白いシャツ姿の腕を大きく振り、此度における怪奇の目にあたる由乃らしき存在を引きつけて伊三路が去っていく。
その姿を見送ったことを確認してから祐はすっくと立ち上がって来た道を戻り始めた。
吹っ飛ばされた襖を見た場所へ戻ると、ばきりと折れ、辛うじて『く』の字に繋がっていた襖だったものが廊下に虚しく放置されていた。
如何に強い力がかかったかを思わせるひしゃげ具合を改めて認めると、首から肩に繋がる筋のあたりが強張る。
ちょうど頭と身体をつなぐ首の部分とつなぎ目が曖昧な肩口だけが氷水を被ったように冷たくなった。
思わず肩を揺らして、瞬間、嫌な身震いが駆けた。
その襖の下に滑り込ませた足で支えると蹴り上げるように甲で持ち上げる。持ち上がったことにより生じた床との間に手を差し込み、折れ曲がった襖を部屋の出入りに不便にならぬ場所へ丁寧に立て掛けた。
そして部屋の中を眺むと、物が無いながらに荒れていることがよく理解できた。
 黒いフレームによって控えめな縁取りの紋様が施された電笠が落ちて転がっている。笠の一部は割れて破損し、電源スイッチに繋がる吊るし紐がのたうちまわった蛇のように伸びていた。
窓際の戸にて格子に張る障子紙はびりびりと裂くひっかき傷にそってめくれあがり、果てにべらりと項垂れている。加えて、うち一枚の戸は枠ごとすっかりレールから外れて踏みつけられているのだ。
い草の目は暴れた由乃と揉み合った痕跡のように明らかにささくれ立ち、撒菱のようにそこらじゅうに棘をの気配を潜めている。それを知ると、思わず足の裏を浮かせそうになる。
続けて光景を見渡す。視線はより遠くを求めていた。
 床の間の天袋は半開きでぼうっとしており、互い違いの棚はがらんどうだ。着付るにあたって一時的にハンガーを掛けていたらしい長押は、高い場所に位置しているにも関わらずじくじくと湧いたような水が滴っていた。
予備の腰ひもがつづら折りのように垂れる様を追い、すっと視線を下ろす。床框の化粧板に背をつけて夏野が半ばうつ伏せの状態で倒れていた。
 突き飛ばされるか、転ぶかをして頭部を近くにぶつけたのだろう。最中に外れたと思われる流行りデザインのバンスクリップは滴る水を被っていた。
踏み入れがたい部屋の荒れようを観察しながらも、夏野の姿を認めると祐は大股の歩幅で近寄った。
彼女の意識が確認できない以上は蝕の偽装であるとも窺える。
同じく騒ぎの遠因でひしゃげたハンガーの鋭角を向け、片足を引いた状態で腰を落とす。そしてそうっと手の甲をなぞるようにしてハンガーの先を滑らせた。
その先で指先はぴくりとも動かない。呼吸も浅いのか、はたまた服装のせいか胸や肩の上下も判断がつきにくい。
 祐は回り込む足元の気配の反した位置から再びつついて反応が極めて希薄であることを確認すると、夏野の肩と床の間に腕を差し込んでゆっくりと抱き起こした。
自身の胸に凭れさせるように引っ張り上げると、全くもって脱力した人間の想像以上にぐたりとした温度が触れる。
首は頭部の重さで今に耐えかねて落ちてしまいそうだ。垂れるうなじの曲線や、四肢を支えても骨という骨が抜かれているかの如くぐねぐねと不安定をする様はゴムの塊のようだ。質量と体温をもって感触に訴える様を知り合いと思わなければ間違いなく、脂の塊というものはこういったものを指すだろうと祐は感じた。
ゴムと脂では表現が全く異なるように、温かみがあって、これが本来は人間であると考えるだけで本能的な反射で手を引っ込めて、突き飛ばしてしまいそうになる。
脱力した四肢の、それはもう先端も先端の部分に大層な錘がぶら下がっているという想像が浮かぶ彼女の細い腕をひとつ掴み、袖を払い落とす動作で手首を晒す。
それから自身の手袋を外し、夏野の口元に手の甲を近づけたのだ。
 小さな呼吸が継続して手の甲に触れることを確認すると、次に細く枯れかけた手首にやわく爪を立てて脈拍を測った。
僅かな時間だけ自身の呼吸を止め、研ぎ澄ませるように彼女の生命が発するサインを注視していたのだ。
肌は紙のように白く血色は褪めていたものの、大きな括りで語れば明らかな危機のあるものというよりも意識を失っているだけであるようだ。
しかし濡れたままではよくない。と、着物の袖を脇から背中に沿って受け流しながら夏野の片腕を自身の肩に回す。
夏野の脇腹から腰のあたりに巻きつかせた腕で支えながら、祐は膝を床から離し、一度膝立ちの姿勢を正す。それから、一本線を描きなぞる垂直でゆっくりと立ち上がった。
脚を引きずる姿に似た恰好で寄りかかる老婆を小脇に抱えながら祐は歩き出す。
薄らと水を被って濡れた彼女と触れ合う服の生地は蒸れて熱く、片方で素肌を晒したままの手のひらに這う色は仄暗い熱を持っていた。
ぐずりと水を含んだ着物の生地が喚く。祐は夏野を抱え直し、己の額についた水滴か汗か正体の怪しいものを手の甲で拭った。
 いざ彼女を避難させるとして、背負うには着物の着方に関する合わせの都合では彼女の足が己の胴を跨ぐに不便だ。
巻きつけて着用する構造は理解できても、それを扱う指先を心得ているというわけではない。
妥協案として肩を貸す状況も着崩れてしまうのでないか、と、頭の中の冷静な部分は考えていたが、今さらになってそんなことは瑣末なことだ。引き裂かれただとか、ひどく擦れて生地がいかにも駄目になっただとか、そんなことを避ければ多少のことは許されるだろう。
そうでないというならば最悪のところ、有事という言葉の意味を老人相手にも憚らず辞書を片手にこんこんと語ってやるつもりだった。
 自棄ではないが、脳から伸びる糸の先に火がついて焦れているのに身動きのひとつ取れないかのようなもどかしさがあった。
そして彼女を急に暦が喜一郎を足止めしているであろう場所に連れていくわけにもいかない。
廊下を戻りながら、時折聞こえる騒音に耳を澄ます。
夏野を運び出す時間稼ぎをしてもらっているのか、それとも茅間伊三路が決めあぐねている何かへの腹を決めさせるための時間稼ぎを己が有効利用しているのか、本質が危うくなる。
廊下に面するそばの襖に手を掛ける。祐は顔を俯けていた。
それから音を聞き、鼻先を上げた。
 広い廊下に行き渡らせる音はいつの間にかそっくりなくなって、静寂を装った耳鳴りがしている。
縁側沿いの部屋よりひとつふたつ間を挟んだ場所に位置する部屋に彼女を横たえる。
みだりに女性の身体に触れるわけにもいかず、帯はそのままに身体を横向きへすると、折り込んだ座布団を枕がわりにした。
肌がけにするものは周囲に見当たらなかったが、震えている様子もなく、また顔は白いが唇の色までもが褪めるに至ってはいなかったため、祐はそのままに場を離れる。
そして隣接する縁側沿いの部屋から小さな家具を持ち出すと、万が一部屋をのぞきこまれても一目で無防備な彼女が映し出されないように視線を遮る構図に配置をした。
少なくとも、一直線に駆け出して首を引っ掴むことはないだろう。と、一瞥し、そうっと襖を閉める。
静寂を取り戻したと偽る屋敷内で未だ姿を見せない伊三路を探すべく祐は廊下の先を見た。
片手に握る短刀に浮いた錆を思い出していたのである。



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