椅子に座って眠りかけていた身体が不随意の運動を起こし、無意識にびくりと跳ねあがった足が派手にゴミ箱を蹴る。
中身の入っていないゴミ箱が転がる騒がしさと同時に、机に伏せていた顔を上げた祐は詰まっていた呼吸を思い出したかのように息を吐いた。
現在の自分がどこに存在するのかを確かめるために周囲を見る。
微かに暗い屋内であるが、天井に備え付けられる暖色のシェードの奥から降り注ぐ照明の光が明りを行き渡らせている。
間違いなく普段の生活を営むための部屋だった。
薄っすら額に浮かんだ汗のぬるさを知ることもなく、呆然として天板の木材に浮かぶ模様の目を見ている。
次に立ち上がって閉めていたカーテンから外を覗く。
そこから見えるのは総毛立つような無機質の色ではなく、夜の暗闇だ。
正確には暗闇を明るい場所から見ているためか、窓硝子の内側の祐とその生活を送る部屋がはっきり映り込んでいた。
固まった表情のまま自虐めいた息を吐き、祐はよろよろと椅子に座った。
 少なくとも日常より非日常に夢見ることが退屈の裏返しだとしても、こんな生活が続いていくなんて冗談じゃない。
『マシ』の比較で語る論などに大した意味など存在しないことを見せつけられるようだった。
疲れている時間も惜しく、ならば勉学や家事の続きをしなくては本当に時間の無駄だけで夜が過ぎる。
そう考えた祐がノートを手繰り寄せようとすると、同じく机の天板上で携帯が震えていたことにやっと気がついた。
なるほど目を覚ます前に意識を裂いた騒音はベル音を模した着信音だったのである。
過剰になりつつある意識のせいで見た単なる夢であるのか、蝕という生物の精神干渉だったのか。
汗をかきそのまま拭うことなく冷め乾いた身体が僅かな不快を纏っていることや、身体より精神に目立つ疲労からも、どちらかと選ばされれば後者であろうと思いながら祐は上半身を伸ばして携帯へと手を伸ばす。
 着信画面には結崎美洸という名前が表示されていた。その名前を見た瞬間、再び身体は背に氷を投げ入れられたように急速に冷えていく。
冷たい手に首を掴まれたかのようである。
胸にのしりと重いものを抱えたまま、視界に入れた以上は無視することもできまいと祐は電話を手に取った。
「――もしもし? ああ、もう、よかった。やっと電話が通じたわ!」
「はい」
不機嫌に砂糖をまぶすことで取り繕ったような抑揚をする美洸の声と、掠れた祐の第一声が重なる。
「やっと」の言葉は詰まる音でたっぷりと間をとり、そして不機嫌ながら確かに喜んだように明るい声音へ語尾を上げていた。
気味の悪い夢のせいかこの電話に対する緊張のせいなのか定かではないが、今更になって喉がカラカラに乾いていたことを自覚していた。
無意識のうちに喉元へ手を伸ばし、微かな咳払いをする。
「こんばんは、祐くん。ええ。お母さんよ。心配したわ、でも、急な電話で驚いちゃったでしょ。元気だった?」
「こんばんは。すみません、仮眠をとっていたのですぐ電話に気付くことができませんでした。健康については問題なく過ごしています」
息継ぎが上手くできず、引き攣った息遣いを交えて祐は返事をする。
「その、何度も掛け直させたのならば申し訳ありません。わざわざ電話をくださるということは何か……重要な用件でもございましたか」
電話越しの美洸は手間をかけさせられたことへの不満をわずかながらに引きずってぶすくれた声音を滲ませていたが、素直に謝罪をする祐の声を聞くとそんなものは最初からなかったかのように笑うのだ。そして細めた目のなかでも確かに相手を見やり、様子を窺っているような悍ましい猫撫で声で執拗に心臓の縁をなぞった。
「一人暮らしは不便が多くて大変よね、ごめんなさい。家事に追われて疲れちゃうなんて可哀想に。家政婦を遣わせましょうか」
「いえ。勉学に差し支えはしません。これも望んだ社会経験ですから、お気持ちだけ……いただきます」
返事をしながらも「やっと繋がった」という言葉を聞いてそんなに寝てしまっていたのかと祐は置き時計を横目で確認する。しかし時間は仮眠を取り始めてから一五分も進んでいない。
本当にこの時間内に複数のリダイヤルがあったのか? それとも己の経験と実際の時間の流れが食い違っていたのだろうか。
時間という経過を表す数字が嘘をつかないというのならば前者の可能性が高い。そのことを察しながら祐は内心呆れるも電話口に集中する。
「でもね、『何か?』も何もないわ。ないの、祐くん。本題だけど、このまえ制服を新調したんでしょう? 今日のお昼に生活指導の先生から連絡がきたのよ」
「はい」と僅かな沈黙の後に相槌を打つと愚痴を高々に語るようにして美洸は続ける。
 小鼻を膨らませるほど力み一生懸命に語る言葉を祐は淡々とした感情で、なるべくその心を凪にして聞き続けるのだ。
「心配はしてないけど一応って前置きはあったの。でも、何か聞いていませんかって。まったく以って失礼よ。でも、確かに親元を離れてるし……お母さんは信じてるけど、祐くんがヘンなお友達と遊んでいるんじゃないかってすこぉしだけ心配になっちゃって」
一体何を言われるのか息を呑んで聞いていた祐は拍子抜けの話題に一瞬だけ呼吸のリズムが乱れた。それだけにあまりにくだらないもので気が緩みかけたのである。
わざわざ電話をよこす要件ならば模試の結果だの定期考査の成績だの、はたまた父親に対する感情の話を聞かされると思っていたのだ。
事実、過去に電話が来た際のほとんどがこのいずれかの内容でしかない。故に驚きを隠せなかったのだ。
強いて揚げ足を取ろうと思うならば、電話する理由の本題がそれならば随分タイミングがずれている。
制服を新調したのもそこそこに時間の経った話なのだ。
本題を切り出しているようには見えない話の切り出しを怪訝に思った祐が眉を顰めながら返答を続けていた。
 呆れたり、訝しんだりするのもやがて追いつかなくなるほどの雪崩の如き言葉を怒涛の言葉そのままに浴びせ続ける美洸の言葉を聞く祐は『ヘンなお友達』と聞いてふと伊三路の顔を思い浮かべる。
そして「ああ、ある意味では」とも思う。決して口にはしないものの、ある意味では"ヘン"であるために十分たる素質を茅間伊三路は持っている。
思考が意味もないことに傾きかけるのも、改めて美洸が語るものは素行の悪い友人という意味であって、そうであれば祐の脳裏に浮かんだ伊三路はそれに該当する人間ではない。
悪意も素行の悪さもなく、ただへらへらとして、そうかと思えば核心に触れる言動のことが時たま癪に障るだけだ。
脳裏で締まりなく笑っている顔を思考の隅に追いやって想像上の姿をかき消した。その間際、どうしても彼を語るについて回るようなあの透明を見透かす瞳を思い出して思わず唾を飲む。
ある意味ではそういった外見の人畜無害が悪い人間である場合もあるが、それはどんな人間に対しても同じことが言えるのだ。
一つの面で判断することなど到底に出来ないことであり、強行するならばただの傲慢である。
脳に蔓延る靄を払うべくさらに頭を振る。
そんな話をしているのではないのだ。目の前の人間の言葉に自分は耳を傾けねばならない。
寝起きだろうがなんだろうが、今この瞬間のために頭を回せ。
祐はその言葉を何度も自分に言い聞かせていた。
「少なくとも交友関係において、その類の問題は認識の限りありません。制服については引っ掛けた際のほつれが大きく、見てくれの問題があるとの結論により銀次さんに検討をお願いしました。また、この生活においては自分なりに勉学を一番にしているつもりです」
「そう、そうだったのね。父さんったらほんっとうに私にはなにも言ってくれないんだから……! 大丈夫よ、きっと真面目にやっていると思っていたの。わざわざ祐くんに強く求めて聞く内容ではなかったわね」
 質問に答えた祐の『勉学を優先して学校生活に励んでいる』という言葉には「そうよねえ、そうよねえ」と満足したような、それでいてなお探りを入れる様子で喜び、続けて幾つかの言葉を並べている。声色は上機嫌に語り続け、反対に祐はげんなりとしていた。
次第に唇が痺れるような感覚さえある。
答えられないこと以外は正確に話しているというのに、あくまで質問されたことを答えているにすぎないというのに、それらすべてがでっちあげた過大評価を自ら嘯いているような気分になるのだ。
その度に祐の胃がきりりと痛む。いったい自分は何の話をしているのだ、と自問したくなるのである。
質問されたことに自らが答えて日々行っているという生活の説明がひどく遠いもののように思えて仕方がなかった。
息苦しくて仕方がない。
内側からジクジクと鈍く響くそれに背中を丸め、痛む胃の辺りを服の上から掴む。
ただ、客観的にそれを想像した際に労ってやろうと思えない姿をただ荒んだ目玉で見下ろしている気分だけが浮き彫りになるのだ。
 美洸は電話口で祐が蹲りかけて苦しんでいることなど露知らずに話を続け、遠い土地の忙しい生活と他人に対して無関心だという人間の往来、コンクリートの街で操作された流行を語るばかりだった。
「今日は変な電話になっちゃったね。生活指導の先生も祐くんはとても模範的で、優秀で、生徒のあるべき姿だと褒めていたわよ。だからとても心配だとも。お母さんはね、在籍するたくさんの生徒の中でも特別に気にかけてもらえるあなたを誇りに思うの。努力していることがすぐにわかる。それは本当にすごいことなの! 本当に自慢の息子よ!」
 瞼の殆どを伏せて視界が細くなっていた様を諦めた祐はすっかりと目を閉じ、なるべく動揺をしないように遠くの空の色を想像していた。
明日は晴れるだろうか、と結果が何だとしても何にも差し支えないようなことをぼんやりと考えている。
どこまでいっても突き詰めればただガランとしたもぬけの殻だ。空虚であるのに散らかった無感情の部屋が浮かんできてしまうのである。
身体は冷え切ってしまいに頭の中に蔓延っていた靄でさえ冴えた冷たさに対して明確な反応を示している。
どんな言葉を返せばいいんだ。満足をする?
最適解が求められないことに苦悩しながら、遠くで洗濯機が止まる音がする。甲高い電子音だ。
 やらなくてはならないことはまだ他にもいくつかある。
頭の中でそれらを列挙しているうちに、どうでもよくなる。
こんなこと考えたって最優先は生活を継続することだ。すべき内容を挙げてもそれらをこなさねば意味はない。
それも、自分の生活できるに困らない最低限ではない。相手の納得できる平均値よりも上の期待を満たさねばならない。
ならば仕方のないこととして意味は通る。
この会話に実るものはない、というのは双方がなんとなく知っていることだ。
祐は見通すことのできる程度に考えの一本を浮かび上がらせると、美洸の機嫌による様子からも理不尽に詰られることはなかろうと言葉を続けた。
「ありがとうございます。……あの、すみません、まだ家事の少々と課題が残っているので、他になければ」
 催促の言葉に美洸は言葉を一度打ちとめた。
耳の奥がつきんと痛む。祐は緊張していた。
「あら、そうなの?」そう返す言葉は特に不機嫌もなく、不意の言葉で話題が変わったことを純粋に聞き返すものだった。
内心のうちでどこか安堵をしていた祐はこの後の選択肢を間違えてはいけないとして美洸の言葉により耳を傾ける。
「ああ、確かに。いま遠くで電子音がしたね。洗濯機回していたのかしら。なら早く干しちゃいなさい。もっとお話ししたかったけどお勉強もあるもの。そうね。仕方ないね」
「またの機会に預けさせてしまって、申し訳ございません」
「ええ、いいの。また電話させて頂戴ね。元気そうな声が聞けてよかった」
半年ぶりほどに聞いた母親を自称する女の声は、存外にあっさりと引いて電話を切るのだった。
一体何を言いたかったのだ。制服のことであれば進級の挨拶だ。
勉学のことならば一年のうち二、三度何かを確かめるようにしてくる電話における定番の内容であるが、それならば夏休み前の定期考査後のほうが確実ではないかと思うのである。
何を探っている? 進学先のことだろうか。
 祐は携帯を耳に当てたまましばらく無機質に繰り返される切断音を聞いていたが、区切りがついて終わったことを再確認すると糸が切れたようにして机に伸びた。
は、と思い出したように呼吸ともため息とも境目のない息を吐き出すと、堰を切ったように煮えたぎった感情が押し寄せる。
昇華のしがたい幾つもが複雑に絡み合った感情は灼熱に滾っては次第に身を内側から焼き尽くすかのようだ。
幾つもの感情は最終的に撚りを一つにしてはそれぞれ憎しみと諦めという二点に帰結する。
常にこの生活を甘んじる原因を思う憎しみだとか、未だどこかで何かの期待を持っているせいなのか勝手に裏切られた気分になるだとか、つまり意味のない悲しみや、何も成せないことを自覚する無気力を知っている。
そしてそれらすべてが改善されることはなく、望む己が愚かなのであって、この思考に宿る感情の多くは不必要であるべくだった。
焦りを感じる。渇いているのだ。
仮に肉親との関係が改善されたところでこれらは満たされることすらなく、底の抜けた何かに漠然として落ちるような感覚だけが残っている。
底抜けの中に水が溜まるはずがない。そうっとして何かの、存在しないはずの暗い底を見つめているのである。
――落ち着け、いつも通りの事だ。ならば焦る必要はない。そうすることに結果としてついてくる意味もない。
何度も言い聞かせては浅く短くなっていた呼吸を整えるようにゆっくりと息を吐いた。
 畳みかけるように訪れた精神的な疲労に対し、次に設定したアラームが鳴ったら熱めのシャワーを浴びてさっさと寝てしまおうと思考し、再び机に伏せるのだった。
 瞼の裏で思考を掠める光を見つめている。
光は曖昧な明滅を繰り返し、時たまに弾ける。それらが常に感ぜられると意識も宙ぶらりんのままだ。
身体は静止したまま煮えた灼熱に内側から満たされていく。耳の奥でキーンとした音が響いていた。
まるで長らく暗いところから、照り付ける光に焼かれんばかりの日の元へ引きずり出されたかのようだ。
喉が渇いている。
干からびた身体が朦朧としながらも強烈に何かを求めていた。
皮膚がざわつくのだ。
何も脅かされていない肌に這う不快である。
思考が空回っていることに気付く。
底抜けに落ちていくようながらも、中途半端な現実に固定されている気分だ。
過干渉の声がそこら中に反響している。
母親を名乗る結崎美洸の甲高い声だった。
 三分としないうちに弾かれるようにして顔を上げた祐は落ち着きなく立ち上がると、強張った表情のまま淡々と残りの家事をこなした。
きっちりと襟元と裾を合わせて衣服を干す。そして食事の気力を失ったいま、夕食は不要として準備や後片付けの工程を飛ばして水回りを水滴一つなく掃除する。
トイレを清掃し、床に掃除機をかけ、それらの及ばない細かい箇所は自らの手で拭き上げた。
最後に玄関で生活ごみの整理を行う。
決まっていることだけをやればいい。その間は何か余計なことを考えなくていい。
求められることに嫌気が差しているはずであるというのに、祐は用意されているものをなぞるだけがこんなに楽なのだということを知っている自分が何より許せないでいるのだった。
 シャワーを浴びたのちに風呂場も水垢や汚れの防止程度に水滴を拭き取り、清潔を保つための溶液を流す。
全て終わらせたのちに、まだ解いている最中で放っておいた課題を再開しようとして椅子に座る。
そしてノートを目の前に広げ、ペンを持ち、祐は頭を抱えた。
いまは何も考えたくない。こんなことに何の意味があるのだ。
数字の並びたちが見たこともない言語に思えた。
左手で額を覆い、俯く。こんこんと吐き気がしていた。
怪我の痕跡もないはずの左手に這う黒い痣の蠢く様を知覚すると、祐は瞬発的に目を焼いては昂った感情のままに右手に持ったペンを叩きつけたい衝動に駆られていた。
もはやぶら下がっただけのような理性によって留まった右手が振りかぶる体勢のままひどく震えている。
馬鹿じゃないのか、くだらない。
頭を振る。
ページをめくったまま真っ新なページに移行したノートを見つめていた祐はゆるゆるとした手つきでペンを置く。
「……一体なにがしたいんだよ」
 まるで糸を細く引き伸ばすかのごとくにか細く、揺れた声音だ。喉が震えるとする表現そのままの様だ。
祐は背凭れに大きく背を預け息を吐いた。
素手で顔を覆うと内側で血の透ける暗がりが心地よく視界から光を奪っていく。
今日は早く休んだ方がいい。絶対に。
仮にやり残したことがあっても、明日のやるべくことが少々増えるだけだ。
僅かな動揺と共に意識を明確にさせると夢と現実の境が曖昧になっていた。
正しくは、祐は電話が来る前に見ていたはずの夢の内容を思い出すことができないのだ。
理由もわからず酷く疲れた身体のうえに、さらにストレスを浴びている。
今すぐ身体を投げ打って寝てしまいたい。
しかし、その逃避すらはっきりとした選択肢として頭に浮かばないのだ。
つまるところ今日という日は何もかもがよくなかった。
そういう日だったのだとでも言わなければ救われもしなかった。もはや気晴らしに夜の散歩などという脳天気もない。
目を瞑るだけでもいいから、さっさと思考を放棄してしまいたいと考えている。
「誰も望んでいないことで勝手に苦しんで馬鹿みたい」
その言葉を自分が放ったのか、はたまた何かがそう思わせたのか思考もできないまま、ふと手を退けて光を見た。
 照明のシェードを直視しかけて目に焼き付く強い光源から逃げて顔を逸らすと、視界の端に小さな靴を履いた足元が見える。
だらりとした己の首が向く視界の先にこどもが立っていたのだ。
身につけるものをすぐに汚すような活発な幼年期に履くにしては上等すぎる革製の靴だ。ご丁寧なことに脱げ落ちてしまぬように足の甲にかかるストラップがついており、金属のパーツは簡素ながらも美しいツイストを描く。よく見ればそれは見慣れたデザインだった。
その時点で認識することを辞めておけばいいものを、祐はほとんど自覚し得る自分の行動ではないところで、それを見た。
気まぐれに現れてはただこちらを見つめているのは初めてではない。幼いころの己の姿だ。
 糸くずを丸めたように感情がない淀んだ目をしている。脱色したばかりの紙のように不健康な薄暗さをした皮膚の色だ。
刺繍入りの襟をした半袖のシャツに、サスペンダーで吊り下げた膝の見えるスラックスの姿をしているのである。
感情を思わせない顔つきをしているというのに、明確にこちらを蔑んでいることだけは理解が出来る。
いつもそうだった。楽しくも悲しくもない、退屈ですらない表情で、それは語りかけるのだ。
先の言葉の続きを語るかのようで、祐は理解をする。
『ああ、幻覚めいたものが勝手に言葉を言い聞かせてきたのだな』と都合よく思うことにしていた。
「自分という定義なんてどこにもないって思っているくせに」
「……都合の良い一面だけで定めたそれに意味がないことも事実だろう。内外に生じる差異の大小など瑣末にすぎない。そもそも求められることが本質として苦痛だ」
幻覚に対し、自己完結する好き勝手と欺瞞に満ち溢れた返答をするなど、疲れているに決まっている。
ただ、それが今をやり過ごすことの免罪符になるならなんだっていい。
そう思いながら自覚たっぷりの言い訳めいた言葉を返すと、糸が切れたかのように自由になった暗がりが落下の速度を恣にして下りてくる。
 狭くなる視界に幼い己の姿以外の汚れひとつない真っ新な裾が映っている。
まさに瞼に遮られている最中である切れ目の形をし、霞む視界だ。
そこへ映り込んだ穢れなき白から、その空恐ろしくなるような白の影から素足が伸びているのである。
下がりかけていた瞼がビクッと痙攣じみて跳ね返される。筋肉が極めて緊張の様相をして張り詰めたまま固まっていた。
「積み木遊びに友ができて、それで? それを自ら疎んでいながらも自覚のないところで、他に救いめいた期待を求めるというのはおかしな話と思わぬか。全く以って人の子は愚かだ。故にお前のような脆弱な人間が売られ、差し出されをして搾取をされる」
 ふいに額に触れているものが少しばかり爪の伸びた指先だということを祐は本能的に理解していた。
薄い皮膚に触れる鋭く、そして脆さを同時に持ち合わせている。
「一々にしてそれを無駄であるだの、無かったことと等しいようにだの思わせる身にもなってほしいものだ」
喉の奥で笑みを浮かべている声がすぐ耳の後ろから聞こえるのだ。
知らない声だ。そう思った瞬間に、自我が否定をする。これは聞いたことのあるはずの声だ。
苦しみは伴わないものの、喉が引き攣っている。
祐がこの声に応えることの一切を許さぬ様であったのだ。
触れている指から目の前に立っている人間の立ち位置を想像し、それが耳元で聞こえるなどあり得ないと思いながらもこの場所に縛られては呼吸の仕方すら思い出せなくなっている。
不自然なまでにそれが居心地の良いもののように思えることに対して生じる、強烈な拒絶反応が身体を左右に引き裂こうとしているように思えていた。
「なに、難しいことではない。構わぬ、今度の期待もなかったことにしてやろう。全てお前があるべきお前の姿だ。もとより舞台を見渡しておけば、そう、今の貴様には過ぎた感情でしかない」
正しい呼吸が血液を巡らせることを再開する。
恐ろしくなるほど緩やかな眠気が思い出したように訪れるのだ。
「そうだろう? 茅間伊三路が優しいのか、貴様の無駄な努力がなに一つの意味も結ばず果ての徒労に終わろうとしているのか、履き違えられては困る」
同意を求めてうっそりと暗がりから牙を撫でる声がざらついている。
「事実、貴様にこうしてやるのは何度目だと思う。初めてのことではあるまい。よもや意識がこれほどしっかりしていたことがあったか、と問われれば定かではないが答える義理もなかろう」
長く息を吐こうとした瞬間にも満たぬ間を以って意識は断絶して途切れていた。
クスクスと幾重にも重なった笑みが囁いている。
「礼には及ばない。なにせ、そのようなことでは吾が退屈で退屈で満ち足りぬゆえ。貴様らの言葉で言う"貸し"というものにしておいてやろう」



前頁 目次