呼吸を求めて土を引っ掻いていた指先に酸素が行き渡り、力が入ったままになっていた指が僅かに緩んだ。
もはや服が汚れるのも構わず身体を楽な体勢にし、深呼吸を繰り返すとカッターシャツについていた土を払ってゆっくりと立ち上がる。
自分にしては上出来だ。そう思うと同時にこれで終わりではないと己を叱咤してよろめきながらも駆け出す。
少年との会話が頭のどこかで引っかかってずっと渦を巻いていた。
「……そういうわけで、きっときみが実際に見て確かめなくては絶対に納得しない力で、おれはあの獣に巣食う悪意を祓うことができる。ただ、乱発はできない。外せばそのぶん時間を稼ぐ必要がある」
「信用するといった以上ボロの出そうなフィクションでも詰りはしないが、だから何だ? 今の説明に何の不満がある。初手でお前がその力を使うには安定した足場や時間稼ぎ、そして獣の意表を突く必要がある。故に、獲物が前に躍り出るべきだ。一度目の力を使った後、お前が廃材置き場まで誘導する。初手で厄介を印象付けた効果も手伝って、俺たちが揃った際に獣は標的を俺に切り替える。すぐに糧に変換できる獲物と、訳の分からない力を使う獲物がいたとき後者を選ぶような奴はとうに自然に淘汰されている」
「そうだけれども! やはりきみが危ないという事実、おれはいやだよ」
歯切れの悪い少年の言葉に対して、祐は明確な苛立ちを覚えていた。
彼の言葉は否定を示すが代替案がまるでない。否定するだけならば誰でもできる。理想論は机で踊るだけだ。
出来合いの状況で光るそれは演劇と同じだ。仕組まれただけの舞台で決められた勧善懲悪の台詞を口にするのと同じだ。
言葉が次第にかたくなり、転がされている。カラカラと音を立てながら時に欠けて、歪になった感情と攻撃的な語気だけが残っている。
「獣も二度も壁に突っ込む真似はしないだろうが歩行の構造上、急には止まれない生き物だ。そうでなくともお前に迂回を強いる以上、簡易的な自衛手段くらいは設ける。お前は安定した体勢で力を使う条件が揃う。何度も言わせるな。これ以上の意見があるか? 初手の油断はどう引き出す? 再装填のための時間稼ぎは? ないな。言葉数が増えれば俺たちが消耗するだけだ」
「きみが! 大衆のための勝ち方ではないきみの言葉で意思を口にしているというのならば、おれをもっと利用しろって言っているんだ!」
祐の肩に触れようとする少年を半身で避けて、冷たい瞳の色を傾ける。
手を惑わせたまま身を屈めていた少年は自身の言葉がガラス片のような切り口で鋭くなっていたことに気付くと目を伏せて口を手で覆っていた。
彼自身が発した言葉に衝撃を受けて、瞳がゆるゆると揺れている。拳を握り込んで太い眉を寄せている。
「リスクに大小はあれど背負うという事実は変わらない。町は壊されたくない、他人も脅かされたくない、でも獣は追い払いたい? それを傲慢というんだ。それとも己はそれができる、もしくはやるべきである崇高な人間か? ふざけるのも大概にしろ。俺はお前と話をすると疲れる。理想ばかりの言葉に嫌悪を激しく掻き立てられる」
「ち、ちが……! いや、ごめん、おれ」
「それとも俺はお前にとって庇護するべく子供か。信用していないのはお前のほうだろう」
 信用していないのはお前のほうだろう。
ずっと響いているその言葉に呆れる。どうにも発した者にとって舌触りが良くて、受け手は返す言葉がなくなる都合のいい言葉だった。
少年の傲慢であるべからずを一周回った泥濘につかる傲慢がまかり通ってなるものかと思いながらも、泥濘の中に輝く石があるならすべてを手にしたものとして賞賛をする。
そうでなければ少年もまた理不尽に身体を埋めて生きていくだけだ。
自身はあくまで影響力のない事象のひとつとして己の口にした事柄を実行するだけだ。結果だけを知りたがっている。
絡まりかける思考の糸をつまみ、無理やり引き寄せる。糸がみるみる引き出されるように、祐の足は先へ急ぐことをやめはしなかった。
勝手に期待をかけることかけられること、そしてかけさせてしまうことの圧を自分はそれなりに知っているつもりだ。
だがどうしても、あの穏やかさを前にしたとき「目の前の人間ならば」、「もしかしたら」という淡い期待が浮かび上がる。
だからこそその答えを知らなくてはいけない。そのための最適を求める脳内に思い浮かべた周辺の地理をなぞっている。
最短の道、解体が終わったばかりの廃材置き場にあり得そうなもので、足止めに使えそうなものの想定、最悪の心づもり。
ゆるゆると脳内に並べられていくカードを整理していると不意に遠くで何かがぶつかって崩落する音がした。僅かな間隔をあけて甲高い金属音がする。
あれだけ子供のように駄々をこねたというのに互いの納得する言葉で結んだ口論の意味すらなくすほどの速さで町を壊されているではないか。
「あの馬鹿者が……!」
 口汚く罵るような言葉をあまりに自然に吐き出して、砂煙の出どころを確認するために足を止めて遠くを見る。
じっと目を細める。現在地と予測する場所と廃材置き場の間に送電用途の鉄塔よりも後方から砂煙が上がっているのがよく見えた。
あの辺りはぎりぎり残った空き家か、住宅地の端だ。
止まった足がみるみる鉛になる。噛み締めていた奥歯が力の行き場をなくしてぎりりとした歯ぎしりになる。
倦怠が渦を巻き始める。またしても思考が失速している。嫌な感覚だ。
手袋を奪われたま素肌をさらしていた左手で前髪をかきあげる。甲の上で溜まっていた血を右手を包む人工皮革の手袋で拭う。
肉よりも神経に触れるような不快さに目を細めてから、祐は避けていた民家の庭に踏み入る。
安価で売られている木製のフェンスをくみ上げて室外機のカバーへとアレンジしたものを足場としてブロック塀を踏み、そのまま超える。
自身よりも僅かに低いとは言え、一〇〇センチは高さのあるところから飛び降りる様はそれなりの衝撃がある。
落下速度の計算式を浮かべる間もなく、踏み越えた勢いから立て直す間もないまま着地した足の裏にもたらされた痛みが骨に響いている。
身を震わせ痛みを逃がす暇すら惜しい。二度ほどその場で垂直に飛ぶ。そして腿を激しく叩きつける。
驚いた筋肉の反応を皮切りに走りだす。よく手入れされた革ローファーの側面が削れるのも構わず振り回される身体の中でも足はしっかり地面に着けていた。
 先ほどより明確に自覚をしている。
少年の正義が通るのならば何かを信じたい気持ちがあることを否定できないのだ。
カーブミラーに歪んだ姿が映り込んでいる。角を二、三度折れ、十数メートル走れば再開発予定地であるが、祐は民家の生け垣を超え、家々でネズミがわくような隙間を半身で通り抜ける。
狭い道を抜ければ、角を曲がるよりも早く端折った道程でフェンスで隔てた奥に広がるだだっ広い再開発予定地がある。
 撤去が終わったばかりで再建設のために派遣された重機などが出入りしている様子はない。ただ区画として隔てる三角コーンや工事用のパーテーションが設けられた道を抜ける。
林側から来るはずの少年には立ちはだかることのない障害物ではあるも、祐側からは一瞬ごとの判断力を奪う程度には込み入った場所である。
廃材置き場の張り紙に従って進む。
 パーテーションにぶつかりながらも廃材置き場の前にたどり着いた祐は息を切らし、思わず両手を膝に着いた。
汗が染みた左手の傷口がもうずっと痺れた感覚でいる。自然と屈む姿勢になって、顔はずっと下を向いている。
重力に従った一滴が地面にしみ込んで土の色を濃くする。
安堵するにはまだ早いも、胸の重りがひとつとれたことに呼吸が軽くなる。
「信じているという言葉はまるで呪いである。先に利用してでも状況を脱してやると思考していたにも関わらず、言葉が繋がれば容易に断ち切れはしないと。よもやにも、あの男に期待していると? 面白い。それこそ傲慢である。いや、それが本能か。命あるものすべてが心根では己が一等に貴い生き物である自負をしている故に、都合よく認知を歪める」
 愉悦に浸った甘ったるい声色が鼓膜に張り付く。老若男女の声が幾重にも重なっていて、鈍く、冷たく、沈んでいるのか浮き上がっているかも判断のつかない気怠さの中で聞いた、音楽プレーヤーから聞こえたあの声だ。
言葉ひとつ発するたびに何処からかひそひそとした笑い声や、悲壮な叫び声が聞こえる。泣いたり笑ったり、はたまた恐れや怒りという感情表現のすべてを雑音として引き連れている声の主は手を叩きながら祐に近づいている。
土を濡らした一滴のすぐそばに影が重なる。瞬間、全身の毛穴が開くようだった。
苛立ちも焦燥も、感情に呼応していた身体の反応と何もかもが異なる。体温が引いてずっと滲んでいた汗が急激に冷える。
唾を飲みこむために上下する喉仏を慈しんではねっとりとした視線が絡みつく。焼かれるように喉元だけ熱を帯びる。唇がわなないた。
「愛すべき人の子よ。お前はどう思う。……いいや、これに依存した声音では通ずるとする言葉も何もないか。うん? どうだ。さあ、答えておくれ。吾(わたし)の声は、お前の中でどう結びつき何を形づくるのだ? "顔を上げ答えよ"、結崎祐」
ぞわりと脊髄付近の神経が深いところで緊張を覚える。言葉の主の声は想像よりもずっと高い。
言葉や息遣いからどこか男のように思えるが、喉を震わせる音は声変わりも訪れていない男でも女でもさして違いのないころの子供の声だ。
拒否を示す思考に反して身体はゆっくりと視線を上げる。冷たくなった頬の肉が脱力して表情に疲労や苦痛すらなくなっている。
自分自身がどういった表情をしているのか、祐には全く想像がついていない。キンとした耳鳴り、もしくはなにも聞こえなくなった耳に子供の声だけが鮮明に届いている。
情報だけ確と認識することを強いられる視界が眼球に伝達したのは霞むほど白い子供の姿だった。
柔くうねる真っ白な髪によく映える浅黒い肌に、やや目尻が鋭い。虹彩だけが、その体にぽっかりと穴をあけたように空のオレンジ色に近しい無機質をしている。
――いや、それよりかは多くの黄を注ぎ足した山吹の色に近い瞳だ。愉悦という言葉を欲しいままに卑しく歪んでいる。
逃れたい感情で眼球だけが視界を逸らす。
目の前の子供は小学校に通う低学年児童ほどの背丈をしている。ただ、そこらにいるただの子供ではない。服装は先に協力を約束して別れた少年のものによく似ている。
胸元の飾り結びや文様の描かれた前垂れはなく、袴も白い。限界まで人間らしさを削ぎ落したような服装をしている。
衿元には金属の飾りが幾つも下がる花簪と、何かしらの獣の顎骨を削りだした呪物のような装飾品を着けていた。
肩にかかる赤い晴れ着はどう見ても子供のために誂えたものとは思えない。繊細な手縫いの柄が美しい着物を地面にながく流して土の上で汚れてしまった絹の妖艶が空しい照りを返している。
この子供が常日頃から外を出歩く存在ではなく、且つ地に足をつけることすらが滅多にないことであるのは明確であった。
尖った足先の爪までもが浅黒い肌に反してずっと白い色をしている。
袴まで白い子供は祐の視線に不快さを隠さず、笑みを浮かべていた唇を閉じる。ふっと表情が消えるのが頭上で感ぜられる。
柔らかなふくらみをもつ両手で祐の頬に触れて顎を掬うと無理やり自身の視線と合わせる。
「どうした。結崎祐? "吾の問いに答えろ"。……ふむ。言葉は嫌いか? 目に見えないものが嫌いなのであればその嫌悪で抉り出した知覚すら叶わぬ――もっと、いや最も深い場所で囁いてやろう。ただ、それは今ではない。退屈を嫌う故に、急いてしまうのは本能と理性が拮抗するところであろう。わかるぞ。吾も人の腹から生まれたからな」
大げさに肩を持ち上げてからコミカルに肩を落とした子供は祐の耳元に薄い唇を寄せた。甘ったるい果実の匂いが掠める。
みずみずしい中にある微かな酸味だ。ただ鼻を抜けるのはぞわりとむせかえっては末端が腐り落ちてはいないか不安になる匂いだ。
鮮烈な表現とは反して、本当に微かに香るだけだ。その腐敗と不安は香りを通じて匂いを知覚したものに伝播する。
「吾は貴様のような人間は嫌いではない。愛すべき人間の模範だ。遠からずきたる再会の時にはその腹の底に抱える怖気の答えを聞こう。その狂気が今日という日の貴様を苛み続けたように吾の気配にあてられ増幅した些細な不満に由来するか、貴様を貴様たり得るものとする明確な狂気なのかをな。よく聞け。"吾が言葉を紐解くまで、この出来事のすべてをお前はどの知覚を以てしても輪郭すら思い返すことが出来ない"。よいな?」
いつの間にか両の膝を地面に着いていた祐の肩口に収まるように子供が身を寄せているた。脱力していた右手を子供は優しく包み込む。
手袋の下に潜り込んだあたたかい指先が祐の抱える柔らかな傷に触れた瞬間、心臓がぎゅう、と掴まれる。
「精々まわり続けろ、吾が愉悦のための舞台装置よ。郷愁という舌触りにいいようにされて踊る死体の演目にはもう飽きたからな」
「……く、……! た……! 祐ッ――!」
ハッとした。視界を黒い何かが占めている。
少年の声が引き攣っている様を認識する間もなく光が包む。
獣の影がずっと伸びている。身体が傾いていく。
コマ送りのように世界は切り替わっていく。

 瓦礫が吹き飛んで、身体は地面に押し付けられていた。後頭部の痛みが広がっている。
光に怯む片方の目を閉じたまま、もう片方の目で視線を落とすと、胸に祐自身の身長と同等の大きさに縮んだ獣が、牙を祐の右肩に食い込ませていた。
にじりと顔を左右に揺らし、返し針のように緩やかなカーブのある歯を食い込ませている。
肩口と頬をべったりと濡らす血が自分のものだと知る前に、獣を形成する細胞が急速に色褪せていく。
悶える獣は祐の胸の上で身体をくねらせて苦痛から逃れようとする。暖かな獣の身体が暴れるたびに身体の節々を圧迫する。内臓を踏みつけられて不快だと思う程度に縮んだ獣の現状が理解できないまま見つめている。
やがて底なしの色をした被毛を硬くした獣は背を仰け反らせて断末魔を響かせると繰っていた糸を切られたように支えを失い、砂粒の形に分解されて崩れ去った。
胸にばたばたと質量のある砂が降り注いでいる。
一部の細かな砂は煙のようになって立ち上り、祐は怪訝に眉を潜めたままでありながも呆気にとられて唇を開いていた。
「一体何なんだ、今日は」
はあ、と息を吐く。
瞬間、肩に食い込んでいた牙が肉を割り入って血管を穿ち、多くの血を垂れ流していたことを知る。
脂汗が噴き出し、今日の一日で何度も忘れては思いだすことを繰り返してきた呼吸という行為を思い出せなくなる。
食いしばった歯の間から抑えられぬ呻きが漏れる。
目が大きく見開かれているのがわかる。結膜がこれでもかと張り出して乾き始めていた。
熱いと感じた次の瞬間には、これが灼熱を押し付けられる感覚か、はたまた氷を長らく押し付けられた麻痺の感覚かわからなくなっていた。
短い呼吸を繰り返している。
引き攣った喉から声にならない声が漏れる。
血で濡れたカッターシャツを握っている。
重くなる瞼に視界が揺れる。何度か暗転を繰り返しているうちに、少年の姿が浮かんだ。
 祐の訳が分からないと言いたげな表情を見て微かに安堵を浮かべるも、今に泣き出しそうな表情をしている。
よく見れば少年の頬や衣服についていた血も乾ききった砂の色をしており、祐にもまた安堵が伝播した。
「ごめんね。痛かったね。遠目に見えたきみの様子がおかしいと気付くより早く……おれの……おれのせいだ。おれの言葉が間に合わなかった。獣に残った僅かな蝕が、結局はきみをこんなにも傷つけてしまった」
少年は横たえている身体の胸に積もった砂を払い、シャツを握り込んでいる祐の手に触れると優しい声色で謝罪を繰り返しながら一本一本を解いていく。
混乱した思考のまま力のこもる指が解かれるにつれて、不思議と痛みが引いている。
痛みはあるものの、呼吸が安定し始めていた。
「きっとこの傷がよくなるようにおれはだれより祈るよ。なんだっけ、痛いのは口にすればどこかへ飛んでいくんでしょう」
「庇護されなければ生きられない子供ではない。世間の認識がそうでも、少なくとも同世代と思われる人間にすら守られなければ何もできないわけではない」
「あは、厳しいね。きみは……ねえ、何か、あった? どうみても様子がおかしかったけれども、周囲にはなにもなかった。きみには何が視えていた?」
 ギシギシと軋む身体をゆっくり起こす。
右肩を起点とする過ぎた痛みに半身がジクジクと痺れている。左手で頬や肩の周辺に触れるとぬるりと滑る血の感覚がある。スライダーによって連動したカッターナイフの刃を守るプラスチック製のケースは粉々に割れて肌を細かく傷つけている。
居心地が悪くなって後頭部に触れるとそこにも湿った感覚がある。手のひらに付着するものを認識することすら気が引けた。
知らないことを幸福とすることに共感はできないが、冷静に理解するための先延ばしは必要だ。
間の抜けた笑みを浮かべるも視線を合わせない少年をよそに祐は徐にシャツのボタンをはずしていく。
「認識にズレが生じてないか。俺が廃材置き場に着いた時にはあの光景だったように思うが。こればかりは互いの行動に掛かる時間や体力を想像できなかったのが悪かった。互いに後ろめたさはあるだろうが致し方ないだろう。それよりその短刀、貸してくれるか」
少年が口を閉ざす。笑みが消え、怪訝さを隠さず何かを考えこんでいる。
祐が最後の言葉をゆっくり、かつ強調するように繰り返すと身体をびくつかせた。
そして短刀をさっと後ろ手に隠すと今更になって意味が分からないとでも言いたげに視線を泳がせて唇を尖らせる。
心なしか吹いた息が口笛になりそこなって唇をなぞる様が中途半端に滑稽で痛々しさが漂う。
「茶番はもういい。早く」
「……危ないから、気を付けて」
「何度も言わせるな。それとも、そんなに誰かに頼んだお誂えの環境でしか生きられないとでも言いたいか」
 一段と低い声を受けてついに観念したのか、両手を上げるポーズをした後に少年は短刀を差し出す。
祐は血を吸って重くなったシャツを脱ぎ、裾を短刀で切り取ろうとする。
刃を良くもうまく生地を切り取ることができず角度を変えて動作を繰り返す。次第に力が入って寄る眉に少年は楽しげなような口元になってついにくふくふと笑みを漏らす。
「それ、切れ味はあまりよくないんだ。獣に類するものの肉を斬ってる。きっと脂で駄目になっているよ」
投げられた言葉の方向を一度睨み、布を貫くように刃を突き立てると最後には布地を引きちぎった。
ぎこちない手つきで右手へ巻き付け、上からネクタイで強く絞める。少年は預かっていた鞄とブレザーをどこからか持ち出して祐に差し出していた。
慎重にブレザーを羽織る。
ブレザーの釦を止めてしまえば引きちぎったカッターシャツの姿はほとんど目立たなくなる。
襟が血まみれなくらいだが、これくらいであればすれ違う程度では気にならない。
地面に座り込んでそれを眺めていた少年は祐が何事もなかったように偽装したがった姿に感嘆して手を叩いた。
祐は苛立ちを隠さず短刀を突き返す。痛みに眉が寄るも、これでも痛みはかなり引いている。
ようやくふざけた調子の戻りつつある少年に妙な力を指摘する気力もないまま、学生鞄を持ったまま横目で見つめる。
「もういいだろう。早く出口に案内しろ。幕引きだ」
 いつの間にか獣がもたらしたという霧は姿をなくしていた。
住宅区画へ特に会話もないまま歩いていく。大通りの近くまで戻り、路地を何度か折れる。
狭い石の階段を上っていくとちょうど人がひとりずつ通ることに適した小さな石造りの鳥居が見えた。
鳥居を飾るしめ縄には紙垂が下がっており、空気が澄んでいる。
この場所だけ明確に日の光が当たっていて、細かな塵が発光するように光を返している。
突如現れた鳥居の存在に対して、祐はこの辺りの正しい地理を思い浮かべる。
この辺りに拝殿を構える神社はないが、簡易的な鳥居と岩を祭っていたことをふと思い出してこの土地と深く関係のある事柄なのだろうかと遠くに思考する。
階段を踏みしめる祐に対して階段の下で立ち止まったままの少年の表情には未だ影が残るが、道中に「暗い顔をされては不快」であると言った祐の言葉が効いているようで、努めて明るく振る舞おうとしていることが感じ取れた。
「さあ、きみの言う"出口"はここだよ」
 ふと、ここは一体何だったのか、女子生徒の獣の関係性は何だったのか、何より少年は何故、名乗りもしない自分の名前を知っていたのかと疑問が水底から湧き上がってくる。
それらは水面で弾けて、揺らぎを作るばかりだった。
揺らぎは、どんな干渉を受けても揺らぎのままだ。
いずれ平静を取り戻すことを待つ以外に凪を取り戻す方法はない。
それを仕方のないことだと言えるのは、少年が何一つまともな言葉で返してくることが想像できなかったためだ。
 何事も無かったように生きていくだけだ。
知ったところで何かを変えるわけでもない。
そう言い聞かせて鳥居をよく見る。向こう側は水鏡に映ったように景色が揺らめいている。
少年の後姿と端々の言動がこのまま終わらせるべきではないと語りかける気がして振り返ると階段の下で鳥居に寄りかかっていた少年が不思議そうな顔をしている。
「鳥居を潜れば帰れるよ。それとも、まだ傷が痛むのかな。なるべく感じないようにおまじないをかけたつもりなのだけど。……おれ? おれはまだやることがあるから一緒には行けないんだ。ごめんね」
駄目押しするように言った彼は寄りかかっていた身体を起こし、祐の後ろに立つと背中をそっと押した。
「えー!もしかして、信じられなくなってしまった? この先が怖いところだと思うの?」
茶化した少年の声は言葉尻に向かって静けさを取り戻す。
「……ねえ。また、会えるかな。今度はおれ、もっとうまくやるよ」
「二度と御免だ」
心底嫌そうに言った祐の顔を見ては唇を噛む。目頭に寄る皮膚が哀愁を漂わせている。太い眉に力が入っている。
細切れの息遣いで笑うと小さく頭を振る。
そして長い睫毛を瞬かせた次の間にはけたけたと笑い、少年は明るい髪と、すり切れた着物の肩を揺らした。
目を細めて下瞼を厚くする様はどこか子犬のようだ。手を小さく振る姿がじゃれつく姿によく似ている。
動物を特別好ましく思わない祐は、なんだか様々な動物の複合物のような男だな、という簡素な想像をしているだけだ。
「そっかあ。さ、早く帰って休んだ方がいいよ。あまり話をするのが好きじゃないのにたくさん話してくれたでしょう」
その言葉に振り返ることもなく歩き出したつま先が、水面のように揺れる空間の境界に触れる。すると今まで見ていた暗がりを塗り潰すような光が祐を包み込んだ。
進んでいるという感覚はあまりなかった。ただ、背後に佇む言いようのない不安から遠ざかるほどに光は強くなっていく。
ついぞ目を開いていることが出来ず、瞼を閉じると眠りに落ちる直前に似たような抗う気力も起きないほどの心地良い微睡が訪れ、ゆっくりとぬるま湯に沈んでいく気分になる。
暖められた草木が芳香を放つ前の凛とした朝の匂いがしている。
祐は波に揺られている意識の紐をゆっくり手放した。

 べた塗りにした空はどこまでも続いている。
遠くに白む空気の薄い層がこの町を孤立させるように囲っている。山の向こうに何があるのか全く予想がつかない。
ここに人間の住む町を持ち込みたがっているこの世界の理は、存外、この町以外はどうでもいいのかもしれない。
ひどく愛着のある作りだった。とはいえ、ここがここだけで生きていけるわけではない。
思考は枝のように分かれていく。
 石造りの鳥居の下で、少年は両足を投げ出していた。
重くなる瞼につられて霞む視界の中で己のぼやけた手の輪郭をなぞる。小刻みに震えているのだと気付くことに時間がかかっていた。
人懐こさとは少し離れたところに薄い笑みを浮かべ、逸る感情を落ち着けるように深く、深く息を吐く。
氷の色をしている。光を受けてそこに沈んだ光が見え隠れする瞳の色だ。
ずっと待っていた。
張り詰めた表情の中で、きっと今まで生きてきた中で彼が置き去りにせざるを得なかったであろう幼さが滲んでいる。明りに背を向けて冷たい海を臨んでいる。遠くの灯を待っている。
独りよがりで、孤独を孕んださみしい横顔だ。
おれの声を聞いて振り返ってくれた。
少し驚いて、警戒する表情が少年の思う"置き去りにせざるを得なかった幼さ"を思わせてどこか愛しい。
なんでも知っていそうなひとだったけれども、なんでも知っているわけではないのだと実感できるからだ。
ぼんやり浮かんだ思考に、ようやく自身の気持ちが上向きになっていることを少年は自覚し始めた。
「だいじょうぶ。おれはおれのやるべきことを全うするよ。そこにおれの意思は……必要ない、のかもしれない。けれども、きっと、たぶん。いや、今考えていることくらいは許されるさ。おれ、間違えてるかなあ、どうかな。きみが教えてほしいな。……祐」
淡い土の色に彩られた緑が瞼によって遮られる。
漏れ出す小さな笑みは、静かな息遣いに変わるばかりだ。
すっかり土に汚れた素足に日が差すのを待っている。



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