「座りたまえよ。もう怯える必要はない。ごらん。ここに在るのはこんなにもありふれた生活だと思わないかい」
 ドアの前に立った視点からは左手側にダイニングテーブル、右手側にくつろぐためのソファとミニテーブルがある。屋敷と民家の間、どちらかといえば屋敷といった方が近いように思える造りの家であるが、このリビングルームは極めて現代の暮らし様式に近い。
極めて親しみがあり、古い木が放つ乾いた匂いや思考を侵す熟れた匂いの及ばない場所は息をしているだけでやつれてしまいそうなこの身体に安息をもたらしている。
座面に洒落た布地を使いながらもシンプルな枠組みのソファや、他の部屋の家具より控えめな装飾をされたキャビネット。キャビネットの他にも簡単な収納家具を寄せた壁面に取り付けられた飾り棚。その上に飾られた絵皿の金色のふちがチカリと光る。柱時計が悠々と振り子を左右に揺らしていた。
カーテンタッセルに下がるクリスタルカットのガラスが、経年による木材の痩せは否めないが艶のあるフローリングにカットの調子に反射した多くの光を落としている。
國枝の言う通り、この部屋だけが切り取られたように時間が進んでいる。ここは、生活には香りがする。
この家の生活拠点である故に、一等日あたりが良い角度で大きな窓を設けていることも手伝って、色葉を追いかけていた不安の影は光にすっかり焼き殺されていた。
 微笑みと頷きを返したのちにキッチンへ戻った國枝はカップに牛乳を入れ、一杯分の半量をはかるとミルクパンへ注ぐ。
そして同量というにはごく僅かに満たない量の水を同じく注ぐとスイッチを押した。
クッキングヒーターが微かではあるが盤面が震えるような低い唸り声をあげて起動する。
黒い盤面が熱を帯び、ミルクパンが温まる間にティーカップに予め沸かしておいた熱い湯を入れる。一分半ほどでカップがぼんやりと温まると湯はシンクへ投げ捨てられた。
その手の流れのままに國枝は二つ分のティーバッグを静かに裂いて中の茶葉を掻きだすとカップの底へ敷く。そして金色のメッキが施されたスプーンでよく均等にしてから茶葉の浸る程度の湯を入れ直した。
浸る程度の湯のなかで、かつて身をかたくしていた茶葉がゆるりと開き始める。
茶葉が時間をかけて十分に水を吸い、ぐずぐずになって香を振りまく様子を彼は待ち、顔を俯けることなく視線だけで黙って見下ろしている。
その様子に気付くこともなく色葉は首をひねってくるりとリビングルームを見渡していた。そして今の自分には何もすることがないと自覚すると静かに椅子を引き、席に着く。
目の前に広がる白い皿たちを一瞥してから、キッチンをオープンにしたカウンター越しで國枝の様子を窺った。
その視線をものともせず、國枝はすっかり温まって熱を伝導し続けるパンを眺めている。
牛乳と水が混ざり合った溶液がパンの中でくつくつと煮えていた。
水面が微かに盛り上がり、細かな泡が忙しなく浮かんでは消えていく。水面へ昇華する動きが絶えることのない水流を形成しかけているのだ。
しかし水流としての同線が完成される沸騰直前になるとスイッチ一つで火は止められる。カップの中で待機させられていた、緊張をほどかれ柔らかくなった茶葉を熱を失いかけている湯ごと流し込んだ。
茶葉を開くための湯のうちでもよく煮出されていた木の幹の色がうっそりとしたミルクに混ざっていく。そしてよく防湿のされた筒状の缶から備え付けのミニトングで角砂糖を二つ掴むと放り込み、サッとホーロー風のなべ蓋をかぶせた。
 歩幅にして二歩分を後ずさり、身動ぎをしながら國枝はスラックスから真鍮の色をした懐中時計を取り出す。
スラックスのベルト通しにひっかけ、尻ポケットにしまっておくに良い程度の長さで揺れるチェーンを煩わしそうに手の甲側へ垂らした。
シンク後ろの収納棚に寄り掛かりながら手の中の盤面に視線を落としている。刻む時間を退屈そうに眺め、そしてぼんやりと口を開いた。
「二倍の茶葉で濃く、且つ多めに煮出したアッサム……最近の君はベルガモットの風味づけにリラックス効果を期待してかアールグレイを好んでいたがね。低温殺菌乳と水を一対一で割った溶液。つまり紅茶対水割りのミルクが二対一。グラニュー糖約八グラム。数にして角砂糖二個分だ。甘味料による味付けは体調にもよるようだが、食事の際に君が好む比率のベーシックだ」
ゆっくりとした調子で言葉を紡いでいるうちに気分がよくなってきたのか俯きがちな角度のままで得意げに目を閉じた國枝は鼻から深く息を吐いた。
間延びするほどたっぷりと間をとってから懐中時計の蓋――ハンターケースの中腹に這っていた薬指を折り込むように時計を閉じた。預けていた身体を起こすとパンの蓋を取り去る。
片手で鍋をそっと持ち上げ、水分をたっぷりと吸い込んだ茶葉が入り込まないようにスプーンを宛がいながら丁寧にミルクティーをカップへ注いだ。
「先に断っておくが今日のミルクは低温殺菌乳ではない。曰く、冷めてからも美味いのはそれらしいがね。少なくとも今の君は、冷めるまでこれを忘れるシチュエーションにないだろう? だから快く許してくれるように頼むよ」
 コミカルに語尾を上げて見せた國枝は悪びれた様子もない。コミュニケーションの一つだ。
現に、少なくとも今の色葉には想像できないものと化した味であるために静かに頷くことしか許されていない。
彼の態度が一つ気にかかるとするなれば、國枝が己の好きらしい比率を十分に知っていることだ。
その後の言葉からしても、自分は彼に淹れさせたミルクティーを日常的に放置していたのではないだろうか。そう思うとぞっとした。
ぞっとするというのは適切であるのか判断がつかないが、とにかく背が冷えて、また黒い目が背中に突き刺さっている。この空間は誂えられたもので、少し裂けば何もない暗い色だけが広がっているのではないかと想像してしまう。知りたくはないことなのだろうか。
思考を引っ張られかけたところで、ふわりと香る長い時間を思わせる紅茶の香気とベルガモットの風味に由来する華やかさが一層濃くなり、この部屋を漂い始める。
火を止めたミルクパンの中でなお抽出されていた香り高さが蓋の取り去られたことで一層強くなっていたのだ。
ダイニングテーブルの椅子で思わずしゃんとした姿勢でいた色葉の前にソーサーに乗せたカップを静かに置いた後に國枝はキッチンへ戻り、自身のために淹れたらしい紅茶のカップと小皿を手にして戻ってきた。
「つまむ程度のようなものですまないね。それとも、塩味の強いものにはストレートティーのほうが良かったかい?」
「いえ、構いません。いただきます」
「ああ。近々、きちんとした食糧を調達しよう」
 白い皿にはクラッカーが並んでいる。生ハムやオイルサーディン。ナッツ。チーズ。風味付けに適したオリーブのオイル漬け。
食材の他にはオイルと塩、胡椒で味付けされたようなものだ。
つまむ程度というにも、同じ響きに趣旨は逸れるが本当に"酒のつまみ"ばかりのようなものだ。
具材は組み合わせの変化でタネの種類を増やしたものが並んでいる。
一見塩味ばかり強そうであるが、アクセントにドライフルーツが乗せられていたり、ジャムが添えたりされたものもある。
一層想像のできない味が並ぶそれらに色葉が口をつけるまでを微かな不安を浮かべて國枝は見守っていた。
まだ食欲にそそられるわけではないが、視線に耐えかねてとりあえず生ハムとチーズのカナッペを指先でつまみ、かじった。
ざくざくとした触感の中に生ハムの塩味がある。大体は想像のできる味だ。
使われていない屋根裏部屋で深呼吸する感覚に似ているチーズの深い香りが鼻から抜ける。黴臭さとはまた少し異なるものではあるが、チーズの表面におけるあの独特の苦みとざらついた触感、舌馴染みのなさが色葉にそういった想像を掻き立てさせた。通を自称する人間がよく言う、芳醇という表現だろう。
スモークチーズほどのわざとらしさと芳醇を満たさないが燻したそれにも似た傾向の香りが深い奥行きをもって存在している。突き当りで柔らかに角を丸め、鼻を抜けていく。
ハムの脂や香りによく合う古い木を焼いたようなであるそれがシャープな輪郭を決して歪めずに全体を引き締めていた。
チーズ自体は舌の上でもったりとした粘りを持つも塩味が良い。そして意外なことにも、甘すぎないミルクティーによく似合っている。
「國枝先生……はお酒が好きなのですか?」
「……は?」
手に持っていた小皿を傾け、これらを作る際に余ったらしいドライフルーツを自身のカップに流し込んでいた國枝は驚いた顔をしたが、すぐに理解をして面白おかしそうな笑みを浮かべる。
この中で初めて見た顔の種類だ。今に吹き出してしまいそうなごく子供らしい表情をして視線をダイニングテーブルの外へ逃がしていた。
穏やかを装うふりをしたかったらしい彼は結局のところ、息を小さく噴き出し咽ている。ドライフルーツを乗せていた平たい小皿を置こうとする手が距離を誤ってテーブルを強く叩く。
陶器を打つ音を上回って咽せ続ける國枝は手を左右に振って、反対の手で胸をなでおろしている。乱れた息を整える目元に薄らと涙が浮かんでいた。
余程おかしいことを言っただろうかと口を結びかけたが、すぐに思い直す。
それほどに、ふたりは近い関係だったのだ。彼は思わず笑い出すほどアルコールとは無縁で、何もかも忘れている"色葉"が面白いのだろう。
自身の前に居る人間は、少なくとも"色葉"を騙してここに連れてきたような人間ではないらしいことが確信へと変わっていた。
「いや、私はそういったものは口にしないよ。これは保存が効くだとか、缶詰だとかで手元に置いていたものを開けて作ったんだ。最近の……目覚めるまでの昨日を続けていた、かつて君があまりに食事を怠たるから、手を変え品を変えでいくつか開けたままにしていたものを使ってね。まあ、確かに酒のつまみだな。せめて地がバゲットで、生野菜でも添えれば食事らしさもあったかい」
「そこまでの咀嚼はさすがに今は疲れるので、気になさらないでください。ただの疑問です。それから、過去の私の無礼は、その、私が代わりに謝ります」
「いいんだ、やめてくれ。私がしたかっただけに疎まれることはあっても謝罪をされる必要はないからね」
國枝は両の肘をテーブルの天板に付き、祈るように組んだ手の形を緩めてその上に頬を預けた。目は慈愛を浮かべているが、どこかいたずら好きの笑い方だ。
傾く顔の角度と優しい目つき、毛束に逆らった前髪の一部が彼の顔に微かな影を落としている。午後の光がよく重なり、透過する國枝の姿は、きっとどこかで憂鬱を誘う様相だ。
「ところで、あの、先生の食事は?」
「ああ、昼時からまだそれほど経ってはいないからね。私に気を遣わずどうぞ。それにしても面白いな、君は」
國枝の言う通り塩味のある食事であるビスケット地を食み、ミルクティーで流し込んだ。
うまく組み合わせされているがそれぞれの主張を忘れずに持つ食材たちの塩味をミルクが口当たりがまろやかにしている。
かといってミルクが少なからず持ち合わせる臭みや後引く重たいような味を忘れたわけではない。濃く煮出したアールグレイの香りとグラニュー糖の微かな甘味が手を引いて往くのだ。
それが成り立って初めて確かな爽やかさを持っていた。
ティータイムで嗜むようなそれよりも幾分か甘さを控えているそれは食事にもよく合い、色葉はそれを気に入り始めている。
身体から蒸発した水と共に不足した栄養素を摂取しているのだから、本能はこれらの食事を美味であると感じているのは理論的にも正しい。
事実として、想像できる味であるくらいには組み合わせてとしてもまずいようなものでもなく、塩梅にも申し分はないのだ。
目を開いたばかりよりずっと身体は正常に近づいている。
思考が回りだして、ようやく呼吸をしている感覚がするのだ。だが、それだというのに色葉の心はどうにも暗がりに縋りつかれて歩を進めないでいる。
「面白くなんかないですよ」
 ぽつりとこぼした言葉に、國枝は傾けかけたティーカップの手を止めた。穏やかな眉の片方が言葉を敏感に受け取って、ピクリと上がる。
色葉が口の端を拭って顔を俯ける様をしんとした瞳で見つめている。
「……そうかい。君は過去の君を取り戻したいと思うんだね、"色葉"?」
「そう思うのが一般的な意見だと思いますが」
まだ國枝の唇の傍にいる金色のふちが目を焼く。彼はカップに口づけをしないままそうっとソーサーにカップを戻す。
よく装飾のされた陶器が、同じく陶器のソーサーに触れた際、彼は音を立てなかった。
それほど静かに、丁寧に触れ合っていた。
そして椅子を引くとそっと立ち上がる。
何もかもが正しくて、自然で、静かだ。呼吸と共にあるように、まるでここにはいない立ち振る舞いだ。
「一般的には、か。私が聞いているのは君の言葉なのだがね。それがパンドラの箱だとしてもか? しかもそれはまだ、この場所で開いていない。我々はまだ厄災を知らないでいることを前提としても、知りたいのかい?」
 國枝がテーブルを回り込み、古いフローリングを革靴が軋ませる。ギシギシとなる木の悲鳴を聞いて尚、歩は止まない。
演劇の台詞を語るように手をゆるく広げ、色葉の座る椅子の背もたれに触れた。まるで悪魔のように優しい声がすぐ後ろから聞こえる。
囁きに色葉は振り返らなかった。両手で包んでいたカップの、とろけたような色をしたミルクティーの海を見ている。自分の髪や目の色とよく似ている色だ。
それを漠然した認識で見下ろしている。余計なことを考えれば考えるほど、これが真水に砂を混ぜて攪拌し続けた泥水に見えて仕方なくなりそうだったのだ。
そもそも彼が自分にとって悪魔であったとして、彼にとっての己がそうではないとは言い切れないのだ。
自分のことでも相手のことでもそこに悪魔を見るのは、いつだって見なくていい側面そのものや、その側面を知り得たことによって裏切られた勝手な期待を正当化するための虚像だ。
「そうですね。そう言われれば、言われるほど」
國枝の指先がぬるくなっていた。廊下で色葉の手の甲を覆った温度はどこへ行ったのか口にしたくなるほどだ。それほどに廊下は冷たかったのか今に確かめる術はない。
とにかく、その指先がそっと色葉の首の後ろに触れた。
身体の中でも重要である脊椎の通るなかでも肉の薄い場所を、触れるか触れないかの距離でざわっと感じた指先の息遣いに色葉の肩が大袈裟に跳ねる。
今に頭皮まで力が入って、髪の毛先まで後入れした神経が通いだしたように錯覚する。はっとした頃にはもう既に指先が首を走る太い脈の上を触れていた。
「はは、カリギュラ効果というものはまさにこれだな。……動かないで」
 口だけの笑いだ。掠れた調子も意味すらも持たない呼吸の形だ。
先ほどまでの語り口より低い声色に色葉は息を呑み、ぎゅうっと目を瞑る。
やっぱり殺されるのかもしれない。
そんな考えが大きく感情を占めていた。恐怖が大きくなるほど、心臓は大きく脈を打つ。
酸素をたくさんと必要とする肺がいっぱいいっぱいだと訴えている。つまり、胸が痛い。
 緊張とは裏腹に割れものを扱うように優しく頭皮に触れる感覚がする。
被害妄想を通りすぎた温度が頭頂部の付近から首へ向かって、曖昧に往来している。
男性的な節のある指の背が時折、頭皮に触れる感覚も静かにあった。國枝は色葉の髪の毛を整えていたのだ。
よく手で梳いた髪の毛から房を手に取り、緩く交差させていく。
中腹ほどまで三つ編みにした髪の毛を、國枝はいつの間にか手のひらに控えさせていたヘアメイク用のシリコンゴムで束ねる。
ゆるゆると頭部を引かれるままに、色葉は好きにさせていた。
言葉もなければ、次に彼が何をしたいのかも想像がつかず口を噤んでいる。
右手の側頭部は三つ編みにせずそのまま髪を掬いあげてハーフアップにまとめられていく。
片方だけの三つ編みで長さの揃わなくなった髪を後ろでハーフアップにしているために、結ばれて尾のようになった髪は一部が短く、根元の方だけが段をつけたように覆いかぶさっている。
根性のなさそうな猫毛でもそれなりの体裁を保っているようにみえるのだ。
自身の髪がそのように遊ばれていることも知らず、あまりに優しい手つきがくすぐったくなってきた色葉は肩を竦めていた。首に触れる毛先がじれったい。
それでもなお、覚めるような冷たさが思い出したようにそこに存在して、ぞぞ、とした感覚が掠めた。
「私は……國枝は遺伝子に関係のある研究をしていた。常識の記憶は保持しているだろうが、説明とすれば、倫理の抑止力を以てもこの研究は知らぬところで進んでいる。十八世紀後半から学問の細分化が進み、科学はこの世の理の多くを可視化し、人類を豊かにするものとして確立した。人類の知らないことの多くは科学で証明されてきた。今もその歩は止まらず――だがいつしか一部の学者たちは正しさを違えることを知った。傲慢なことにも、今や人類はかつて救いを求めて縋りついていた神と同等の座へ辿り着いたのだと座を侵そうとしている。神に成り替わろうとしている」
「よく聞く、"倫理の檻"を形成するいくつかの柱の話ですか?」
「そうだ。知恵の果実を二度と手にさせぬように生命の樹の根を複雑に編んだ柱で人類は内包され、目眩ましと目先だけの欲を叶える幸福だけを享受することを強いられながら監視をされている、だのといかにも詩的にいうものだ。御伽話のようにね。……そして私が、崇高な生命を求めた学者たちが侵すは生命の人工的な複製。あるいは複製遺伝子を元に配列を改めた新生命体としてのヒトの確立。……クローン技術及び遺伝子操作により依存した新生命体としてのクローン技術。人類を進化させるための前座にあたる技術だ」
「クローン、技術」
 胸から糸を垂らして、重たいものを結んでいる。それは自重に従ってぶら下がっていた。
複雑に絡みついて、糸を切るわけにも重たいものを落とすわけにもいかない。ただ息苦しさと苦痛を耐えるだけを求められる。そんな感覚だ。
己が復唱した言葉の重たさがもやりとしたものを燻りだして、胸やけに似た嫌な気分になる。
ゴムを引き締めるためにきゅう、と掻き分けられた髪の束に頭部を引っ張られて頭皮がぴりりとする。
とくとくと脈を打つ心臓が煩わしく、少しの間くらい止まってはくれないかと色葉は冷静に平静を欠いていた。
「当然の如く、人類は壁にぶつかることとなる。膨大な時間を費やしたにも関わらず、海底のような暗いだけの深い場所を長く、気の遠くなるほど長く低迷した。未発達な技術は過ぎるだけの時間を恐れて、不完全な技術のままにクローン生命体を非合法に、それも大量に生み出した時代もあった。やがて技術研究の存在と、責任逃れのために教養も与えられないまま野放しにされた非合法クローン生命体による倫理の弊害、売買、犯罪……それらが露呈すると人間本来の在り方を問う分野が分岐して生まれた。それが"倫理の檻"とクローン技術の歩みだ」
ゆっくりと離れていく指先は微かに強張っている。
ミルクティーの静寂には、ダイニングテーブルの真上から下がった質素なシャンデリアのスズランを模したトップから落ちる暖色の光がよく浮かんでいた。
時たまにぼうっと揺れてた光が影を作る。
フローリングが再び軋んで國枝の身体が離れていく気配がしていた。
革靴の踵が音を立てる。言葉をじっくりとしみ込ませるように十分な間をとっている。呼吸に合わせて少しずつ滴下している。
秋口に引いていく暑さの後に取り残され、まだ顔を出し切らないがそこにはある肌寒さがミルクティーの温度を奪っていた。
 キャビネットの前に立った國枝は色葉に背を向けたまま、二段目の棚の引き手に触れると引き出しをまさぐった。
「しかし、ある時期を経てそれらは報われた。這い上がるなどといったのんびりしたものではなく、まさしく跳躍した。飛躍的に発展した。今となっては限りなく"本物に近いクローン"が生み出されている。……だが、かつての人類が無自覚に高く築いた"倫理の檻"を破れないままでいる現代の人類は、まだその技術は絵空事の話であり実現はできていない。流用してはいない、いけない。大半の人間はそう思い込んでいる」
「ということは、つまり」
國枝は背を向けたまま小さく頷いた。
「……私の行っていた研究は確かに神の領域に限りなく近かった。同時に神が居たとされるこの世界の最底辺だった。この上なく神を冒涜し、禁忌と呼ばれる禁忌すべてに手を染めた気分そのものだ。尤も、神こそが虚像かしれぬというのが科学に携わるものとしては正しいのかもしれないが。かつての神の座の証明、それらの産物。人類が求めた解の一つ。傲慢と英知の結晶、あるいは禁忌そのもの――それが君だ、"色葉"」
國枝の言葉はまるでサイエンスフィクションであり、色葉にとっては技術が絵空事だということよりも彼の言葉すべてが嘘に思えた。
しかし同時に、確かに自分はこの"現代における常識"としてこの話のほとんどを"知っている"のだ。
既視感のようなぼやけた感覚よりずっと鋭い切り口で傍にいる。言葉と圧倒的な事実が刃物として宛がわれている。
未来にフィクションと夢を求める想像上の未来の話などではない。これだけは確実なのだ。
大きく目を見開いて呼吸さえ忘れてしまったような色葉を気配だけで感じて國枝は己を嘲るように自身の手の甲を見ていた。
「実感もないだろう? 私……國枝はその研究に携わり色葉の持ちえる遺伝子の記憶にこの手で触れた。管理上で連なった番号は一六八。管理ナンバー一六八・タイプニュートラル――通称イロハ。遺伝子操作の一切に触れない純粋なヒトクローン体である"色葉(きみ)"の本当の名だ。私はどうしても君に会いたかった。そのために何を捨ててもいいと思っていた。しかし先人に倣うように研究を進めるうちに"倫理の檻"を恐れるようになった。……あの日々はこの目で見ても禁忌そのものだった。結果として君を連れ出して逃げ出したというのが事のあらましだが、誰よりも君を望んで、苦痛と抑圧を強いて、結局、君は君の個を形成する記憶だけを何一つ残らず忘れ去ってしまった」
「そんな、そんなことが?」
「そうだ。君の肉体は君の精神が身体の機能を殺そうとするのを防ぐために記憶を破棄したのだと推測する。失った自我そのものを補完、苦痛を回避するために精神退行を起こしている。脳の防衛機制のひとつだ。……すべて、私のせいだ。否が応でも君がその選択肢しか選べなかったのは私にも責任がある。なぜ君に、すべてをやり直せるはずの君にここまで話をしたかわかるかい?」
 國枝が懺悔のように絞り出す痛々しい声音が午後の微睡に似つかず浮いている。
その背を丸くしてキャビネットに縋る様に色葉は手を伸ばしかけて、そしてやめた。
今の自身に掛けられる言葉は、よく考えることなくとも何ひとつない。
あなたを憎んでいることはない? 悲しまないで? やり直すいい機会?
どれもこれも彼の仄暗い欲望の否定と罪の意識と、孤独を助長するだけだ。
薄っぺらい言葉のどこに説得力があるのだ。未だ空をなぞっている指先に力が入る。
現に今の自身に怒りという感情はないのだ。憎しみも悲哀も逃げたい気持ちも。
どんな言葉がある? そんなのかけようがない。
「……わかりません。あなたの言葉の意図も、かつての私が言いたかった言葉も、過去のことも」
「そうだよな。正直で好ましい。そんな君に三つの選択肢の提案があるからだ」
優しい声色だ。黄金の光は緩やかに立ち上っている。
「一つ。私を殺すこと。君が失った記憶は幸いにも一部で、以前のように異国語を操ることはできるようだ。母国である日本国へは帰らないことを強く推奨するが、もしその選択をしても信用のできない人間と疑心暗鬼の生活をするよりはるかに健全だろう。どこでどう生活するも誰を頼るのも自由だ。常人に備わっているであろう罪の意識に耐えられるのならば私はこれを勧める。率先して自死を選ぶ趣味はないが、恐らく一番手っ取り早く君は人権・倫理適応が圧倒的に認められなくなってしまう出自に関する弱みの一切を消せる。認識しうる限りのしがらみをなかったことにできる。……怖いのならば手を貸してやってもいい」
「ちょっと……ちょっと待ってください! 何を言っているのですか!」
 突拍子もない國枝の言葉に色葉は思わず立ち上がる。
テーブルの天板に乱雑についた手がミルクティーのカップを弾いた。
カップが割れはしなかったものの、ダイニングテーブルにはミルクティーがまき散らされて、レース調のテーブルクロスを汚していた。
「今頃そんなことで慌てるなよ。元々その予定だっただろ」
 震えた唇が囁きを編む。
背を向けたままの小さな言葉が焦ってテーブルを拭く耳には入らず、顔を上げた色葉が問い返す。
視線の先では既に背を向けていたはずの國枝は先ほどの心からの懺悔をしていた姿とは異なり、また掴めもしない霧のようなベールを纏っていた。
「え……?」
「いいや。なんでも。次、いこうか。その二だ」
ペーパータオルを持ちだした國枝がふちや持ち手の金加工がかすれたカップが横たえた身体を起こし、滴る水気を拭きとるとあるべくソーサーの上に返してやる。
そしてカナッペの乗った皿たちを一度キッチンカウンターへ避難させるとさっさとテーブルクロスを回収し、てきぱきとテーブルを片づける。その横顔を色葉は棒立ちになったままで訝り見ている。
「二つ。警察を頼ること。私たちは今なお追われの身であるが、研究内容の都合上、公に手配はされていない。国を跨いでは出来ないんだ。クローン技術の流出など国家単位の倫理観の歪みと軍事転用の前提を露呈させるものだからね。故に、この地でなら警察を頼ることはできる。この家は小高い丘にあるから、坂を降りれば迷うことなく街にたどり着けるだろう。頼ると良い。人の好い街だ。君が記憶の欠落と身分証明ができるのならば親身に話を聞いて助けてくれるさ」
「あ、あの、」
「三つ、最後だ。この家で私と暮らすこと。私は未だ君に離れてほしくない。生命に携わったものとしての責任もある。だが、これは私の意思だ。その不信と少々の窮屈を我慢できるのならば私は君にできる限りの自由を与えよう。さあ、どうする? どれを選ぶのも君の自由だ」
言葉数に疲れたのか國枝は身体を伸ばし、自身が座っていた場所からカップを手繰り寄せるとドライフルーツを入れたストレートティーのカップを呷った。
「君はどうしたい」カップの唇をつけたあたりを親指で拭うと、隣で今しがたの言葉たちを信じられないと口をはくはくとしている色葉を真っ直ぐに射貫いて問いかけた。
「こ、こんなの、誘導じゃあないですか」
緊張した面持ちで、微かに目頭をヒクリとさせた色葉は張り詰めた言葉を吐く。
「選択が出来ない、とでも言いたいのかな」國枝は興味を失くしたかのように表情を平坦にして視線を逸らした。
「これは君の価値だけに依存する秤にかけて決めることだ。先の言葉は確かに意地の悪い言い回しであるが君と私が"常人である仮定"に過ぎない話さ。もしかしたら君は他人の生命によって得る自由に罪悪を覚えないかもしれない。なに、可笑しい話ではないよ。仮に私が性的嗜好の衝動のままに惨たらしく殺しをする悪癖がある殺人鬼なれば君は間違いなく自身が嬲り殺しにされる様を想像して警察を頼る、それだけだろう? それくらいにはフランクな話題だよ」
強がりを見せて睨めつける色葉の視線をものともせずに國枝は引き出しをまさぐって手に入れた平たく黒いポーチを手にしている。
答えを知っているんじゃないだろうか。気に食わなかったらさっくり刺されるのかもしれない。
色葉は唾を呑み込めずにいた。
「さあ、さあ。私がいま君が想像したようなマットサイエンティストであり異常性癖とも呼ばれる悪癖を持ち合わせる殺人鬼なれば十秒と待てないぜ。答えを聞かせてくれるかい?」
「……共に生活しても、許すか許さないかなんて私には決められませんからね。大体にして、ここが異国の地であるならば、今の私を知っているのは國枝先生、あなただけだ。頼らざるを得ない。部屋にあったものを見るに、私は金銭を持ち歩いていないようでもあるし。本当に、あなた"だけ"を頼らざるを得ないのですよ。それを理解してよく言えた話です。あなたは随分とずるいお人だ」
その言葉を聞いてようやく満足を浮かべて肩をゆったりとさせた國枝は黒いポーチから小さな鏡を取り出した。柄のある丸い鏡だ。
「ならば、狡くて意地が悪いのなんて今更だとこれから嫌でも知るだろう。なるたけ早く普遍にしてくれるように頼む。とにかく、君が賢さまで置き去りにしてこなくてよかった」
「そこまで言ってませんけど……」
 猫の目が人懐こい笑みを浮かべている。
色葉はすっかりペースを乱されていたが、この男に宿る殺意は早々に顔を出すことはないし、自分には簡単には向かないとぼんやりと思った。
大体にして、悪癖のある殺人鬼であるならば最初から宣言すれば楽しみは減るものだ。カミングアウトの上に生じる絶望に興奮する性的嗜好を持ち合わせるならば話は別であるが。
 肩を軽く叩かれ促されるまま色葉がのぞき込むと、丁寧に髪の結わえられた自身の顔が映り込んでいた。
均等に編まれた三つ編みが左の側頭部をなぞり、ハーフアップにされた箇所で右の髪の房と合流している。
編んだ分だけ短くなった髪の毛が結んだ根本の位置で微かに跳ねている。
肩に垂れ下がる飴色の髪のシルエットよりもしっかりした顔をしており、微かに跳ねる根本の髪がなければどこか気難しいだけの人間にも見えた。暗い表情をしているが、生まれ持っての陰湿な顔つきではない。
片目を覆う前髪は手つかずであった。この前髪のようなマナーとは相性の悪い要素がありながらも、堅苦しいフォーマルな服装で浮つかないどこか品のある髪型だ。
加えて誰より見慣れた自身の立ち姿なのだ。恐らく、過去の自身も日常的に結わえていた髪型だろう。
先ほどの話から、これもどこかに存在する誰かの複製なのだろうか、とふとしたものが思考を掠めた。
これからも鏡を見るたびにこんなことを考えざるを得ないのかと想像すると気分がよくない。
不安定な泥濘を想像する。
だが、バスルームで自身の顔を見た際よりずっとはっきりとした意思を宿した表情はきっと今の自分だけのものだ。それでいいはずだ。
「これから君が生きて過去の鱗片を知りたいと足掻けば足掻くほど問題にぶつかるだろう。過去の亡霊と見つめあうほど、君は君だからこそと自己を確立する生き方を探さねばならなくなるだろう。外に出れば甘言で誘う悪魔ばかりだ。そうであっても……色葉。君には自由に生きてほしい。今だから言いたいように言えるだけの、ただの私のエゴだ」
「……はい」
「その過程で決して私を許さなくていい。許してほしいとも言わないし、どうも行く宛てがないものに支配されるくらいならばキッチンにあるナイフで私の脈をずたずたに穿って構わない。そのあたりに飾られた骨董の陶器で頭部を殴打したってね。ただ、消えろと言われる日が来るまでは私は私の命の続く限り君に寄り添うと約束する。褒められた生ではないが君が必要とするなら私がその手を引こう」
國枝の言葉は甘い。物騒で仄暗い誘惑だ。端々が脳をじりじりと焼くようだ。
今に焼かれた体の一部の異臭が立ち込めそうなくらいに、思考が焦れる。
 ポーチをテーブルに置き、改まった顔をすると國枝は色葉に髪飾りを差し出した。
一枚の羽根を模した金属プレートが緩やかに湾曲しながら柔らかな金の色を返している。
裏面まで細かな羽根の調子の彫りものがされたバレッタだ。手によく馴染む重さからかなりしっかりした作りが推測される。
舐めるような視線で國枝の手が持つ髪飾りを見ていると根元には一粒の本真珠が下がっていた。
本真珠が長い年月をかけて生成した層が周囲の色を取り込み、柔らかな光を受けて艶やか佇んでいる。自らを光源として淡く光り輝いているようにすら見えた。
この世の美しいものをそれらに見立てた言葉やモチーフにした芸術は山ほどに溢れかえって存在している。それほどに、真珠という姿形が言葉を象徴するおかげで他の例えようがすぐ表現に出来ないほどだ。
じっとそれを見つめることしかできないでいる。吐息交じりのうっとりとした憂鬱とはまさにこれだ。
曇り空に地上が覆われたときに、窓際の花瓶にある存在の鮮やかさにため息を吐くということだ。
そのあまりに上等な様から想像するに、本体の金属もアクセサリー加工としての強度を増すために純金に他の金属を混ぜているものかもしれないと色葉は考えていた。
よくカラーゴールドなどと呼ばれるものだ。
滴る沈黙の中でほうっとしていたが、再度促された色葉が受け取る。
手から離れていく髪飾りを見つめている國枝は、自分の知っていたものとの長い別れに寂しさが浮かび上がるのを抑え込むように歪にはにかんだ。
「……自由を掴むお守りだ。"色葉"、これは君のものだ」
この部屋に入ってから、色葉は多くの國枝の側面を見た。多くの面は微かにかみ合っていないようで絶妙に形を保っている。
人間は左右対称に美的価値を見出すというが、彼のそれはあまりに魅力のある不安定で、視線を奪ってやまない。
一点からの視点に依存すれば、極めて美しい比を保っている。故に、年齢や価値の普遍を感じさせないものこそが彼であるのだろう。
日常に些細として抱え込んだ憂いを恣に、暮れの甘い匂いと朝霧のベールを纏っている。木々の中でひっそりと呼吸をして生きるこの家の姿によく似合う。
なんだかずっと前からそうだったようにも思えてきた色葉は彼を見つめて小さく頷くと、下を向きハーフアップにした後頭部の髪の房に髪飾りを付ける。
そっと手を離し、髪を挟み込んで固定した髪飾りが落ちてこないことしっかりと確認すると國枝に向き直る。そして正面にある、煮詰めた琥珀の上に蛍石の薄片を重ねたような色の瞳を真っ直ぐに見た。
"色葉"が彼とどこか視線の合わない生活をやり過ごしながらも、どこかでこんな普通の、いつかは忘れ去ってしまうような些細な日常を望んでいたとしたら。
――少しくらいは"色葉"のためにそれを叶えてやってもいいかもしれないと思えている。
「ありがとうございます。改めてよろしくお願いします、國枝先生」