今に手に持つすべてを叩きつけたい衝動と理性の往来で吐きけを催す気分になっていた。
そのような感情の大波に襲われている最中で、なぜだか、祐は途端に馬鹿馬鹿しいことをしている気分になる。
悲しいことに人間は己が間違っていることを簡単には認められないようにできているのだ。
 壁に音を伝わせて悲鳴をあげる板は無遠慮に叩かれており、今更になるまでを振り返ると、その騒音はもはや絶妙な厚みのある木板ごと壁を壊す勢いなのではなかろうかと思えた。
壁際に張りつく姿は片手に金槌を持ち、もう一方の手は音を軽減させたいのか板を強く押さえつけている。
気に入ったふうで両手に大事そうに抱えていたバールは足元に転がっているのだ。
それや椅子で後ろから襲われたらひとたまりもないんじゃないかと考えた瞬間が、祐にはすこしだけ存在した。
呆気なく倒れるんじゃないか、と思ったのだ。そこに這う血の色は一体どんな色をしているのか一瞬だけ想像した。
正しく人間の色をしているだろうか? 自分とはこんなにもかけ離れた人間の血は――。
そう考えたのだ。
ほんのすこしの、僅かなものである。伊三路の言葉を引用するならば『小指の爪の、白いところくらい』だ。
しかし物騒なことを考えるうち、金槌の打つ音が数字を数えるように小刻みに響くたび、祐のなかで感情は冷めていった。
首から上の頬だけ氷を押し付けられたかのようにしてスーッと冷たくなっている。
 ここ一ヶ月近く、長らくを暗い気持ちに支配されていた。
己の生活に対して何という選択肢はないし、今まで意図して避けてきた他人とわざわざ関わらねばならないし、おまけに茅間伊三路に対して学校で世話を焼かざるを得なくなればなるほど容量の悪い自分ではうまくいかないことも多少はあったのだ。
少しずつ蓄積された負荷に、結崎美洸からの電話という爆弾級の衝撃が与えられたわけである。
そして、思い知る。
ここに居る非日常はとどのつまるところで己の生きやすい世界ではない。
逃避行はどこにもない。
従うということを選んだのも自分だ、と思うと馬鹿馬鹿しくなった。
おまけに、もとより他人と比べて同じ土俵に立たない選択をしたのも自分だった。ただ、だからといって今ここを折り返して軌道を修正する術も知らない。
ひとつ山を越えたところで冷めただけだ。今現在は谷底に下りきったところである。
何を思うわけでもなく、ただ、疲れたか折れたかをして、別に今はそれでもいいか、と思ったのだ。
 無意識に唇を舐めて、つま先で床を蹴る。
椅子は転がったままだ。ただ、バールへは静かに手を伸ばしていた。
「釘の頭が錆びているのだけどれども、きちんと外れるかなあ。もしかして、これが外れないということを敵は知って、疲れたところを狙おうとしているということであったりする?」
唸り、前を向いたまま手探りでバールを取ろうとした伊三路の指先が何も掴まない。
それに気付いて振り返ると、その視界に影がかかる。何も掠めない指先が強張って、曲がったままビクリと跳ねた。
「う」、と伊三路は言葉になりかけた音を詰まらせ、すぐ後に「わあ~」と気の抜けた声を上げた。そしてしりもちをつくほどではなかったが、後方へ大きく仰け反る。
「びっくりしたあ。殴られるのかと思った!」
「馬鹿を言え、声をかけなかったわけじゃない。騒音にかき消されたんだろう」
「そうなの? まあ、今日は特別にきみの声も元気が少ないしね。ごめん、気が付かなかったよ」
 これは嘘ではなかった。
伊三路がトントンとかわいいらしい音では少なくともないような音を立てているあいだ、祐は三度も声をかけたのだ。
考えごとか、金槌の音がうるさいのか、はたまた今晩の夕食のことでも考えていたのか、返事がなかったのである。
確かに、祐は「おい」と「もういいんじゃないか」を少なくとも三度は繰り返して言った。証明する術はなくとも、確かなことだった。
「まあ、ちょっと、おれも考えごとはしていたけれどもさ。木の目を見つめ続けていたんだ。釘のこととか、この木材はおれも知っている木だろうかだとか。年輪のことをね」
「そうか。それで? これは杉だったか。それとも檜か」
 抑揚の少ない声音であったがその返事に伊三路は大層満足をし、祐が猫を払うようにゆるく指先を曲げた手を前後に動かすと反射的に場所を譲った。
そして二秒間、祐から放たれるであろう次の言葉を待っていた。大概のところ、「何の意味がある?」とでも言われると思っていたのだ。
しかしその二秒を経て、ようやくに壁に寄るなと言った相手が壁と向かい合っていることを思い出した伊三路がポコポコと湧く湯のように小言を言いかける。
何から言うべきかとにかく嵐のような小言よりも早くバキッ、という乾いた音が先に響いたために伊三路は大きな音に肩をビクつかせ、そして言葉を呑んだ。
 木板の下部に曲がる先端を上向きに挟んだ祐が横倒しにした椅子のフレームに少々高い位置の支点を作り、鉄製の柄の部分を勢いよく踏みつけたのだ。
てこの原理によって支点から離れた場所に勢いよくかけられた力は増幅し、跳ねあがる動作で板を内側から殴りつけた。
こうして手で剥がそうと思うにはやや厚い板は簡単に吹き飛び、破片が伊三路の顔の横をすり抜けては階段の上空を飛び超えていった。
静かになったと思えば木切れと化した板は小上がり程度の階段の下に転がっている。
それを見ると随分と距離を稼いだようにも見えたが、その実、階段の傾斜によって地面を計れば求められる距離を無視して空を飛んだだけだ。
 唇を半開きにした伊三路が恐る恐る祐へ視線を戻すと、板の全てが弾き飛んだわけではないことを知る。
左上の釘が抜けかかっているものの、まだ壁に縋っており、祐はそれを先端の曲がりが二又に分かれている――釘抜きとしての側面をもつ部分をうまく使って無慈悲に引き抜いた。
壁に埋まっていた部分は錆のない釘が伊三路の足元に転がる。
祐は剥がした残り部分の板を取り去ると伊三路に手渡した。
「あ、ありがとう」
「……俺は、たぶん、お前のことが嫌いなのだと思う」
 鍵が紛失したために鍵開けを試みるいたずらの防止策として極めて乱暴、かつ極端な答えである手段として木板で塞がれていたドアが姿を現す。
右上の釘が劣化していたおかげで見た目に聳えるような圧よりも簡単に板が外れたのだ。厚みがややあったおかげでただバールの勢いに突き破られることもなかったことは幸いである。
板に阻まれていたおかげで今よりも日焼けが進んでいない白い壁が縁取りのようにドア枠を飾り、そこへ収まる扉は現代においてよく見る姿より少し小ぶりだ。恐らく、襖や畳の規格に沿ったものに近い。
 祐は目の前に現れた扉が木製であることに少々の安堵をした。
屋外に続く隣の扉とは異なり屋内で完結する場所であったためか、ドアノブを捻りながら押すタイプでありながら木製であることに少なからず感謝したのである。
ほかの多くの教室は引戸式ドアであるために、設計や発注時点で開き方が統一されている屋上と同じく鉄扉であったとしても、なんとなく納得が出来てしまうのではないかと思っていたからだった。
 温かみを残した色付きニス仕上げの木の扉や、デザインのひとつとして彫り込まれた溝は飾りけを演出するものではないものの、少なくとも量産型として固く無表情をした現在の校舎にはあまりに不釣り合いだ。
一般的な旧校舎という概念を思わせる風貌に合わせて設置されたほうが余程に納得がいく。
建て替えた際にでも記念に残しておいたのだろうか、と逡巡したが、鍵がない以上はただの障害物だ。
使い道のないものをいつまでも取って置いても仕方がない。
記念品は過去を美化し、時に決断の一助になることもあるやもしれぬが、少なくとも部外者にとっては新たな"足し"にはならないのである。
ましてや大事にされていたのならばともかく、その上に蓋のように板を張られて隠されていたものが今になって現在も時を歩む何かと比べられるわけもないのだ。
そう思いながら祐はバールの先を一度床に触れさせた。下手に構えるような格好で、コツコツと床を叩いたのである。
もしくは逆説的にこれを捨て去ることができないからこそ、板で覆ったのかもしれない。
尤も、どちらも自分には関係のないことである。
 これもまた古く、どこか心細い恰好の蝶番の付近へバールを振り被る。
一方で、口をぽかんと開けていた伊三路は急に投げつけられた言葉に、ショックを受けているようにも、特に何かを感じているわけでもないようにも見える顔をしていた。
そして己のことを嫌いだと言いながらも方々を憂う苦悶の表情を浮かべて、扉を殴りつける祐の寂しそうな横顔をぼうっと眺めていたのだ。
痩せた木の肌を抉り、時に金属のぶつかり合う高い音がする。
「祐――」
 瞬間、砕けるような音と共に番の付け根付近に穴が開く。これを繰り返して扉の板を蝶番から分離させた祐の後姿に伊三路は手を伸ばした。
肩を掴み、祐を後ろに退ける代わりに一歩前へ出る。
肩が揺れるほど胸を上下させる姿を視界の端に捉え、告げるのだ。
振り向いて視線と言葉を交わすことはしなかった。
「……くもの相手はおれがする。祐は安全なところに居てね」
言葉遣いは柔らかいが、堅苦しい音だ。
吊り上げた目の視線が扉の先へあるであろう真っ暗闇に向いている。
しばらくの間が開く。
これに譲る気などさらさらにない伊三路であるが、この空白には思わず唾を呑んだ。
そして、固唾を呑む様は、まるで長く、膨大に質量のあるものに思えていた。
「当然だ」
 自嘲を孕む息遣いで吐き出す音はただ静かに呼吸の体裁をし、頬の汗を左手首に覗く素肌で拭う祐がバールを手放すとやっとのこと小さく返事をする。
うつむく前髪が垂れて、表情は見えない。
そしてゆらりと身体の向きを変えると、挑発めいた返事に対して口端だけに悪戯っぽい笑みを浮かべた伊三路の鎖骨辺りを拳で叩く。
そのまま手渡されたペンライトを受け取ると伊三路は眉を僅かに寄せて鼻で笑い、目を伏せた。
祐が手落としたバールを、今度は伊三路が丁寧に拾う。
次に瞼を開くときに、強い表情を湛えて自身の頬を叩き、鼓舞する。
パチン、と表現するにはやや鈍く、詰まった音が廊下に響く。正確には、ベチン、とも近い音だ。
「そうさね。この先はまさに、おれのしごとだ」
 はっきりと口にすると、鍵の部分だけでドア枠と繋がり辛うじて役割を果たしているだけのような扉を意気揚々と蹴り破った。
その勢いのまま倉庫の中へ扉だった板は倒れていく。迫る質量による風圧で暗い部屋の中に積もった埃が舞い上がるのが見えたのだ。
ドア枠に手を掛けて踊り場と倉庫室への境界を跨ごうした伊三路が、不意に足を止める。
そして差し出しかけて浮いた足を後ろへ下げた。
 祐が訝しんで視線を動かす。
その視線を横腹に受けながら伊三路が「へへ」と誤魔化すように笑い、自身のブレザーに手を掛ける。
「下の襟付きはすぐに替えが効くけれどもさ、上衣は以前にきみが結構な面倒をしていたのを見ていたから」
サッと腕を引き抜いて上着を脱ぎ、襟の後ろを合わせるようにして縦に折りたたむ。そして腕に掛けてさらに半分に折りたたむと、祐に手渡した。
「預かっていてよ。それか、下の椅子に。床は直に置くと思うと少しばかり埃っぽいからさ」
 自ら出鼻を挫いた気恥ずかしさを浮かべて伊三路は控えめに笑うのだ。
別に預かる理由もないが、確かに足元はあまり綺麗とは言えない。毎日着用するのだから簡単にクリーニングへ、ともいかないだろうとして仕方なしに祐は受け取った。
顎を引き、眉根を寄せる様がいかにも不信を浮かべていることに面白おかしくなりながら一方の伊三路は、スラックスの履き口、その尻の側に切り出しナイフを保護キャップごと差し込んだ。
首を捻り、半身で背後を目視しながら抜き差しのしやすい程度に飛び出る柄の長さを調整する。
『もっと衣嚢(かくし)の多い服だったらよかったのに』と内心で考えている伊三路に、その襟元から垂れる剣先がたなびいて困らないのだろうかと考えた祐は呟くように指摘した。
言葉と共に己の鎖骨周辺を指さし、それから振り返った格好できょとんとする伊三路の喉ぼとけあたりを視線で示す。
「ネクタイも外したほうがいいんじゃないか。その心配もあるが、動けば存外なびく」
"その"が失くしたり壊したりすることであると示しながらも、ネクタイ自体が想像よりも長さがあって邪魔なことを指摘されると伊三路はなるほど手を打った。
「たしかに!」
短く納得した伊三路がたどたどしくネクタイを外し、それを折りたたむべきか、丸めるべきか悩んで一瞬だけ手を止めた。
しかし熟考することこそはなく、また悩んだわりには先に考えたであろうどちらでもなく手から長く垂らしたまま手渡してきたために、祐は心底あきれたように息を吐きながら受け取ったのである。



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