職員室から拝借してきたペンライトの出処を知らない伊三路は一瞬だけ怪訝な表情を浮かべたものの、涼しい顔でライトを点灯する祐の隣に立った。
改めてコーヒーのぶち撒けられた廊下の一部を眺めて口を開く。
「こんなことになっているってことは、何もなかったわけじゃなかったんでしょう? 一体なにがあったのさ」
祐は廊下の奥を照らしながら刺さる視線を躱して返事をする。
「自衛をした程度だ。……それよりも、相手は壁を無視して行動できる可能性がある。事実、一見なにもない場所から現れ、先ほどは壁に入り込んでいった」
ペンタイプと謳うだけあって、光は奥まで届くものの範囲は広くに及ばない。
照らし出される円形の小さな範囲を祐は左右へ振り、照らし、ゆっくりと歩く。
「尤も、今は行動を控えている可能性が高い。一気に叩くなら急いだほうがいい」
「ふうん。それがあの廊下の様子と関係があるってこと。じゃあ、情報整理をして……居場所に目処が立ったらさくっとたたいてしまおう」
「おい、話を最後まで聞け。手持ち無沙汰が仕方なくて照らし歩いているわけではない」
 歩を早めた伊三路が真横を過ぎようとすると、祐は右手で咄嗟に目の前の襟首を掴んだ。
シャツの後ろを掴み引かれては思わず「ぐえ」と蛙がつぶれたような声で伊三路が鳴き、二、三歩をよろよろと後退りする。
そして己には一瞥もくれず、真剣な表情で目を細めては正面を見続ける祐のことを恨めしげに見上げたのだ。
「うう、なにかを探していたの?」
「先に手が出たのは謝るが、今回は違うからな。先に危険がある。あれを見てみろ」
 保健室のこととは明言せず、意味に幅を持たせた言葉が廊下の奥へ向かっている。
恨めしげの伊三路によってじっと射抜く瞳に祐が耐えかねると僅かにたじろぐものの、負けじと返すのだ。
いまこの行動に意味がないことなどないのだ、と示すように伊三路の行く手を阻んだことへ説得と誠意の弁明をする。
「あれと同じものが各所に糸が張り巡らされ、おそらくだが、触れると居場所が割れる。糸ごと触れたものをどこかへ引っ張っていった場合もあった。今の相手はどんな手を使ってくるかわからないが、迂闊には動かないほうがいい」
自分の肩口で今にむくれる姿を直視しないまま襟首をハッと離すと、祐は控えめに伊三路の袖を引く。より自らの視線に近い場所へ誘導すると一点を指で示した。
 急に腕を引っ張られ、無様にも腋を開いたまま斜めの姿勢でどれどれと目を凝らす伊三路は思わず爪先まで伸び、指先から示される方向へ視線をたどっていく。
皿のように目を細くする視界の中で揺れるペンライトの光がある。
明るいとも暗いとも言えぬ廊下では緩急がないと透明は視認できない。
呼吸で己の胸が上下するのも煩わしく息を止める伊三路は、じっと観察をして糸を探す。
すい、と視線が端から端まで泳ぎ、折り返した。
「おれは、おれが目のわるいほうではないと思うのだけれども」
 恐る恐る返した伊三路が振り返ると祐もまたきょとんとした顔に近いものをしていたが、一拍の呼吸を行き違えたのちに納得して説明を始める。
「ああ、おそらく想像しているであろう場所より上じゃないか。糸は足元だけではなく無造作に存在している。そうだな、いま示している高さは正確には腰のあたりか」
糸を照らすために漠然として見えた光の筋を壁際に追いやり、一点の高さを光で示したのだ。
まるで紙面に追記を書き足すペン先のようにスラスラと祐は付け足す。「二つ先のドア付近だ。いま、光で誘導する」
廊下を漠然と透過するよりも、さらに近くで壁にぶつかる光は高さを示すことに易しい。
そこから根本を導き出し、ようやくピカリと光を返す糸を認めるとより目を細くする。
伊三路はほうっと息を吐くかのようにして丸い感嘆を孕んだ声色をあげた。
「……本当だ。おれはきみに合流をするまで下駄箱のあたりをうろうろと歩いていたんだ。それはたまたま運が良かったのさね。教えてくれてありがとう」
それを認めた瞬間、勢いよく水を打った後に訪れる静寂に似て張り詰めた空気を知る。
後に一本や二本ではないそれを認識したことも手伝ったが、なにより先ほどまで無防備にうろついていた自身の行動を顧みては返した言葉の冷静以上に本能は背筋をゾッとさせたのだ。
言わんことを理解して伊三路は改めてわかりやすく身体をぶるりと震わせると、己の腕を撫でさすった。
「さっき、壁の中でも関係がないとか、行動を控えているだとかと言っていたけれども、この学校の間取りで一般には入れないようなところはあるの?」
「人に見つからない……引き込んだ生徒ごと隠せて、かつ脱出をさせない。安心して根城にできる条件、か」
 復唱めいて言葉を繰り返し、祐は大きく息を吐くと僅かに頭を傾けて考える仕草をとる。
思い出そうとして記憶を引っ張り出す姿に連動した無意識でこめかみのあたりに指先が触れるのだ。
後にその人差し指で側頭部を叩くように刺激しながら瞼を閉じた。
暗闇の中でぼうっと白い見取り図が浮かぶ。
図をなぞってなるべく鮮明にその場所へ立つ想像をするのだ。脳裏の光景だけをゆっくりと歩き出して連想する情報やできごとを思い出している。
 部活棟まで含めると膨大な情報量だ。なにより古く、寂れゆくだけの校舎だった。
見つかりにくいだけならば空き教室や、資料室と化している場所が山ほど存在している。
つまり、行方不明の生徒が全てそこに居るとして、仮に目覚めても簡単には出ることができないという条件。
そんな場所があり得るのか?
――思考をする。
脳裏に存在し、この妙な空間とも異なる想像上の校舎を歩いている。
何か、何かなかったか。
己に問いかける言葉が宙を回り、そのまま絡まっていく。目の奥がもやがかり、喉がつかえる。
知っている違和感を追って階段を登り、廊下の開けた一本線へ出るまえに左右を確認する。
そして、その動作こそで携帯電話や椅子が連れ去られた後の騒音を思い出した。
まるで稲妻が走る如く閃く。
その後がバタバタとしていたせいか印象が薄れて忘れかけていた。
引っ張られて何度も打ち付けるような音や崩れる音が頭上からしていたのだ。
あの音が階段の段ごとに椅子の脚が当たっている音だとしたら。
 は、と浮かぶのは屋上であるが、あれは開かずの間ではない。貯水タンクがあって定期点検が入るし、職員室から鍵を持ち出せば簡単に開く。
久しく足の向かない記憶上の階へ立った際に、廃材に近い板や錆びた椅子の置かれた風景を思い浮かべる。
埃か砂かが固まって隅に溜まる煤けた場所だ。
次に遊戯と語った言葉が浮かぶ。
ミスリードとヒントは表裏を一体にしていて、「自ら来い」という言葉には少しばかりの誘導があるのではないだろうか。
上階にはそれ以外に思いつく場所がないということも含め、ひとつを飲み下した。
 断言して確かとは語ることのできないそれに引っかかりながら、祐は根拠に近いものをひとつでも得るために昇降口のホールに張り出されたプラスチック製の見取り図を求めて歩き出した。
伊三路は考えを並べたまま前に出る祐の姿が糸にひっかからない限りは黙っておくと心に決めてはおとなしくついていく。
それから先で白く、大きい盤面に刻印された図形たちを前にして、下から上までを何度もなぞり見る伊三路が首を傾げた。
長方形の図がいくつもの仕切りで隔てられ、ときに抉れたように凹んでいたりする様を眺めて唇を半開きにするのだ。
祐は理解ができていない様をじっとりとした半目でみた後に、黒い手袋をした指先が一番下の図形を指して呟く。
「一階の間取りに対応している。一際に目立つ四角形があるだろう、昇降口だ。現在地でもある」
「ああ、なるほど! それより上に配置されている残りも上階のそれぞれを示しているってこと。じゃあ、二階の隅にある珍妙なでっぱり、これは部活棟への渡り廊下へと続くのでしょ?」
 絡まり丸まった糸の塊から先端をうまく引き出せたかの如くわかりやすく表情を明るくした伊三路は手を叩いて閃きをわかりやすく表す。
そのままゆっくりと上をなぞり、示す指先を伊三路ははしゃぎながら眺めているのだ。
そして屋上に続く階段の踊り場だけが描かれた極端に小さな図形を指す。
「屋上だね」と先回って答える伊三路が祐のほうを得意げに見ては、正解と返されるのを待っていた。
「そうだ」
正しく、そうである。といったふうに答える祐の指先が、もう一つの意味を示すようにトントンと指先を鳴らす。
 淡白な返事に意味を見出せないでいた伊三路であるが、指の示す空白に対してよく目を凝らすと後になってから修正を加えたような継ぎ目がある。白色のビニールテープを貼った簡素なものだ。
近付いてゆっくりと眺めれば異なる反射を以ってする秘匿の存在に気付くことができるが、巧妙なそれは精々のところ流し目で見る大勢や、もとよりその秘匿の存在を知らない生徒にとっては瑣末なものだと思える。
一目見る程度では目立たず、最初からそれがないものに見えるのである。
上から貼り直された何かがあることは理解できても、その場所に何が存在し、何を示しているのかを伊三路は知らないのだ。
概ねがこの事態に関係することとして黙っていながらも、祐の言葉である“次”を待っていた。
「昔は屋上脇に備品置きの倉庫があったと聞くが何年か前に鍵を紛失して以降、鍵開けを挑む悪戯が絶えないために上から壁板を貼ったと聞いている。故に扉の閉まるような音の正確な説明はつかないが、少なくとも本体は壁に影響されない。そして俺は蜘蛛と少女の半々をした蝕から鬼ごっこのようなものに付き合わされていた」
「それはまたずいぶんと危険な」
思わず相槌が勢いで口を挟もうとしたことで祐の視線が僅かに動いたために、伊三路は誤魔化して目をそらすとコミカルに戒めの感情を示して上唇を舌を覗かせて舐める。
「張り合わせた板が存在するだけに閉まる音に関して一口には説明できない。ただ、鬼ごっこは俺が捕まる前に相手の元にだどりつければ敗北を認めるというものでもあった。ならばこれはヒントでもあるかもしれない。なによりこれだけを揃えて他に目ぼしい場所がないならば確かめない理由がない」
「確かに、わかりやすいくらい絶好の場所だね。板や扉は何製?」
「理由が理由だ、明らかに目立つようにはしない」
 一学年の時分に何度か訪れた風景を改めて思い出す。
半ば廃材じみたそれらと木の薄い壁板一枚が釘か何かで打ちつけられていたものだと薄れた記憶が語りかけている。
本来のところ不必要を備品として調達するならば、安価を求める。
なるべく軽くて上階まで運ぶに苦労をしないものが最も良い。留め具の長さや形状が特殊であるほど高価になるならば、薄い素材にすれば最も普遍的な長さに収まる程度の釘で事足りる。
そう考えるのが妥当だ。ならば留めるものが釘でなく横幅のある針のようなものであっても、隙間さえあればバールを引っ掛けて壊すこともできるのではないかと考えていた。
「その他を想像程度に推測しても概ね木製か、他でも大したものではないだろう。バールがあれば壁板は困らないが、扉はどうする。壊すのか」
「鉄でなければ壊してもいいのではない? 中に行方不明の生徒が入れば扉くらい瑣末なことさ」
「居なかったら大した問題だということだぞ」
知らん顔の伊三路が企みを浮かべて、なんでもないかのように答える。
「それでも、目撃者なんてひとりもいないんだよ。おれたちのせいってことは誰にもわからないのさ。もう一回と言うけれどもね、外から見れば扉は勝手に、ひとりでに開くのだもの」
「お前な」
「ものだっていつかは壊れる。壊れると壊されるとではまた違うことがらでもあるけれども、今回の天秤は残酷だったね」
 見取り図の文字を追いかける目と横顔を見下ろしながら祐は言葉を失う。
自らその場所以外に不自然に人が入れない場所がないと語り、ならば確かめるべき事態でもあるという理解はある。
それを差し引いても、とにかく目の前に立つ男の過激さひいては絶妙に行き違う価値観や常識に対するその他感性の齟齬を久々に正面からガツンとぶつけられては咄嗟に次が思い浮かばなかったのだ。
「金属でも劣化しているならば弱い場所というものがひとつくらいはあるさ。おれは扉をあけるよ。それで、その例えに出る"ばーる"というものはどこにあるの?」
 拙いカタカナの発音をしながら、唇を丸める様で語尾が膨らむ。
確かにどうしようもないことには同意をする祐が頭を乱雑にかき混ぜてはぶっきらぼうに答える。
「どうだか。職員室か用務員室のどちらかにはあるんじゃないか」



前頁 目次