気を吸いながらの集団生活から解放される昼休みを如何にしてより静かに過ごすのか、というものが当時の祐にとっての安息だったのである。
だからこそ、無意識にフェンス側へと引き寄せられては屋上からより小さくなったように見える町を見下ろして呼吸を風のリズムへ合わせているうちに、別の生徒が近づいていることに気が付かなかったのだ。
「見ろよ、ついにボロの扉を壊してやったんだ」
「ええ、伸……弥彦くん、さすがにそれはマズくない……? 先生に怒られちゃうよ。事なかれ主義とはいえ退学になったら……」
階段を上がる音がする。
乱雑な足音に絡まってバタつく足が焦っており、どんどん足音の奏でる旋律は乱れていた。
「はァ? うるせーな。進学したら高校デビューでもしてちったあ変わるかなと思ってた俺が馬鹿だったんかな。やっぱオメーつまんないわ。ま、ノコノコついて来たんだから連帯責任だろ? 怒られた時は俺の反省文頼むわ。根暗クン」
「そ、そんなあ!」
 ボロの扉と呼ばれた重い金属製の扉が軋むような音を立てる。
ギシギシとした音を立て、扉自体を重たくする錆から酸化した鉄の粉が今に落ちては少しずつ開かれる音に対して確かに心臓は跳ねたように鼓動を大きくした。
その驚きで一瞬だけ胸が痛むほどの緊張を覚えるものの、祐は既に隠れている方が後々絡まれるだろうと思ってはフェンス越しに景色を眺めることを辞めないでいた。
余りに重苦しくて馴れ合いばかりの空気に中てられていたこともあって会話をしたくもなかったが、何かとすぐに動くことがつらかったこともある。
とにもかくにも、こうして錆の浮いたボロ扉は開けられたのである。
 足元の学年カラーを見るまでは同い年とは思えないほど派手な見た目をした男子生徒の、黒く小さな瞳と視線がかち合う瞬間を思い出して――記憶を辿っていた祐は苦虫を嚙み潰したように嫌悪を露わにした。
「なんとなく察したかもしれないけどね、まあ、彼らの性格ですから一悶着あったわけです……。弥彦くんもなかなか複雑な事情があったんだけれども、いやこれは結崎くんには関係ない複雑だったけど、結局さいごにはほとんど一方的だけど言い合いみたいになって、その、全然関係ない彼のことを弥彦くんは叩いちゃったの」
 祐の中でふと弥彦とその周囲の人間像が思い出される。染髪故の派手な髪色をクラスの中でも特に目立たせており中途半端に悪ぶっている。それを恰好良いものだと考えているグループだ。
学生故の悪いノリであるとしか思えなかったが、好意的な表現をすればまさに刹那であるこの瞬間を自分たちの良いように楽しもうという考え方の人間の集まりだ。
しかし同時に、それらを祐が嫌悪するということを想像するのは1+1の答えを捻りない問題として答えさせるくらいには容易なことであった。
思想を同じくする者が集まった結果、気持ちが大きくなって周囲にやたらとかみついては見下すような嫌な集団になるという悪ノリの体現をするようであった彼らを祐は好まなかったが、当然ながら相手側もまた、祐のような息苦しほど堅い人間とは相容れなかったのである。
相手側からは融通の利かない委員長タイプと揶揄され、なにかと嫌な顔をし合っている。
その対立を本質としておかず、ただ騒がしいからという理由で嫌な顔をしていたのだが、クラスメイト達には犬猿の仲だと思われているらしかった。
事実上の確執など何一つ存在しない。一方的に睨みつけられることに対して、嫌なものは嫌であるという意思表示をしているだけなのだ。そもそもぶつけ合う意見もないのだから。
暦の言葉を肯定も否定もせず、窓の外を眺めている祐はそう考えて目を細くしていた。
その横顔を困り顔半分の愛想笑いで眺める暦にとってもあまりいい思い出ではないらしく苦い顔をしている。
視線の交わらない二人の間で会話が薄くなり、やがて切れていた。
「で、結崎くんは結崎くんで叩かれてすぐ『力で制したつもりになって、これで満足か?』って言ったものだから……幸い大きな騒ぎにはならなかったし、結崎くんもいくらか口添えしてくれたから僕たちは無事にここで生徒をしてる。それ以来は因縁めいててさ。僕、そこにいたけど何も出来なかったの未だに申し訳ないと思ってるよ。しかも、奇妙な縁なのか今年もクラスが一緒、だし」
 すい、と泳いだ暦の視線は逃げていくと同時に肩を縮こまらせる。
祐に厳しいことを言われるだろうと身構えているのだ。その追い詰められた小動物よろしく身を守る様がさ祐にはなんだか馬鹿らしく思えた。
事実を述べたまでで何をそこまで怯える必要があるのだと思うだ。しかし、暦の発言に対して反発じみた感情があるのも事実である。
何かを思うことにプライドの高さが必ずしも必要だとは祐自身が己に思うことはない。しかしそれがさも確執の原因であるかのように語られることには正さねば気が済まないのだ。
幼稚であると十分に理解をしてその二つをそれぞれ天秤にかけるのならば、弥彦伸司と対立する己よりも、己の根本たる意思を通す幼稚さを尊重するほうが余程に重要性が高かったのである。
「ふん」と鼻を鳴らしてから祐は顎を引いて呆れる。
角度がついて瞳の色が引いていくと欠けた月のような鋭さが顔の表情を冷たくするのだった。そして視線を暦とは別の方向へ逃すばかりでいた。
「早々に目立ちたくはなかっただけだ。……加えて手段を問わず力でねじ伏せるのが罷り通ると思っているならば、それこそ言葉を交わす意味がない。因縁ではなく、意思疎通のできない相手には等しく用はない。それだけだ」
「……だそうです。事実、結崎くんはそうやってクラスではひとりでいるけれど話せばきちんと受け応えてしてくれるからさ、僕は今年こそ少しくらいは話が出来たらなと思ったんだ」
暦の言葉に切り返す祐は既に嫌悪を露わにしきって、眉間には深々としわを寄せていた。
先に話したような『意外と悪くない人』というギャップの大きさから錯覚で善人と思わせたいようなレッテルを好ましくないと思っていたのだ。
「俺には話をしたい用事はない」その言葉に手を弾かれたようになった暦は身を微か引いて身体を伊三路の側に逸らすと怯えたように肩を竦めた。
「あはは……そういうとこ、嫌いじゃないよ。結崎くんほどはっきりは物を言う必要はないかもしれないけど、僕はいつも歯切れが悪いから一種の憧れなんだあ」
勧められれば勧められただけ底なしの食欲でおにぎり頬張っていた伊三路はちょっこりとしたおにぎりを片手にその様を見ていた。
意外なところで関係の深い二人であることと暦が祐と話をしてみたいと言っていた理由を察した伊三路は目を丸くしていたが、自身の知り得ない事柄に具体的な感情を持ち込むことができず、「ふうん」という曖昧な言葉で済むような返事をしているのだ。
そして握られた白米をかじり取る。ゆっくり咀嚼をして飲み込むのだった。
「なるほど。祐は大抵の人間と関わることに興味を示さないから弥彦伸司に限ったことではないけれども、つまり、特に話をしたくはない人間の中でもいうところの"三角形の上のほう"というわけだね」
「うん、うん。大体そんな感じのように見えるよ、僕たちからは」
「ね、結崎くん」ふふ、と笑みを零しながらそう続いた言葉に返答はなく、また伊三路のはっきりすぎる物言いも祐を怒らせてしまったのかもしれないと深読みをして暦は背に冷たい汗が這い出すのを感じるのだった。



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